昨年暮れ、病院から戻り自宅療養を続けていた父が、三が日が明けて間もなく身罷りました。

 

生前お世話になりました皆様方には、大寒も過ぎてからのご報告となってしまい大変失礼を致しましたが、時節柄、近親者のみの家族葬で心静かに送らせていただきました。

 

年末にしたためた記事の通り、11月初旬から入院していた父でしたが、念願叶って年末には自宅へ戻り、クリスマスには主治医のお許しを得てシャンパンで乾杯、テイクアウトした行きつけの珈琲店のブレンドコーヒーを、美味(うま)い、美味(うま)いと何度も呟きながら、ゆっくりと味わっていました。

 

ただその頃には既に、食べ物はもちろん水すら嚥下することが難しくなっており、最後の薬も看護師さんがすすめるゼリー飲料はまったく受けつけないというのに、気の抜けたシャンパンでなら不思議と飲み込めるという状況でした。

 

それでも元旦には、父のために取り寄せた金沢・浅田屋製の「おせち」を見せると薄っすらと目を開け「すごいね」と瞳を輝かせて、いくらの粒を3粒ほど日本酒で味わうことができ、これが父にとって最後の晩餐となりました。

 

 

葬儀の際も父らしく送ってやりたいと思い、私の生まれ年のスコッチ「マッカラン1962」〈https://ameblo.jp/japanvisionforum/entry-12775733818.html〉を、父愛用のウイスキーボトルに詰め、末期の水代わりとさせていただきました。

 

会場に頂戴した早春を思わせる沢山の花々と、馥郁としたスコッチの香りに包まれた棺の中の父は、私が知り得る限り最も男前な姿で旅立って行きました。

 

 

そんな父から私に、葬儀後、一冊の本が遺されました。

 

表題は『ゲーデル、エッシャー、バッハ ーあるいは不思議の環』。

 

本編だけで777ページという大著です。

 

父は本当に読書が好きな人で、悠々自適な生活となってからは、いつも大部の本を何冊も抱え、日がな一日読み耽っていました。

 

寡黙な父とは、たまに会ってもなかなか話のきっかけが見つからないので、「今はどんな本読んでるの?」という言葉が挨拶代わりでした。

 

この本も父が入院するまで自宅で読んでいたので、向こうに行ってからすぐ読めるように棺に入れてあげようと思ったところ、厚すぎて焼却できないと断られてしまいました。

 

 

2018年に心不全で倒れて以来、晩年の父とは以前のような知的会話や議論を楽しむことができなくなってしまい淋しく思っていましたが、機能障害があったのはおそらく言語表現に関する部分だけであって、父の思考や感性は以前と変わらずみずみずしく、旺盛な知的好奇心に溢れていたことを、燃やされず私の手元に残ったこの一冊から窺い知ることができました。

 

 

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は、1980年度のピュリツァー賞受賞作で、人工知能、禅問答、コンピュータ、脳と思考、分子遺伝学、現代の音楽とアート、パラドクスなどきわめて幅広い話題を,アキレスと亀のユーモラスな対話を織りまぜながらわかりやすく説いた世界的ベストセラーで、父が遺して行ってくれたお陰で、私はこの本の存在を知ることができました。

 

不完全性定理などで知られる論理学者のクルト・ゲーデル、画家のマウリッツ・エッシャー、作曲家のヨハン・ゼバスティアン・バッハの生涯や作品における共通のテーマを探索することで、著者のホフスタッターは「生命のない物質から生命のある存在(つまり自我や心)がどのように生まれるか」という究極の謎を解き明かそうと試みます。

 

核を成すのは、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされるゲーデルの「不完全性定理」。

 

表と裏、正と負、白と黒という二律背反のはずの世界が、いつの間にか混然となってしまう構造を、ホフスタッターは「不思議の環(strange loop)」と呼んでいます。(本当にこのような解釈で良いのか、かなり不安ではありますが・・・)

 

例えば、エッシャーの「だまし絵」やバッハの転調するカノンなど、「不思議の環」とそれらの相互の関係が紡ぎ出すパターンから、人間の意識や知能はどのように組み立てられているのかを考察し、さらにこうした意識や知能のモデルを、人類はいつの日か人工的に作り出せるだろうかというAI論にまで、著者の思考は果てしなく飛翔して行きます。

 

ホフスタッター自身がエッシャーの芸術に「不思議の環」を見出したその感動を表現した言葉を借りれば、「頭がくらくらするほど魅力的で素晴らしい」この一冊こそ、「人生は生きるに値する、味わい尽くせ!」という父からの“last will (最期の意志=遺言状)”だと、そう思うのです。