ジャワ・パンナコッタの雑記帳 -2ページ目

ジャワ・パンナコッタの雑記帳

音楽(主にJazz)、書籍(主に歴史)、旅行などの感想を書きます。
2011年2月から約2年間、イギリスのリーズで派遣研究員として勉強したました。
イギリス生活のことや、旅行で訪れて撮りためた写真などを少しずつアップしていこうと思ってます。

思うところあって、ブログはほとんど更新していなかったが、

思うところあって、またボチボチとテーマを絞って気が向くままに再びアップはしていこうと思う。

 

内容は多分もっぱら、昔、留学中に訪れたイギリスの観光地などの紹介になると思う。

留学中に遊びまくっていたのはもう、時効だろうし、最低限の責任は果たしたような気がしないでもないので・・・。

小学3年生の長男がカミさんと、ピアノ教室のクリスマスコンサートに向けて、星野源のドラえもんを連判で弾く練習をしている。その後ろでは4歳児の次男が仲間に入りたくてホイッスルを吹きならす。

リズミカルなんだけどそこはかとなく哀愁漂うメロディといい、我々の世代のすぐ側にかつては居たはずのドラえもんと言う存在といい、なんだか訳もなく泣きたい気持ちになってくる。

ガキから少年になろうとしている長男。そう遠くない未来には青年となり、少しずつ、でも確実に世知辛い社会というものに揉まれるようになり、"ドラえもん"の世界から旅立っていくのだろう。かつての私のように。

全ては過ぎ去っていくものだよね。諸行無常とはよく言ったものだ。

以上、日常の何気ない風景の中で、突如襲われた哀愁を徒然と。

最初に作ったのは、FostexのFE83-Enを3つ使った、長岡鉄男氏設計のMX-15。

次に作ったのは、TangbandのW3-881SJFを使ったJSP方式のスピーカー

 

その後、さらに2つのスピーカーを作る羽目に。。。

 

3つ目;Mark Audio Pluvia Seven使用 バスレフ

 

8cmのユニットを使用したスピーカーを2種類作ったところで、それよりも少し大きめの10cmのユニットを使用したスピーカーが作りたくなり、作成を決意。形状としては、3つ目ということで、ここは普通にバスレフを作ってみるかと。

当初はTangBandの10㎝のユニットを使って作ろうと思っていたのだが、秋葉原のコイズミ無線に行って、店員さんと話している中で、こちらを勧められて、急きょ浮気。SoftChromeの艶やかな色合いもカッコよかったというのも、理由の一つ。

大きさは、リビングの出窓や、書斎スペースの本棚に置くことを想定しつつも、できるだけ大きめの箱として容積10Lで設計。共振周波数は52Hzとした。

spedのシミュレーション結果はこちら↓

 

木材は板厚18mmのラワン合板を使用。それから、ツキ板代わりに直径123mmの丸穴を開けた厚さ3mmのシナ合板を正面の板に圧着して、ザグリを作った。

また、ダクトは内径40mmの塩ビ管を切断して使用。

吸音材は、厚さ10㎜のウール100%のシートを内側3面に張り付けて使用。

表面は水性のウレタンニスを5回。

 

エージングがてら2~3か月ほど使用して評価した。2つ目のJPSスピーカーでちょっと不満であった色艶という点では、こちらの方が良かったのだが、低音がイマイチで全体のバランスという意味でJPSスピーカーの方が優れていると感じて、あえなく、JPSスピーカーがリビングに返り咲き。

JPSスピーカーは結構、突貫で作ったのに対して、ユニットの値段という意味でもPluvia sevenの方が高く、作るのにも手間と時間をかけたのに、こういう結果になって、ちょっとガッカリした。

 

そうこうしているうちに、週末のリビングは子供たちに占拠され続け、書斎スペースにラズパイオーディオを導入し、音楽を聴ける環境を作ることに。そこでこのスピーカーを本棚に設置した。これは、本棚に入れられる設計としたことが、本当に役に立った。

そうして聴いているうちに、このスピーカー(というか、ユニットだろうが…)が本領を発揮し始めて、低音が出るようになり、さらに音色の艶やかさに一層の磨きがかかて、とても美しい、とろけるような音を響かせてくれるようになった。どうも、このPluviaというユニットはエージングに結構、長い時間を要する様子。

いずれにせよ、新年早々、リビングに復帰。

 

じゃぁ、それでめでたし、めでたし。といかないところが趣味の世界(特にオーディオ)の泥沼。

 

4つ目;FaitalPro4EF32使用バスレフ

春が近づいて暖かくになるとスピーカーが作りたくなる困った病気に罹患している私、3つ目の自作スピーカーに満足しているのだが、一つ、気になる点が。

それは、MarkAudioのPluvia Sevenは出力音圧レベルが85.843dBと、決して高くないこと。今のトランジスタアンプやデジタルアンプでドライブするぶんには、全く問題ないんだろう。しかし、私がリビングで使用しているのは三極管2A3のシングルアンプ。普通に聞く分には音量の点では全然困らないのだが、真空管アンプを活きるのってやっぱり高能率スピーカーを繋げた時だよね。実際、Pluvia Sevenのバスレフも、真空管アンプに繋げた時は、その特徴であった音色の艶やかさが少し減衰してしまう印象だったし。

ということで、4つ目のスピーカーを作成することに。

 

ユニットは、10cmのもので、且つ、能率重視でFaitalPro4EF32(出力音圧レベル91dB)に決定。

箱の大きさは、3つ目と全く同じ。容積も10L。一方で共振周波数は欲張らないで67Hzとした。

 

spedのシミュレーション結果はこちら↓

 

板取り図はこちら↓

実際には、板を購入&カットしてもらったホームセンターには、厚さ18mmのラワン合板はロクハン(1820×910)のみしか置いていなかった。なので、ラワン合板右上の240×150の板2枚については、上の図のようにはカットしなかった。(大分、板を余らせたのは、もったいなかったが、しょうがない。)あと、突板&ザグリ作成用のシナ合板も同じように準備。ただし、ユニットの形状に合わせて厚さは6mm。シナ合板のザグリ用の丸穴は、ユニットのちょっと変則的な形状に合わせ、うまくはまり込むように、その後、自分でへっこら加工した。

 

その他、ダクトは内径40mmの塩ビ管を切断して使用。

吸音材は、厚さ10㎜のウール100%のシートを内側3面に張り付けて使用。

表面は水性のウレタンニスを5回。

といったところは、3つ目のバスレフと全く一緒にした。

ただし、ボンドは初めてタイトボンドを使用。粘度が低いので、ちょっと使いにくかったかな。

 

そんなわけで、4つ目のスピーカーが昨日、完成。

真空管アンプに繋げて、音出し&エージングを始めたところであります。

音離れが良いって、こういうことを言うんだね。非常にいい感じ。

さらに、エージングが進んだら、もっと良くなることを期待してます。

一方、Pluvia Sevenのバスレフは、書斎スペースの本棚に戻った。ユニットの特性を考えると、そっちの方が相性が良いと思う。

 

めでたし、めでたし。

月日が経つのは早いもので、続きを書こう、書こうと思いながら、2か月も経ってしまった。

そんなわけで、その2です。

 

さて、本題の杉山城。

前回の地図から、もう少しフォーカスした下の地図で、地形と城の配置を眺めてみると、改めて気が付くことが幾つかある。

 

①該当地域は、いくつかの河川によって作られた小地域に分かれている。

 地域A:松山城や菅谷城を中心とした地域。場所や面積の点からも、この辺の地域の中心と言える地域。(図の青点線で囲んだ地域)

 地域B:現在の小川町を中心とした地域。(図の赤点線で囲んだ地域)

 地域C:現在の嵐山・小川ICを出たあたりの地域。(図の紫点線で囲んだ地域)

 あと、D:現在の滑川町北側の地域も一つの小地域ということができるかもしれない。(図の黄点線で囲んだ地域)

②地形を下に、地域Aを中心に、北方との連絡路となりそうなルートは多い。

 西側から、

 ルート1;菅谷城から西、地域Bを経由して北に向かうルート。この経路沿いには、青山城、中城、吉野城がある。

 ルート2;地域Cを経由する経路。この経路沿いには杉山城、越畑城、高見城などがある。 

 ルート3;地域Dを経由する経路。この経路沿いには山田城があり、その付近で2つに分かれて真北に向かうルートと、北西に向かって

      三門城付近を経由する2つのルートがあると思われる。

 それから、

 ルート4;松山城から真北に向かうルート

 ルート5;図の外側になるが、松山城の東側には低地が広がっているので、そちらも北方との連絡ルートになりうる。

 ただし、低湿地帯というのは、治水と土地改良がはるかに進んだ現在の姿や、こういう地形図から当時を想像するのは簡単ではない。特に関東平野の中心部はこういった場所が広く広がっていたはずで、そういった意味で、戦国関東の実態を想像するのは、他の地域よりも困難が大きいのではないかと、私は感じている。まぁ、余談。

 

③以上を踏まえて地図中の城の位置を見ると、地域の中心となりうる拠点の城と、街道の監視や地域の堺目を守る所謂境目の城の2つに分けられる。

 具体的には、拠点の城は、中、越畑、羽尾、菅谷、青島、松山などの城。

 一方、境目の城は、吉野、高見、三門、山崎、高谷、山田、吉寺、青山(図ではわかりにくいが下線を引っ張ってある)等の城と考えられる。

 なお、腰越城は、いわゆる詰めの城の性格が強い城と推察される。

 

 で、改めて杉山城。

 立地としては、市野川沿いの平地が狭まったところに築かれており、南西方向には遠くまで見通せない。北方は城の搦め手にあたるが、丘陵地帯が続いており、そちらの見通しも悪い。一方で、南東側に開けていて、ちょうど菅谷城の方向(図中の意扇型方向)の視界は広く遠い。

市野川沿いの小盆地(地域C;紫色の点線の地域)を考えてみても、この小盆地が広く開けているのは杉山城よりももう少し北、ちょうど嵐山小山IC周辺から八和田郵便局のあたり。ここには、別に越畑城がある。

 逆に、地域Cは、越畑城を中心に、境目の城として高見城、高谷城、杉山城が配された地域としてみると、非常にスッキリする。

ということで、杉山城は地域Cを守るための境目の城とみるべきだと思う。

 

 では、杉山城は誰が何時、築いたか。

 以前、はみ唐さんのブログのコメントで、私は、第2次松山城攻防戦の最中に、武田軍の退路確保と、市野川沿いに上杉軍が進軍してきた場合にこの城を利用して上杉軍に決戦を挑むことの2つを目的に北条氏によって築かれた城では?と書いた。

 このうち、2つ目の可能性は低いと思われる。なぜなら、北方(今の前橋の方面)から松山城を救援する為の進軍ルートは複数考えられ、その中で北条氏の勢力圏の縁をわざわざ通る市野川沿いを進軍してくる可能性は高くないと思われる。その高くない可能性のために杉山城を築いたというのは、いささか説得力に乏しいと思う。

 ※ 実際に、上杉軍はこの地域に真っ直ぐに来ないで、もっと東の石戸城を経由している。その必然性も、特に政治的な意味で十分あると考えられるのは先の記事に書いた通り。

 一方で、武田軍の退路の確保という点では、可能性はあると思う。仮に松山城下の平地部で上杉軍と一戦して敗れた場合、松山城攻城中の武田軍が鉢形領を経由して西上野に撤退する最短ルートは市野川沿いを北上することだから。その際の追撃軍を杉山城で食い止めて、時間を稼ぐというのはあり得るとは思う。

 

 ただ、地図を元に考えたことを素直に踏まえると、杉山城を築くかれたのは地域Aと地域Cが異なる勢力に支配されていた時に、地域Cを支配していた勢力が築いたと考えるべきではないか。と思う。しかも、杉山城はかなり突貫で築かれて、すぐに使用されなくなった可能性が高いので、その地域Aと地域Cが異なる勢力に支配されていた時代は、極めて短時間だったのではないかと思う。

一つ考えられるのは、第1次松山城攻防戦と第2次松山城攻防戦の間。例えば、第1次松山城攻防戦に前後の北条方の攻勢により、地域Cが北条の勢力圏になった場合(ケース①)。あるいは逆に、第1次松山城攻防戦の結果、菅谷城周辺は北条側の勢力圏となり、地域Cが北条の勢力に半分包囲された太田方の飛び地領的な場所になってしまった場合(ケース②)が考えられるかと。

 

そんなわけで前の記事では、第2次松山城攻防戦の直前の勢力圏を想像したが(上の図中の赤が北条方、青が太田方)、この時代に杉山城が築かれたとすると、本当はこの地域の北条氏と太田氏の勢力分布はもうちょっと細かく分かれていたと考えるべきと思われる。

が、ぶっちゃけ、そこまで細かく考えられるほど詳しい文献、残っているんですかね?私の乏しい知識では、あくまで想像の域は出ないので、とりあえずどっちのケースもあり得るということで、地図中ではそのままにしている。

 

あと、赤浜原の合戦の位置づけも考え直す必要があるかもしれません。

ケース①の場合は、太田勢が地域Dから北方に進出して、地域Cの北方から鉢形辺りに圧力を加えた結果起こった合戦である可能性もあると思う。例えば、何らかの理由で、鉢形城に北条氏邦が不在で、その情報を察知した太田勢が攻勢に出た結果とか。実際、赤松原の合戦で、北条方はなぜ氏邦の鉢形勢ではなく腰越を拠点とした上田朝直勢だったのか、個人的には謎と思います。

ケース②の場合は、第2次松山城攻防戦の前哨戦として、地域Cを攻略する任務を負った上田勢と地域Cの太田勢との合戦だったと捉えることも可能かと。文献では、松山城を攻めようとした上田勢と太田勢の合戦とされているようですが、まぁ、そういう文献も当時の伝聞が元になって書かれた文章なんだろうし…。

 

それから当然、もっと別の時期に地域Aと地域Cが異なる勢力に支配されていた時代があり、その時に築かれたのかもしれません。私の知識がないだけで。そんなわけで、ご存知の方は教えてくだされば幸いです。

 

ということで、以上、杉山城徒然その2。

 

結論、ナシ!

誰が杉山城を築いたか、判りません!

 

お付き合い、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

先日、ワルい友人にそそのかされて、杉山城と菅谷館に行ってきた。

菅谷館の敷地内にある埼玉県立嵐山史跡の博物館には、比企郡の城跡の地図の展示があったので、それを元に第2次松山城攻防戦地図を作ってみた。

それがこちら。

いくつか、考えるべき前提があって、大事なのは、第2次松山城攻防戦の直前の比企郡における北条氏と太田氏、それぞれの勢力範囲はどのようなものであったのか?ということ。

上の図では、限られた知識を下に想像して、色分けしてみた。赤が北条方、青が太田方。

1.北条方の上田朝直が腰越城に拠って松山城奪還を目指したという話と、鉢形城には北条氏邦がいたので、現在の八高線沿いは北条の勢力圏と考える。

2.南方は、よくわからないのだが、とりあえず現在の坂戸市、鳩山町辺りまでが北条の勢力圏と想像。

3.岩槻、石戸は太田氏の勢力圏 (←地図は、戸石になっているのは間違い。直すの面倒くさいので、とりあえずそのまま。そこはご容赦)

4.忍、騎西は北条方の成田氏の勢力圏

5.肝心の比企郡の中心部は、太田氏の勢力圏。理由は、直前に赤松原で合戦が行われていること

 

まずは、この地図を眺めて思ったことを脈絡なく。

1.忍や騎西が北条方である以上、松山城およびその北西の丘陵地帯を確保しておくことが、北方の上杉勢との連携を確保する上で、生命線になっていること。

2.逆に、北条方からすれば、そこを奪還することで、鉢形領との連携強化や安定化が図れ、さらにその北方への再進出が見えてくる。また、太田氏と上杉氏との連携を断ち、太田氏の本領を半包囲下に置くことが可能になること。

3.赤浜原の合戦は、上田朝直が松山城の奪還を直接狙ったというよりは、第2次松山城攻防戦の前哨戦として、比企郡北方の支城の攻略により、上杉―太田の連携ルートに圧力を加えることを狙って進軍した結果起こった合戦ではないか?ということ。

4.第2次松山城攻防戦で武田(北条も?)が本陣を置いたという岩殿山正法寺の場所は、ある意味非常に理にかなっている(図中)。現在でもその裏の山は”物見山公園”として整備されており、松山城をはじめ、比企郡の広い範囲を眼下におさめられる絶好のロケーション。上杉軍の来援をいち早くキャッチし、対応するためにも、絶好の場所と思われる。まぁ、北条、武田の攻城軍の多くがここに陣を張ったというよりも、両軍の中枢が大本営を張った場所と考えるのが正しいのではないかとも思う。

5.北条の大兵力に南方から攻められた時点で、比企郡の太田勢は松山城の確保を第一に、動員可能兵力のほぼ全員が松山城に籠ったのではないか。だとすれば、北条氏による第2次松山城攻防戦が始まった時点で、比企郡の太田方の支城群は無力化する。実際に北方から武田軍が援軍に駆け付けた時には、ほぼ素通りでこれらの地域を通過できたと考えるのが自然かと思う。

6.上杉謙信は石戸城に着いた時に、松山城陥落を知ったというが、なぜ、石戸城を経由したか。これ、少なくとも太田資正の本隊と合流した上で松山城を開放しようとしたのではないか。上杉謙信の大群が石戸に着陣すれば、太田氏本領への北条側の圧力に対して睨みを効かせられることになり、結果、太田資正本人にも出陣の余裕が生まれる。その太田氏本隊と合流したうえで、北条・武田連合軍を蹴散らして共に松山城を救出する。松山城救出後の比企領は引き続き、太田氏が納めるのだろうから、そこまで見越した場合、仮に「太田氏は北条に対して無力で本領に籠って何もしなかった。松山城を救ったのは上杉だ。」という結果は、一時、松山城を救えたとしても、太田氏のメンツ丸つぶれな結果になってしまう。そういう事態を避けようとしたのだろう。

7.松山城陥落を知った上杉謙信は怒りまくって、その腹いせに怒りに任せ、騎西をはじめとする周辺の北条方の城を感情的に落として帰っていったというイメージを持っていたが、この地図を見ると、松山城陥落後に騎西城を攻略して、騎西と忍を上杉方に寝返らせたというのは、太田領と北方の連携ルートを確保する上で、非常に戦略的な行動だったと思う。

8.謎。石戸城は1562年に鉢形の北条氏邦に攻められて落とされたという話もあるようだが、松山城を落とせてない段階で、鉢形の北条氏邦が石戸まで出張って来れたのかな?赤浜原の合戦やら、1563年の謙信着陣と整合性が取れないような気が…。逆に、石戸城陥落が松山城陥落後(例えば、1563年)の話と考え、その結果、北方でにっちもさっちもいかなくなった太田氏が乾坤一擲をねらった第2次国府台合戦への参戦に繋がっていったと考えれば、非常に自然で、納得のいく話なのだが…。

 

以上、脈絡なく。

 

杉山城はどこ行った!?

 

つづく、かも。

 

己に批判的な政治家やジャーナリストを暗殺すらしかねない独裁的な権力者に率いられた国家と、自由で民主的だけど停滞と社会の分断に苦しみ、扇動的な権力者に率いられた国家が、弾丸やミサイルが飛び交うだけが戦争ではない今の世の中でガチで遣り合ったら、一体、どっちが勝つんだろう?

 

と、ふと思ったが、そういえば銀河英雄伝説という小説はそれに少しだけ似た話だったな。

 

と、他愛もないことを呟いてみる。

もう半年以上前だが、スピーカーを自作した。

2個目。

 

ネットで調べてJSP方式(http://www.jsplab.jp/hint/)とし、リビングの出窓に置くことを前提に寸法を決めた。

 

板取り図など

 

板は厚さ15mmのラワン合板を使用。

箱の外部寸法は250mm×250mm×275mm

スピーカーユニットはTangBandのW3-881SJFを選択。

ダクトは1個のスピーカーにJantzenAudio P25-102(Φ26mm×120mm)を4本。共振周波数はおよそ56Hzのはず。

内部には吸音材としてニードルフェルトを背面、上下左右に張った。

なお、出窓にはロールカーテンがあって、スピーカの後ろがわに位置している。カーテンの上げ下げと干渉させたくなかったので、ターミナルは横付けとした。(結果的に、これによりユニットを上向きに設置して音を聞くこともできるようになった。音の広がりが変わって、これはこれで面白い。)

塗装は、部屋全体の色調とのバランスを考えて艶消しのニスを塗った。

 

で、できたスピーカー。評判通りにしっかり低音も出て、かつ、フルレンジ一発+W3-881SJFの特性のためか、音のつながりが滑らかでとてもきれい。なかなか良い音だと満足しつつも、定位が思ったほどでもなく、あと音にもう少し色艶が欲しいなぁ・・・などと思いながら半年。

 

ふと思い立ち、それまで水平に置いていた2台のスピーカーをそれぞれ10°くらい内側に向けて置いてみた。そしたら、びっくり。定位感が向上し、そして何より音の立体感というか密度というかが凄く増した。夫につき合わされて音楽を何気なく耳にさせられているカミさんが、「なんか最近、音が良くなった?」と言ってくるレベル。

 

いやぁ、オーディオの世界って、底なしですな。

しかも、ゴールがないのがなおさら始末に悪い。

 

あ、でも僕、先日会社帰りに秋葉原のコイズミ無線に行って、別のユニット(MarkAudioのPluvia Seven)、買っちゃったんですけど・・・。

今のスピーカーの音だったら、満足だから、別に必要なかったんだがなぁ・・・。でも買っちゃったからなぁ・・・。どんなものを作ろうかなぁ・・・。

 

あぁ~~

 
Day to Day Day to Day
 
Amazon
UK Jazzがらみの1枚らしいのだが・・・
 
70年代のDon Cherryの音楽のような部分もあるけど、同時に意外と本質的な部分で発想はRobert GlasperのBlack Radioとかに近いのかなという気もする。
 
でも、Black Radioの完成されたつまらなさに比べたら、こっちの方が、圧倒的に面白い。
 
そして、深い。

 

 

 

このアルバム、製品の売り文句にこうある。

”ジョン・コルトレーン『至上の愛』、ファラオ・サンダース『ラヴ・イン・アス・オール』、そして2015年のカマシ・ワシントン『ザ・エピック』への回答とも言うべき、UKブラック・ジャズの最高峰がここに誕生した。”

 

まぁ、こういうのは、大概にして盛っているんだろうけど、一方で、そう書かれてしまっては聴きたくなってしまうのも性。

 

というわけで、術中にはまって購入。

 

実際に聴いてみると、Shabakaのサックスはあまり前面に出てなくて、しかも、同じようなリフを繰り返すことが多く、呪術的ですらある。カマシ・ワシントンの『ザ・エピック』と比較しても、より黒く、フリー寄りでスピリチュアル。この辺の感覚は、確かに60年代のジョン・コルトレーンや、サン・ラの音楽とのつながりを感じさせなくもない。

ただ、以外と音楽の根底にある発想、志向って、ジャズというよりも、テクノみたいな音楽との共通点の方が大きいのではないかと思う。そっちの音楽の造詣は全くないけど・・・。

 

で、これを新しいジャズの未来につながる音楽かどうかって言われると、正直、微妙かなと思う。この音楽の先にあるのは、少なくとも、私のイメージするジャズじゃないかもしれない。

 

いずれにしても、もう少し聴き込んでみよう。



元々、2001年に出版されていた本に、2001年以降、9.11、イラク戦争、イスラム国の膨張までを加筆したもの。

第一次世界大戦前後から現在まで、アラブ人とユダヤ人を中心に中東での紛争の歴史が、非常に淡々とした文体で、俯瞰的に語られている。最新のニュース、たまに掲載される新聞の解説記事、教科書で読んだ断片的な知識では得られない、一連の流れがきちんと追える良書。
歴史を学ぶって、こういうことだよね。と思う。

なにより、イスラム国の成立や欧米で頻発するテロといった近年の動きが、決してたまたま起こっている一過性のものではなく、イギリスやフランス、そしてアメリカやソ連(ロシア)などの大国に翻弄されながら、自らの生活環境や肉親の命を弄ばれてきたアラブ民族100年の怨讐の果ての行為だということが痛感させられる。

例えば、国を追われ、欧州に難民や移民として流れ着き、異なる文化、慣れない環境の中で生まれ育った彼ら(やその子供たち)にとっても、たとえ平和の中での最低限の生活、現地人と同じレベルの教育を受けさせてもらっているとしても、とらえ方によっては、それは所詮、偽善でしかない。
時に、高等教育を受けたアラブのエリートが強烈な反欧米の活動家になるのは、歴史を知れば知るほど、学べば学ぶほど、中近東で過去から現在まで繰り返される欧米列強の身勝手で場当たり的な行為に怒りを覚えざるを得ないからなのであろう。

テロは決して許すことのできない非道な行為である。が、同時に、彼らをテロに駆り立てるものが何か?それは、きちんと知っておいて無駄ではないと思う。

そして、新版のあとがきで語られる紛争の二重構造について。事態がエスカレートしていく構図が端的かつ見事に語られている。近年の日本を含む極東の動きを見ても、これは我々日本人にとっても決して他人事ではないことを肝に銘じておかなければならないだろう。

とても良い本であった。
【新版】中東戦争全史 (朝日文庫)/朝日新聞出版
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