~悪評はガセ?・近代日本の先駆者『田沼意次』~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 『田沼意次』……………と言えば賄賂政治で有名な江戸中期の老中ですが、果たして彼は聞き憶えある悪評通りの金権・汚職政治家だったのでしょうか?。

田沼意次は享保4年(1719年)、江戸・本郷弓町に屋敷を持つ旗本:田沼意行の長男として生を受けます。父の意行は紀州藩の足軽という士族でも最下層の身分でしたが、当時部屋住みだった徳川吉宗(紀州藩主の四男)の側近に登用され、その後吉宗が八代将軍の座に就くと幕臣として旗本に取り立てられます。

吉宗は将軍就任に伴い紀州藩時代からの家臣を多数幕臣に向かえていますが田沼意行も例に漏れずその1人でした。こうして旗本となった田沼家ですが、やがてその息子・意次にも朗報が届きます。それは吉宗の実子・9代将軍となる徳川家重の西ノ丸小姓取立てへの抜擢人事でした。

……延享2年(1745年)、吉宗の隠居に伴い家重が将軍に就任します。この時家重はそれまで西ノ丸で小姓として仕えていた意次をそのまま本丸に伴い引き続き仕えさせます(一説にはこの人事は言語障害だった家重の言葉を正確に理解できたものが意次しかいなかったからだとも言われています)。こうして将軍となった家重にも仕えることとなった意次は寛延元年(1748年)に1400石を、宝暦5年(1755年)には3000石を加増され、更に宝暦8年(1758年)には美濃国郡上藩で起こった一揆の裁定のため、それまでの役職だった御側御用取次から1万石の大名に取り立てられます。

こうして将軍:家重の治世を過ごした意次ですが、宝暦11年(1761年)家重が死去します。…そして次の第10代将軍:徳川家治の治世が始まるのですが、意次は家治にも厚い信任を受け明和4年(1767年)には側用人に、その後さらに相良城主・2万石となり明和6年(1769年)には老中を兼任、ついに意次は幕府の政を司る地位に昇り詰めるのです(幕臣に600石の旗本として登用されて以来、田沼家はこの時なんと!5万7000石の大身となっていたのです)。

こうして幕閣の1人となった田沼意次ですが、彼が政治を主導できる立場に就いた時にはすでに幕府の財政は悪化の一途を辿っていました。吉宗・家重の治世を通して倹約政治による支出の抑制と増収に努めた幕府でしたが、結局赤字財政を回復させることはできなかったのです。意次は幕府の財政再建のため幕政を重商主義へと転換させます。…例えば株仲間の結成や銅座の専売、鉱山開発や蝦夷地の開拓、俵物に代表される海外貿易の拡大など、産業・商業の活性化を施行したのです。

この結果幕府の財政は危機を脱し好転し始めます。そして庶民の生活も少しずつ上向きはじめ景気もよくなるのです。また意次はそれまでの米を中心に据えた経済の在り方を一新し貨幣経済の振興と普及による経済安定を目指します(彼は米の相場の乱行が吉宗時代の経済政策を失速させたと考えていた)。…しかし彼の政策にも弊害はあり商業重視の政策は都市部の景気回復を促しましたが、農村部に潤いをもたらすことは少なく、また印旛沼の運河工事の失敗や明和の大火、浅間山の噴火など人災・天災が相次ぎ、一時は回復しかけた経済も再び悪化し始め、さらに右腕だった息子で若年寄だった田沼意知が江戸城内にて刺殺されたことを機に田沼権勢は衰退していくのです。

意次は国の経済を安定・発展させるために様々な政策を打ち出しますが、それだけではなく人材の育成にも尽力しています。天才だが奇人・変人だとも呼ばれた平賀源内と親交を持ち新たな知識や技術に目をやっていますし、蘭学を手厚く保護したり、また士農工商といった身分制度に捉われない実力主義に基づいた人材登用も行っています。しかし意次失脚後の政治主導を見れば分かる通り、その後の老中:松平定信の政策は吉宗時代への回帰であり、厳しい質素倹約による財政再建路線でした。

せっかく息を吹き返した日本経済でしたが結局、定信の懐古的経済政策により、またもや幕府の財政は逼迫し景気は低迷、庶民からは怨嗟の声が絶えず彼の政策は終焉をむかえるのです。

田沼意次と言う人は大変開明的な人物であり、松平定信に見る保守派がほとんどの時代に在って一時的にせよ近代的な日本を創造していたことは驚嘆に値すると思います。今日彼がなぜ賄賂政治の槍玉に挙げられているのか?……その1つには商人との親密な関係が憶測を呼んだこと、そして多くの悪評が松平定信やそれに連なる保守派のバラまいた讒言・流言であったということです。

現に仙台藩・藩主:伊達重村からの賄賂を突っ返したと言う記録や意次の死後、松平定信が彼の私財を没収したが財産は何もなかったという逸話など賄賂政治家という事実が見つからないのです。加えて彼の領地であった相良藩においてはインフラ整備(街道や港の拡張など)や防火対策(当時の庶民の家は瓦などなかった為、延焼し大火となりやすかった)がしっかりなされ、殖産興業の取組みの他、養蚕の奨励、製塩業への助成、食糧の安定備蓄、そして他の藩と比べ年貢が軽いことで百姓達から大変喜ばれていたなど………彼が私欲の権化であった証拠が何処にも見出せないのです。

今日私たちが知る歴史上の人物は、多かれ少なかれ実像とは違った姿で語られているケースが多分にあります。偉人や名君、はたまた天才などと呼ばれた人々の真実は‘らへん’にあるのか?。そういったことを考えたり調べたりすることで実は自分自身を顧みることが出きるのかも知れません。

『老中:田沼意次』…私の中での彼は結構な偉人です。