国際化のアポリア(5) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日929日は、2012年、FMNack5ESPプレゼンツ「音楽人」に出演し、2016年には、米ワーナーブラザースと提携したアニメが制作されるとの発表があった日DEATH

 

戦前の日本が、天皇が独裁する悪の帝国だったというイメージは、進駐軍がWGIPで刷り込んだ結果に過ぎない。

ちょっと寄り道して説明しておく。

明治憲法では、内閣総理大臣に関して明確な規定がなく、「主権者」である天皇が、他の国務大臣と同様に、輔弼者(ほひつしゃ、補佐役)として任命するもので、現在のように閣僚を罷免する権限はなかった。

とはいえ、内閣総理大臣は行政の長であり、内政、外交、軍事の決定権を握り、国の行方を左右する存在だった。

当初、貴族院の「明治の元勲」や軍部から任意に選ばれていたが、国民が選んだ衆議院の多数会派が、内閣と対立することも多くなり、1920年以降は、何度かの例外を除き、衆議院第一党が党首を内閣総理大臣候補として推挙し、天皇が任命するようになった。現在と同じだ。

1925年(大正15年)からは、納税規定がなくなり、25歳以上の男子は全員選挙権を持つようになった(普通選挙)。

満州事変から太平洋戦争へと向かい、「戦争への道をひた走る」と常套句のように言われる昭和初期、衆議院議員選挙は、第161928年(昭和3年)、第171930年(昭和5年)、第181932年(昭和7年)、第191936年(昭和11年)、第201937年(昭和12年)、第211942年(昭和17年)と、法律に従ってきちんと行われていた。

この頃には、立憲民政党と立憲政友会の二大政党が466議席を巡ってしのぎを削り、選挙ごとに与野党が入れ替わっていたが、労働農民党、日本労農党、社会民衆党、日本農民党といったいわゆる無産政党も少数ながら議席を得ていた。日中戦争が始まった1937年の第20回総選挙では、無産政党である社会大衆党が37議席を獲得し、第3党に躍進した。浅草六区の繁華街は賑わっていた。

当時の投票率は80%前後。男性だけとはいえ、自分たちの代表者として国会議員を選ぶ責任感は、今よりももっと多くの国民が共有していたといえる。

それは、戦時中の1940年、東條英機首相のもと、既存政党がすべて大政翼賛会に合流した第21回総選挙でも変わらず、投票率は83.2%だった。

つまり、日本では、戦前も戦中も、選挙による議会制民主主義は機能していたのだ。

ではなぜ、「あの無謀な戦争」「アジア侵略」を防げなかったのか。

そうではない。こういう設問自体が、WGIPの情報操作によるものなのだ。

1941年、対米戦争を戦わざるを得なかったのは、親中派のルーズベルト大統領の策略にまんまと嵌められ、中国からの撤退など、日本が飲めない要求を突きつけ、制裁処置として石油の供給を絶たれたからである。

その少し前の1937年、泥沼の日中戦争に引きずり込まれたのは、盧溝橋事件の勃発後、日本政府が不拡大方針をとり、和平交渉を進めていたのに、アメリカに支援された蒋介石の国民党軍が度重なる挑発を行い、満州の万里の長城の南にある通州の日本人居留地で、中国人保安隊が国民党のデマに乗せられて、朝鮮人を含む居留邦人を無残に虐殺した通州事件が起こり、マスメディアを通じて、日本人の間に「膺懲」(ようちょう、懲らしめること)の機運が盛り上がったためである。

さらにその前の1931年、満州事変を起こして、満州国を建国したのは、清王朝の故地である当時の満州が、国民党政府の影響力が及ばず、馬賊が跋扈する「化外の地」になっており、そこを狙ってソ連が迫ってきていたためである。

1875年の江華島事件、1894年の日清戦争と台湾割譲、1904年の日露戦争、1910年の朝鮮併合といったそれ以前の明治政府の一連の外交・軍事政策の流れは、イギリスやロシアによる隣国の植民地化を防ぎ、近代化を支援するためである。

そもそも1868年に明治維新が起こり、新政府が近代化=富国強兵政策をとったのは、19世紀の欧米列強がアジア各地を次々に植民地化しているという脅威が背景にあったからである。

もちろん、これはすべて日本の立場から見た都合のよい話であり、二度と誤りを繰り返さないよう、「支援される」側の目線を考慮したり、細かな検証を行ったりする必要はある。

だが少なくともWGIP史観だけが正しいと思い込む必要はない。

日本には日本なりのやむに已まれぬ事情があったのだ。

1937年の第19回衆議院議員選挙まで、国会では与野党が頻繁に入れ替わり、紛糾といってもよい闊達な議論が行われていた。当時の投票率は80%前後だから、もし有権者の中にこれらの一連の外交・軍事政策が「悪いことだ」という認識があれば、政府が勝手に実行できるはずがない。

いや、満州事変など軍部の一部が政府、議会の意向さえ無視して暴走したことはある。だがそれが国民の大批判を呼ばなかったのはなぜか。

それは、国民に伝えられる情報が、当時は極端に少なく、マスメディアがこれら政府の政策や日本軍の快進撃を喝采し、敵を非難していたからではないか。

19377月、盧溝橋事件の停戦交渉中に、中国人が居留日本人を猟奇的に虐殺した通州事件を報じる東京朝日新聞の見出しは、

「保安隊変じて鬼畜」

「罪なき同胞を虐殺」

「恨み深し!通州暴虐の全貌」

「さながら地獄絵巻」

「鬼畜の残虐言語に絶す」

といったもので、記事には詳細な目撃談が掲載されていた。

これで日本軍が何もしなかったら、それこそ国民は大反発しただろう。日中戦争は避けようがなかった。

さらに太平洋戦争は日中戦争とリンクしていた。ルーズベルト政権の国務長官ハルが手交した最後通牒、ハル・ノートは、中国、満州、南部仏印からの日本軍撤退と日独伊三国同盟からの脱退を条件にしていた。日本政府は何とか対米開戦を避けようと妥協案を検討していたが、これがアメリカの最終案なら、飲めるはずがない。ヨーロッパでナチス・ドイツが戦線を拡大する中、ルーズベルトは、日本に先制攻撃をさせ、参戦の機会を狙っていたのだ。

1920年代~30年代の日本の衆議院議員選挙の投票率は80%前後に上る。

だから、あの戦争は「軍部の独走」や「天皇の責任」に帰するものではなく、マスメディアの情報をもとに国民の多くが支持し、泥沼化していても後戻りできず、引きずり込まれていったものだと考えるべきである。

戦前の日本は、明治憲法下にあっても普通選挙が実施される民主主義政体であり、厳格な法治主義国家だった。

だが、民主主義政体の最大の弱点は、主権者である国民が情報統制に弱いことである。

ヒトラーは選挙によって政権を握るとすぐに議会を解散し、新国会で全権委任法を成立させると、ナチス以外の政党を禁止し、議会そのものを形骸化させた。300紙もの新聞を配管に追い込み情報統制をしいて、親衛隊SS、突撃隊SA、秘密警察ゲシュタポによる暴力的な独裁体制を構築した。

レーニンの死後、書記局の序列では下っ端だったスターリンは、秘密警察「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」(チェーカー、のちのKGB)を掌握すると、レーニンの後継者筆頭だったトロツキーを国外追放してメキシコで暗殺し、共産党内のライバルを次々と収容所に送り、あるいは粛清し、独裁体制を構築した。

日本ではこういう独裁者こそ現れなかったが、内閣調査局と資源局が合併して企画局~企画院が作られ、そこに集まった「革新官僚」たちが、ソ連の計画経済を真似た戦時統制経済体制を構築した。それが1938年に第一次近衛内閣が成立させた国家総動員法の骨格となり、政治的にも、反対者を許さない大政翼賛会体制が形成された。

「和をもって貴しとなす」「万機公論に決すべし」という民主主義は日本の国風なのに、エリート官僚が「非常時」を盾に、国民の目と耳をふさぐ情報統制を行い、いとも簡単に牛耳ってしまった。

そして、これこそ少数のエリート=前衛党が「指導者」として権力と情報を独占し、政治・経済・社会・思想、国民生活のすべてを支配するレーニン以来の共産党の本質である。

日中戦争が泥沼化し、資源が不足する中で、エリート官僚たちが、本来の国風とは真逆なのに、こともあろうにソ連式の計画経済を取り入れたところに日本の失敗があった。

計画経済とは要するに「ノルマ制」のことである。官僚が弾いた「目標」を各部署や企業に割り当て、「達成率」で統制する。計算通りにいけばうまくいくはずだ。

しかし、「ノルマ」を割り当てられた各部署や企業は、「上」に怒られるのが怖さに、数値を少しずつ「水増し」する。それを合算した全体数値は、現実と全く乖離してしまう。にもかかわらず、全体の情報は公にされず、現場で臨機応変に対応することもできないし、許されない。日本軍がむやみに戦線を広げて兵站を維持できなくなったのはそのためであり、ソ連、東欧の社会主義国が破綻したのも、そのためである。官僚による机上の計算など、現場のリアリティや人間性を考慮しない、絵に描いた餅なのである。

中華人民共和国が経済発展したのは、鄧小平時代に自由市場を取り入れ、アメリカ、日本など西欧資本主義国との交易を自由化したからである。

もっとも、それにより、平等を旨としたはずの共産主義国なのに、一部エリート=都市部の共産党関係者と地方の庶民との貧富の差は極端に開いた。自由化に伴う「反革命」を防ぐため、共産党の支配力や情報統制は強化され、不満のはけ口としての反日教育が始まった。軍備増強が進み、今やアメリカと世界制覇を競う「アジアの盟主」となった。

いくら嫌いでも、14億もの人口を抱えながら、民族/民衆の反乱を抑え込み、70年近くも国家を運営し、発展させてきたのだから、中国共産党はたいしたものである。

だが、どうしても言わねばならないのは、大国になったからといって、それが国民や近隣諸国の人たちの怨嗟の上に立っているなら、何の意味もないということである。

現在の日本でも、エリート官僚が勝手に国のしくみを変えてしまう危険はある。獣医学部新設の申請を「通達」一枚で門前払いしていた文科省がその典型だ。

だが、今はインターネット時代であり、隠れてコソコソ悪いことをしても、すぐに内部から広がってしまうし、マスメディアが情報操作しようとしても、必ず検証にさらされる。官僚の不祥事が次々と明るみに出たのは、良いことなのかもしれない。

日本人は、もう一度十七条憲法の精神に立ち返るべきなのだ。

出身氏族の利害を超えて、「和」の精神をもって協調し、みんなで国づくりをすること。

独断、独裁を許さず、話し合いで合意を形成する民主主義の伝統。為政者や官僚は、私利私欲のためではなく民衆の奉仕者になること。

いったん決まったからには官民心を一つにして突き進む集中力などの日本人らしさ=国風は、聖徳太子以来の美点である。

これを譲ったら、日本が日本でなくなってしまう。

いや、近代化と戦後の教育によって、すでにだいぶ失われてきているのではないか。

逆に言えば、こうした美風を学び、継承してくれるなら、外国に生まれた方が日本人になってくれるのは大歓迎である。

(つづく)