「論語を学ぶ」を読む。

「孝」とは親を代表格として先駆者(得てして年長者)から後続者へと断然することなく連続して一つの流れを
なすことをいう。
その実現のためには人間的にも、思想、学問、教養においても社会全体で互いに堅く結ばれあうことが重要。
日本の明治維新は、それを実現し革命ながらも断続しなかったから成功したと著者は伝えている。

妙に納得。我々は常に先人から学び、後進に恥じぬ素養を身に付け、それを驕ることなく伝える努力をせねばな
らない。
とはいえ、自分を思い返すと学びの前提となる「知識」を、まずは蓄えねば。経験からくる気づき、知恵をより
豊かなものにするためにも欠かせないな。
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年末に、雪の比叡山を訪れた。
縁があって高僧の方から、数珠と不滅の法灯御守を頂戴する。

不滅の法灯は、比叡山本堂で1200年間途絶えることなく灯っている。

僧侶が毎日菜種油を加えているとのことで、
油を絶たないことから、油断してはならないという戒めとともに、
「油断」という言葉が生まれたとか。

高僧の方に感謝するとともに、
経営者として胸にとどめておきたい。
田坂広志氏の、「五つの弁証法」はこれからの経営を考える上で、
私の基礎になるようなものになりそうだ。

公演を拝聴して、改めてバランス感覚と経験、知識、知恵の上に
成り立っているものだと実感する。

その後、「語る禅僧」を読む。
知恵は様々な経験を良い感度で受け止め、はじめて高められるものだと
信じているが、その感度を高めるためには、やはり知識を養分として十分に考える必要があるからだ。

さて、田坂氏の言われる、
西洋的な「機械論」から、
より高い次元で融合し、
東洋的な「生命論」に回帰する、
というよう部分で納得をした自分がいる。

ただ、単純に考えすぎると、
「これからは東洋の時代だ、心の時代だ・・・」
なんて、考えてしまうわけだが、「語る禅僧」で南直哉氏は語る。

『「西洋物質文明」のご本尊たる科学にしても、それもひとつの物への関わり方である以上、
単純に「物質生産」に直結するのではなく、それ自体が本来、立派な「精神活動」のはずである。
ただ、そのものに対するアプローチの鹿方、とにかく人間の都合に合わせて一切を処理・利用・処分しようとい
う態度であることが即、「心の荒廃」なのではない。荒廃しているのは、そのものの使い方、それを取り扱う態
度のありようなのである。』


行動哲学として心にとどめ実践しつつも、
安易に語れるものではないと改めて思う。



その他キーワード

・矛盾のマネージメント
 本田宗一郎氏の「会社の節」の話は何度矛盾を乗り越えたかということか。

・エゴの意欲から、感謝の意欲へ。
 自らを見つめて自制し、本当に必要で大切なものを見つける努力。「少欲知足」
 感謝を意欲に意気込むのも、それはエゴ。ここに幸い私がいたから、と言える自然な感性を。