~こんな立派な人がいたんだぁ~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 最近知ったことなのですが、『こんな立派な人がいたのかぁ~』とつくづく感心させられた人物と出会いました……その人物とは旧日本陸軍・陸軍中将(最終階級)「樋口季一郎」氏という方です。

ナチス・ドイツによる民族浄化運動、いわゆるユダヤ人排絶の悪行は歴史の真実ですが、そんなユダヤ人の命を救った歴史上の人物として私たちは「オスカー・シンドラー」氏や「杉原千畝」氏のことは知っています。

しかし同じようにナチスの迫害から逃れようとした多くのユダヤ人たちの命を救った軍人・「樋口季一郎」のことはほとんど知られていないように思います。……戦後長らく「杉原千畝」の人道的偉業も表に出ることはありませんでした。私たちが彼をして‘命のビザ’のことや人道に対する世界的名誉‘諸国民の中の正義の人’賞をイスラエル国家より授与されたことを知るのはずっと後になってからです。

…では「樋口季一郎」とはどのような人物で、どのような経緯の基にユダヤ人の命脈を繋いだのでしょうか?、わずかですがその概要を書き記したいと思います。

樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は兵庫県の三原郡本庄村上本庄(現:南あわじ市)に生を受けます。18歳で岐阜にある樋口家の養子となった彼は大阪陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校で優秀な成績を修め陸軍大学校へ進みます。そこで彼は当時日本が仮想敵国としていたロシアについて学び、卒業後はロシア通として満洲・ロシア・ポーランドの駐在武官などを歴任し1935年8月ハルピンに赴任、37年には日中戦争勃発と同じくしてハルピン特務機関長(関東軍・諜報機関のトップ)に就任します。

こうして満洲国・ハルピンに着任した彼ですが、着任早々現地民を食いものにする日本人たちを見て「満州国は日本の属国ではない、人民の主権を尊重し内部干渉を避け、滿人の庇護に極力努める旨」を部下たちに徹底させます。また悪徳日本人を容赦なく摘発し満州国の民意の安定に尽力するのでした。そんな彼を見てアジア地域におけるユダヤ解放運動のリーダー:アブラハム・カウフマン博士(彼はお医者さん)が訪ねてきます。カウフマン博士は樋口にナチスのユダヤ人迫害の非道を全世界に訴えるために極東ユダヤ人大会をこの地で開催させて欲しいと許可を得に来たのでした。

彼はこれを快諾!こうして1938年1月15日・第1回極東ユダヤ人大会が開催されます。そして特筆すべきはこの大会において樋口が日本陸軍の高級将校としてスピーチしたことでした。彼はナチスのユダヤ人迫害を正面切って避難し、また人種差別の愚かさを世界に向けて語ったのです。彼のスピーチは終了するや否や大声援と歓喜、割れんばかりの拍手で迎えられます。しかしこのことは日独防共協定を締結していた日本としては看過できない重大事でした。やがて陸軍内を始め各所より猛烈な非難が樋口に殺到するのでした。

そん中で歴史的事件・偉業はなされます。この年(1938年)満洲国とソ連との国境にあるシベリア鉄道・オトポール駅にナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人たちが足止めされていました。理由は満洲国が入国を拒否したことでユダヤ難民たちは身動きが取れない状態にあったのです。しかも時節は真冬のソ連国境!零下20度以下の中にさらされているユダヤ人難民たち!!……この状況を知った樋口はカウフマン博士の難民救済の要請も含め満洲国外交部や軍上層部にユダヤ難民救出を具申するのです………

…が、しかし樋口の意見は満洲国・外交部からは拒絶されます。なぜなら当時の日本とドイツの関係を考慮する満洲国では到底ユダヤ人救出に動ける訳もなかったからです。しかし日本陸軍(関東軍)は満洲国に対し内面指導という名目で内政干渉できる権利を有していました。樋口は悩みます、そして彼は熟慮した結果「人道上の問題」と結論づけ独断でユダヤ人の救済・保護を決定するのです。決断を下した後の樋口の行動は迅速でした。大連・満鉄本社の松岡総裁(後の松岡外相)に難民救済のための列車を手配させオトポール駅よりユダヤ人たちを輸送、ハルピンへ避難させたのです。この時樋口が救ったユダヤ人は2万人とも言われ、その多くがハルピンに腰を落ちつけたり、上海やアメリカへ渡ったりと命脈を繋ぎます。

この出来事は『オトポール事件』として日本政府および陸軍省内で大変な問題となります。樋口はすでに極東ユダヤ人大会でも問題となるスピーチをし日独関係に幾らか水をさした形となっていました。それゆえ彼への処分の声は強まっていたのです。加えて当然ながらドイツからもヒトラーの片腕と言われるリッペントロップ外相の抗議書が突き付けられていました。…そしてそんな樋口を関東軍司令部・東条英樹参謀長が呼び出します。東条は樋口に事の本質を問い正します。すると樋口は「日本はドイツと盟邦関係ではあるが属国ではない、ゆえにユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈する訳にはいきません!」と答え、東条も「確かに!」と樋口の正当性を認めるのです。……その後ドイツからの再三の抗議に対しても東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったことである」とこれを一躍するのでした。

…『オトポール事件』から3年後、日本は連合国相手に大東亜戦争に突入していました。樋口は参謀本部二部長や金沢の第九師団長を務めた後、1942年に北海道・札幌に置かれた北部軍司令官に赴任します。しかしここでも彼は苦汁・苦難の連続に直面するのです。ミッドウェイで大敗した日本の戦局はジリジリと後退していました。そんな中アリューシャン列島のアッツ島に布陣する守備隊は北方より来るアメリカ軍に対し必死の防衛を続けていたのです。樋口司令は幾度も大本営に増援と補給を打診するのですが、大本営はアッツ守備隊を身捨てる決断を樋口に伝えます。こうして樋口は大東亜戦史で最初の玉砕を指揮した司令官として名を残すのです。

アッツ島陥落後、アメリカ軍の次の目標はキスカ島でした。樋口はアッツの二の舞だけはさせてなるものかと強行な態度で大本営にキスカ島守備隊撤退を具申し、ついに撤退に必要な艦船を確保!、これもまた大東亜戦史に残る奇跡の全将兵撤退を成功させます(アメリカ軍はこの完全無欠の撤退作戦をパーフェクト・ゲームとして褒め称えた)。

そして……終戦を向かえた1945年8月15日、北部軍司令としての樋口の戦争も終結するはずだったのですが8月18日、突如としてソ連軍が占守島へ攻撃を仕掛けてきたのでした!報せを受けた樋口司令はまたも選択を迫られます。大本営からは一切の戦闘行為を停止する旨の通達がなされていましたが、しかし現実問題として占守島の民間人の生命は危機に瀕しています。…樋口はソ連軍と対峙する占守島守備隊(第九十一師団)に対し独断で戦闘開始を了承。守備隊はソ連軍を粉砕し上陸部隊を壊滅の一歩手前まで追いやります。しかしここでソ連側が停戦を申し入れ、8月21日に戦闘は終了します。

ソ連の指導者・スターリンはアメリカ軍の日本占領が完遂しない内に北海道までを占領地として手中に収めようとしていたのですが、樋口司令とその貴下にある第九十一師団に侵攻を食い止められ、しかもその間にアメリカ占領軍は北海道に部隊を展開させるに至り、その野望は潰えることとなったのです。

こうしてやっと樋口季一郎の戦争は終わるのですが、こうして簡略ながら彼の足跡をたどってみれば分かる通り、彼は軍人としても一人の人間としても大変立派な人物であったことが分かります。戦後の日本は特に大東亜戦争での軍人批判が著しく教育され、ロクでもない人物像として流布されてきました。しかし、彼・樋口季一郎を含め当時の日本の軍隊には多くの人道主義者、素晴らしい人格者がいたのだと思います。戦争に負けたことで日本軍は鬼畜のような存在として歴史で語られていますが、本当の鬼畜・非人道な行為を繰り返してきたのは勝者であるアメリカやイギリス・フランスであることを人類史から読み解くべきだと思います。

最後に……東京裁判でのお話し。戦犯決定においてソ連のスターリンは北海道占領を阻止された復讐として樋口を戦犯にせよと連合軍の中核・アメリカに強く申し入れてきます。しかしアメリカはこれを断固拒否、しかも占領国軍総司令官・マッカーサーからは樋口を徹底的に守り抜けという命令まで発せられます。…それはなぜか?、そう!あのオトポール事件で救われたユダヤ人たちが全世界に働きかけ樋口季一郎の戦犯決定を阻止したからだったのです。

樋口季一郎………日本軍人を悪鬼の如く描く作家や酷評する評論家達の言葉を胡散臭く感じさせるほどに立派で見事な生き様を僕に見せてくれた偉大な人物です。

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