秦氏の末裔(1) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

May the FOXGOD be with You―

★今日のベビメタ

本日106日は、2012年、Legend “I”@渋谷O-Eastで、初の1000人越え会場での単独公演が行われ、神バンド初降臨し、2015年には、KBC九州朝日放送「アサデス」インタビューが放送された日DEATH

 

BABYMETAL WORLD TOUR 2018 in JAPAN EXTRA SHOW “DARK NIGHT CARNIVAL”@さいたまスーパーアリーナ(1028日)の一般発売が始まりました。

今回は5つのルートでの発売DEATH

 

■プレイガイド最速先行(ぴあ/抽選)

受付期間:106日(土)18:00 ~ 109日(火)23:59

URLhttps://pia.jp/v/babymetal18dnc-p/

■クリエイティブマン会員先行(抽選)

受付期間:106() 18:00 109() 23:59

クリエイティブマン3Aメンバーズ:http://www.cmp-members.com/

クリエイティブマン・モバイル:http://www.cmp-members.com/mobile/

■アミュモバチケット先行(抽選)

受付期間:106()1800109()2359

URL http://a.amob.jp/mob/news/ticketShw.php?site=A&cd=1544

■イープラスプレオーダー(抽選)

受付期間:10/13() 18:0015() 23:59

URL : http://eplus.jp/babymetal18/ 

■ローソンプレリクエスト(抽選)

受付期間:1013() 18:0015() 23:59

URL : http://l-tike.com/babymetal

 

YouTubeBABYMETAL公式チャンネルで、「Distortion」@Download Festival 2018も公開されたことだし、新たなメイトへの布教チャンスですね。

ちなみにぼくは最前列やや上手寄りの柵に最愛半纏を着て、ギチギチに圧縮されておりました。改めてプロショット動画を見ると、SU-の凛々しいこと、MOAの奇麗なこと。

BABYMETALがもはやKawaiiではなく、Kakkoii存在に成長したことを実感しました。

 

103日放送のBSフジ「プライムニュース」は石原慎太郎氏と堺屋太一氏の出演で、テーマのひとつは在留外国人問題だった。堺屋氏の主張は、外国人に日本文化を教えて、テストに合格したら国籍を与え、日本人になってもらえばいいというもので、石原氏も基本的に賛成だと述べ、お祭りに参加させたらいいと言っていた。たまたまこのブログと話題が重なっていてちょっとびっくりした。

さて、今回はBABYMETALの神であるキツネ様ことウカノミタマ信仰を日本に持ち込んだ古代の帰化人、秦氏について考えてみる。

お稲荷様=ウカノミタマ信仰の総本山は、京都駅からJR奈良線で約10分、「稲荷」駅前にある伏見稲荷である。

行ってみるとわかるが、本殿左横から続く千本鳥居とは、三の峰下社、二の峰中社、一の峰上社を経て稲荷山をぐるりと回る2時間も続く階段状の登山道である。果てしなく続く朱色の千本鳥居の中を登っていくと、全くの異世界に入っていくようで、何度も鳥肌が立つ。

一緒に登っていく観光客は圧倒的に外国人。中国語、韓国語、スペイン語、英語、フランス語、インドネシア語などなどが飛び交う光景は、イタリア・バチカン市国にあるシスティーナ礼拝堂の中と同じだ。

だが、ここは観光気分では手に負えない。山登りの装備をして、気合を入れてかからないと稲荷山の頂上までは行けない。

ぼくは15分ほど登った「重軽石(おもかるいし)」のところまでしか行ったことがない。

『お稲荷さんの正体』(井上満郎、洋泉社)によると、稲荷山には三基の前期古墳や磐座=祭祀場の跡があり、ここはもともと、縄文時代から続く山岳信仰の場だったらしい。

その聖地をウカノミタマ神が鎮座する稲荷神社にしたのは、渡来人で、のちの平安京=山背の国に住み着いた秦氏だった。

秦氏がどこからやってきたかについては、秦という漢字から「秦の始皇帝の子孫」であるとか、韓国東部にあった新羅国の「波旦(はだ)」から来たとか、1世紀から2世紀に中央アジアにあった「弓月(ゆづき)国」から来たとか、秦とは「大秦国=ローマ帝国」のことで、ハタ→ユダという発音から「ユダヤ人」であるとか、諸説ある。

少なくとも、古来から日本にいた氏族ではなく、大和朝廷が成立した後に海外から移住してきた人々であることは、秦氏が『新撰姓氏録』(815年)の「諸蕃」(渡来人)に分類されていることから、はっきりしている。

また、機織り(はたおり)という言葉があるように、秦氏は、雅楽、工芸、機織り、養蚕、土木技術など先進的な技術・技能をもった集団だったことも間違いない。

秦氏は一体いつ頃日本に来たのか。

『新撰姓氏録』には、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖と記述されてはいるが、この説が広まったのは9世紀以降であることから、信ぴょう性は薄い。

物証として、秦氏が集団で居住していた場所を調べてみると、豊前国(現在の大分県)、吉備(現在の岡山県)、摂津国豊嶋郡(現在の兵庫県)、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)と分散しており、これを勘案すると、ある程度の規模の「移民」として、朝鮮半島から九州北部に上陸し、山陽地方を通って近畿地方に来たらしいことがわかる。

『日本書紀』の雄略天皇紀(400年代後半と推定)に、「山背の内村、附見村の人々を贄師部(にえはじべ=祭祀用の土器を作る部民)とした」という記述があり、奈良の山の後ろ、という意味の山背の国(=のちの京都の領域)に「ふしみ」という地があり、特殊な技能を持った人々が住んでいたことがわかる。

雄略天皇は、秦氏のリーダー秦酒公(はたのさけのきみ)を各地の秦部・秦人の統率者とし、公の姓を与えたとの記述もある。また、欽明天皇(509571)の時代には秦大津父(はたのおおつちち)が大蔵掾に任ぜられたとある。政府の財務事務次官といったところか。

聖徳太子(574622)も、秦氏出身の秦河勝(はたのかわかつ)をブレーンとして重用した。「和をもって貴しとなす」という十七条憲法や、アルカイックな微笑をたたえた弥勒菩薩を安置した広隆寺の創建にも、秦河勝が関わっている。

つまり、秦氏ははじめ渡来人の技術者集団として、のちには政府高官として、日本の行政の中枢に地位を得たことになる。

だが、秦氏が伏見稲荷を創建したのは、さらに時代が下る。

秦氏がここに神社を創建したという記録は、『群書類従』神祇部所収の『二十二社註式』(室町時代成立)に、「人皇四十三代元明天皇の和銅四年辛亥、始めて伊奈利山の三箇峯の平らなる処に顕れ坐す。是秦氏の祖の中家等の抜木殖蘇なり」とあり、それが和銅四年=711年であるとされている。古くから信仰の山だった地に住み着いた秦氏は、すぐに自分たちの信じる神の社を作ったのではないのだ。

仮に3世紀後半に北九州に渡来し、伏見に住み着いたのが5世紀前半とすると、伏見稲荷の創建は8世紀前半。渡来から数百年もあとのことである。

とすれば、秦氏が遠い中東からアジア大陸を横断し、シルクロードを経て日本にたどり着く間、稲荷信仰を携えてきたという説は、にわかに雲行きが怪しくなる。それほど苦労して氏族としての信仰を守ってきたのなら、日本に定着したらすぐに神社を作るはずだ。

もっとも、天照大神と素戔嗚命の姉弟、その誓約で生まれた宗像三女神、素戔嗚命とアメノウズメの娘ウカノミタマ神やその弟神の大歳神という日本神話自体が、8世紀に成立した『古事記』(712年)や、『日本書紀』(720年)に記述されたのだし、秦氏と関係があるともいわれる八幡(やはた)神社、宇佐八幡宮が創建されたのも8世紀に入ってからである。

『古事記』『日本書紀』には、崇神天皇、垂仁天皇(BC1世紀)の時代に、天照大神を伊勢国に祀ったという記述があるが、伊勢神宮にトヨウケの神、すなわち天照大神に食事をさしあげる神を祀る外宮ができたのは、天武天皇の治世(7世紀後半)である。

つまり、日本神話や神々を祀る神社という形態そのものが、7世紀後半~8世紀前半に確立され、そこにウカノミタマ神が組み込まれていたのである。

考えてみれば、トヨウケ神=ウカノミタマ神は、朝廷の行政組織において生産技術や財政を司る、いわば「天皇家の下部構造」であった秦氏自身を表した神ではないか。

それが日本神話に組み込まれているのも、実は秦氏の息のかかった記述者が日本神話を書いたからではないのか。つまり、秦氏は完成した日本に溶け込んだのではなく、朝廷とともに日本という国そのものを作った氏族ではないのか。

中臣鎌足=藤原氏が閨閥政治で歴史の表舞台に立ったのとは真逆で、渡来人だった秦氏は決して歴史の表舞台には立たなかったが、生産技術や首都(=平安京)の開発を黙々と続け、日本の繁栄に不可欠の存在、「豊穣神」として名を刻んだのではないか。

この生産と財政を司るという秦氏の性格が、五穀豊穣、商売繁盛を願う庶民のお稲荷さん信仰につながったわけである。

でも、なんでキツネ?

(つづく)