「市川雷蔵 かげろうの死 1」 | ゆうべ見た映画

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ときどき、「懐かしの銀幕スター」「読書」など
そして「ちょっと休憩」など 入れてます。

 

 

田山力哉さんのご本 「市川雷蔵 かげろうの死」から

3回に分けて ご紹介します

 

1931年(昭和6) 

京都市中京区で生まれた 雷蔵さんは

 

その頃、既に 父母の仲が絶縁していた為

生後6か月で 歌舞伎俳優・市川九団次の養子となる。

 

しかし九団次は もともと歌舞伎界の人間ではなく

役者に憧れて「市川」の門に入り 九団次の名を許された。

 

このように キャリアの無い俳優は

いくら経験を積んでも 舞台では脇役専門であり

 

その養子である 雷蔵さんは

歌舞伎界の子供たちが多く通う 小学校に入学するが

 

他の子のように 名門の子供に追従しなかったので

激しい虐めに合い 

名門でない屈辱感を 幼い頃から身に沁みて味わった。

 

やがて、15歳になった雷蔵さんは

演出家の武智鉄二と出会い 彼の口利きで

今度は正真正銘の名門 市川壽海の養子になる。

 

はじめの養父母 九団次夫婦には 深い愛情を注いでもらったが 

そのままでは生涯、日の目を見ない

脇で終わることに 耐えられなかったのだ。

 

しかし、梨園の名門・市川壽海の御曹子となった後も

雷蔵さんは 大部屋に入れられ 

いつまで経っても 端役ばかり与えられた

 

壽海は 若いうちには 大役を与えないという方針で

 

実はこの少し前から 水面下で 

大映から映画出演の誘いを 受けていた雷蔵さんは

遂に、大映京都撮影所と 契約した。

 

こうして、雷蔵さんは

 

彼を時代劇スターとして 売り出そうとしていた 

大映・永田雅一社長のもと 

22歳で映画『花の白虎隊』で 主役デビューした。 

 

永田社長は雷蔵さんを ぼん、と呼び 可愛がり

長谷川一夫さんの作品に 特別出演させるなど 

立て続けに チャンスを与えるが

 

だが、雷蔵さんには 大きな弱点があった。

 

雷蔵さんはX脚であり それは足腰の弱さに繋がり

立ち回りのとき、足がふらつきがちだった。

 

しかし普段は 地味で目立たない容姿が

メークをするとたちまち あれほどの美貌に一変し

 

得も言われぬ スターの雰囲気さえ醸し出す

その魅力は 誰もが認めた。

 

 

この頃、雷蔵さんは 祇園の旅館から

バスで撮影所に通っていたが

 

あるとき 仲の良かった嵯峨三智子さんの豪邸を

譲り受ける話が出たとき

会社は快く ポンとその大金を出したという。

 

そして次に 雷蔵さんに 話が回って来たのが

巨匠・溝口健二監督の大作 『新・平家物語』の

若き日の 平清盛役であった。

 

溝口監督はこのとき 死の前年で56歳。

 

『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』などで

ベネチア映画祭の大きな賞を 立て続けに取り

国際的にも 高い評価を受けていた。

 

その完全主義ぶりは有名で

脚本の一字一句にまで 難癖をつけ

現場では ろくに写りもしない 小道具にまで文句を言う。

 

役者に対しては どんな大スターも容赦しなかった。

「あんたには才能がありません!」

 

監督の前作・『楊貴妃』では

今は落ち目で 化け猫映画に出演していた

かつての大スター女優・入江たか子さんに向かって

 

「とても使えたものではない。あなたはしょせん化け猫女優です」

共演者、スタッフたちの目前でそう言い 撮影途中で降ろした。

 

ぼんが、そんな監督のしごきに耐えられるだろうか・・・

それより先に ぼんは 監督から認められるだろうか・・・

 

両者の 顔合わせの当日

下木屋町の料亭で 永田社長は不安だった。

 

溝口監督は 先に来ていた。

 

そこへ、黒っぽい着物に 角帯をしめた

雷蔵さんが やって来た。

 

そして、 監督を紹介されると

 

「はっ、よろしくお願いします」と 

若侍のように 両腕の肘を張って手をつかえ

しゃきっと 一礼した。

 

すると、そのとたん 巨匠はぱっと顔を赤らめた。

 

仕事場では 鬼の溝口だが

普段は、はにかみ屋で 人見知りをする性質だった。

 

 

清盛役は文句なく 雷蔵さんに決まった。

 

 

 

つづく