★今日のベビメタ
本日3月10日は、BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。
日本文化の精神性・神秘性を欧米人の立場から紹介したのは、1924年(大正13年)に、東北帝国大学に招聘されたドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel、1884年~1955年)である。
ヘリゲル氏は、せっかく日本に来たのだから、哲学者として日本文化の神髄である武道を学ぼうと思い立ち、同僚の紹介で、弓術・大射道教を創始した阿波研造氏に弟子入りする。
ヘリゲル氏はピストル射撃の経験があり、それが弓道に役立つと思っていたが、全く違った。
阿波研造氏は、ヘリゲル氏に「的に当てることを考えるな。肩と全身の力を抜き、両手だけが弓を引くのを“見ている”ような心持」とか、「意識して呼吸するのではなく、ただ呼吸しているだけにせよ」とか、果ては「弓の上は天を指し、弓の下は地を指す。弓を放つ瞬間は、木から雪が落ちるように、花が咲くように」とか、ヘリゲル氏にとっては理解不能な言葉で弓の極意を教えた。
要するに「無心」になれということだろう。
だが、身体の力を抜くことも、呼吸法も上手にできず苦しむヘリゲル氏に、阿波師は具体的なアドバイスなどしてくれない。それは修行者自身が体得するしかないからだ。
あるとき、ヘリゲル氏はたまらず、師に「弓を放つのは、“私”ではないのでしょうか」と尋ねた。
すると、師は「弓を放つのはあなたではなく、“それ”なのです」と答える。
ヘリゲル氏が「“それ”とは何ですか」と問うと、師は「もし答えがわかったら、あなたは私を必要としない。“それ”を簡単に教えたら、私は追放されてしまう」と答えたという。
それでもヘリゲル氏がめげずに型にしたがった修行を続けていると、あるとき、矢が無意識に放たれるという経験をする。すると見ていた阿波師がヘリゲル氏に一礼し「いま、“それ”がいました」といい、ヘリゲル氏にも“それ”に向かって礼をするように促したという。
このあたり、ぼくにもよくわからないが、阿波師の教えとは、弓を放つ瞬間、無我・無心の境地に達すると、自意識とは別の「何か」が現出し、超絶的な技を生むというようなことなのだろう。
実際、阿波師はヘリゲル氏に、真っ暗闇の中で、50メートル先の的の前に線香を置き、二本の矢を放つところを見せた。1本は的の真ん中に命中し、もう1本はその矢を引き裂いて、同じく的の真ん中に刺さっていたという。
まさに驚愕すべき東洋の神秘だが、阿波師は、ヘリゲル氏に、「百発百中させることが弓道の目的ではない」とも言う。
それは曲芸師のやることで、武道家というものは、“それ”とともにあること、そのような自分になることが最も肝心だというのだ。
それ以降、ヘリゲル氏は、良い「射」(しゃ、矢を放つこと)ができたときと、悪い「射」だったときが、はっきりわかるようになったという。
“それ”が現れるのを待ち、“それ”が矢を放つのを見ることができれば良い「射」であり、待ちきれずに自意識だけで放ってしまうのが悪い「射」だ。
だが、阿波師は「悪い射だからといって怒ってはいけません。良い射ができたからといって喜んでもなりません」と言う。起こったことをただ淡々と受け入れ、修行を続けること。
“それ”が現れるかどうかはコントロールできないのだから、人間にはそれしかできないということだろう。
武道とは、もともと戦争や闘争のための殺人技術のはずだが、日本人はそれを「道」と呼び、人間性の修練の場とした。
剣道、柔道、弓道といった武道だけでなく、書道、茶道、華道などなど、あらゆることが「道」となるのが日本文化だ。
6年間の修行と任期を終えて、ドイツに帰国する頃には、ヘリゲル氏は阿波師より五段の免状を授かるまでになった。
哲学者であるヘリゲル氏が見出したのは、日本文化の核心に禅の思想があるということだった。
帰国後の1936年、日本での体験を元にした講演を行い、1948年には『弓と禅』(Zen in der Kunst des Bogenschiessens)を出版する。
ヘリゲル氏はナチス系の大学で教授を務めたため、戦後は公職を追放され苦労したというが、戦前に出版されたこの本は英訳もされ、欧米で広く読まれた。元ヒッピーで、禅に多大な関心を持つアップル創業者の故スティーブ・ジョブスも愛読していたという。
邦訳では、岩波文庫版『日本の弓術』(1982年)、新訳の角川文庫版『弓と禅』(2015年)、福村出版の『弓と禅』(1981年、稲富 栄次郎、上田 武訳)などが出ている。
自分に自我・自意識があり、快・不快を感じるのだから、他者も同じだろうと想定するところから、社会の共通ルールとしての近代法が生まれ、他者にも同じように見えること=実証によって真理を確定する近代科学が生まれた。
自我・自意識こそ、近代合理主義、現代文明の大本である。
禅は、その自我・自意識を超えたところに「何か」を見出そうとするのだから、近代人の常識の埒外にある。
禅問答という言葉があるように、禅の教えは難解である。
だが、実は禅の修行とは、臨在宗の公案にせよ、曹洞宗の座禅にせよ、徹底的に自分自身と向き合うことである。禅でも、人間に自我・自意識があることは、前提なのである。
例えば、臨済宗で用いられる公案には、こんなのがある。
―『碧巌録』第三十二則より引用―
一人の修行僧が臨済和尚に尋ねた。
「仏法の肝心要のところは何でしょうか」
臨済は座っていた椅子から下り、その修行僧の胸ぐらをつかんで横顔に張り手をすると、何も言わずに突き放した。
修行僧はぽかんとしたまま立ちつくしている。
そこで、わきにいた別の僧が言った。
「臨済老師はもうお答えになりましたよ。なぜ礼拝しないのですか」
修行僧はあわてて礼拝をした。
礼拝をする最中に、修行僧は悟った。
―引用終わり―
わけがわからないが、これを聞いた者はひたすらこの公案の意味を考え続けるねばならない。正解はあるにはあるのだろうが、実際には、考え続けること自身に意味がある。
考えるという行為は、自我・自意識がなくてはできない。なぜ、意味が分からないのかに悩み、わからない自分=自我・自意識とは何かを考え続けていくと、そういう自分を見つめる「もう一人の自分」が現出してくる。だが「もう一人の自分」にも答えはわからない。そういう「もう一人の自分」とは何かを考えてゆくと、どこまで行ってもきりがない。そのうち笑えてくる。一体、自分とは何なのか。
そう考えると、公案の意味がなんとなく読めてくる。
修行僧は、和尚に叩かれて痛みを感じた。そして、それこそが仏法の核心なのだという。痛みを感じる自分、ポカンとする自分。その自分に気づくことが、最も大切なのだ。
これが正解かどうかはわからない。
ぼくの考えでは、悟りとは、仙人あるいはスーパーマンになることではなくて、自我・自意識=常識に縛られて生きている自分を相対化し、それに固執しないという生き方を指すのだと思う。
常識を超えるという意味で、禅は実証的な西欧合理主義の真逆に見えるが、「神」のように「見えない何かを信じる」ということではない。自我・自意識を超えたところに生じる“それ”は荒唐無稽なことではなく、ヘリゲル氏が目撃したように、実在するのである。
BABYMETALも2014年の段階から、「アイドルでもなく、メタルでもない」Only OneのBABYMETAL道を歩む、と宣言している。
「アイドル」「メタル」というジャンル分けの「常識」、メタルは荒々しい男たちの音楽という「常識」、メタルにダンスはないという「常識」を打ち破り、ひたすら歌唱・ダンスという表現を磨き、観客の心を動かすBABYMETAL道。
日本では、BABYMETAL道と聞いても、あまりその重みを感じないが、欧米人にとって、音楽活動が哲学的な「道」になるというのは神秘的なことに違いない。
(つづく)


