読書 「終 田中絹代は負けない」 | ゆうべ見た映画

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「松竹映画の栄光と崩壊」その他より

『田中絹代は負けない』の 終わりの回です

 

        赤薔薇

 

戦後も引きつづき 松竹の看板女優として

主役の座を守り続けた 田中絹代

 

溝口健二監督『夜の女たち』

小津安二郎監督『風の中の牝鶏』では

汚れ役に挑戦して 新開地を開拓

 

この二作品の演技に 昭和22年、23年と二度の

毎日映画コンクール女優演技賞を受賞

 

絹代は この受賞により1949年 (昭和24)

戦後初の 日米親善大使に指名され 

これを機に松竹を退社  

 

高価な能衣装と 美しいかんざしで身を飾り

羽田空港から アメリカへと飛び立ち

約三か月間を 現地で過ごした

 

ハリウッドでは 

ジョン・ウェイン、ベティ・ディヴィスらを表敬訪問

メイク方法なども 学んだという

 

ジョン・ウェイン

 

ベティ・ディヴィス

 

翌1950年の帰国時に 絹代は

 

毛皮のコート、緑のサングラス、ハワイ土産のレイをかけ

銀座のパレードでは 「ハロー」と投げキッスを連発

 

 

  

絹代を一目見ようと 集まった人、人、人・・

 

「日本へ帰ったら 今までとは違う

 見事に変身した 田中絹代を見て貰おう」

 

絹代の気持ちは こんなものだったのだろう

 

しかしこれが まだ敗戦を引きづり 

貧困状態にあった 国民の憤りを買い

メディアやファンから 大バッシングが巻き起り

 

絹代は 数か月に渡り鎌倉山に籠り

自殺を考えるほどの スランプに陥った

 

毎日毎日、山のように来ていた

ファンレターが 一通も来なくなったという

 

そんなときに 撮影に入った『宗方姉妹』

この映画の監督は 小津安二郎である

 

絹代の演技には 迷いや逡巡が感じられ

その様子が 小津監督を苛立たせ 

スタッフ、キャストの見守る中

毎回、信じられないほどの テストが繰り返された

 

「鎌倉山の傍に崖があるでしょう

 あそこから 何度も何度も飛び降りようとしたの」

 

共演者の高峰秀子に 

絹代は小さな声で話したという

 

 

このとき 絹代の女優としての ピンチを救ったのが

絹代と同じく 

スランプに苦しんでいた 溝口健二監督だった

  

絹代は溝口のもとで 1952年『西鶴一代女』に出演

 

『西鶴一代女』 共演・三船敏郎

 

御殿女中から 様々な運命をたどり

ついには街娼となって 老醜をさらけ出す

お春という女の一生

 

絹代は 一世一代の名演を披露し

 

 

作品は ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞

 

溝口もスランプから脱し 翌年には同じコンビで 

『雨月物語』で 再びヴェネツィア映画祭で銀獅子賞

 

さらに 

溝口監督『山椒大夫』『噂の女』に出演した絹代は

女優として 完全復活を果たした

 

          赤薔薇

 

1974年

ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した

『サンダカン八番娼館 望郷』

キネマ旬報でも『砂の器』を抑え ベストテン一位となった 

 

神々しいほどの演技を見せた 田中絹代さん

 

この映画の監督・熊井啓さんのご本から

 

昭和49年9月

成城学園での 撮影が最後の追い込みに入った頃

配車係から 

田中さんが仕事終わりに「送りの車」を使わないと聞いた

 

ある夕暮れ、

小雨の中を傘もささずに 駅に向かう田中さんを見かけ

声をかけようとしたが その近寄りがたい気迫に

やむなく見送っただけだったと聞いた

 

映画が完成してから ご本人に尋ねると

この映画の役柄からして

贅沢は許されないと 考えたからだと言った

 

田中さん扮する 元・からゆきさんは

傘の余裕もない あばら家での 極貧の生活をしていた

 

そして「私はこれで もう死んでも構いませんよ」

と言った

 

          赤薔薇

 

この3年後、1977年 (昭和52)

田中絹代さんは脳腫瘍で 67歳で亡くなりました

 

 

最後の作品となった テレビドラマ『前略おふくろ様』

ショーケンの チャーミングなおふくろ様でしたね

 

          赤薔薇

 

絹代さんは十代の頃 清水宏監督と同棲しましたが

2年足らずで解消

 

溝口監督は絹代さんを お好きだったそうですが

片思いに終わり

 

絹代さんは生涯独身でした

 

 

絹代さんは きっと

「林長二郎時代」の長谷川一夫さんが

お好きだったのでしょう

 

遺品のアルバムの中に 彼とのツーショットが

たくさん残されていたそうです

 

 

 

 

 

おしまい