~素晴らしき写真芸術家/アンリ・カルティエ・ブレッソン~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 本日は久しぶりに芸術方面のブログで行ってみたいと思います(真面目に書くよぉ~!!)。

写真家…いや芸術家と言った方がしっくり来るのかも知れない……

アンリ・カルティエ・ブレッソンは1908年(日本は明治41年)・8月22日にフランスの中産階級の家に生を受ける。彼が写真に対し最初に興味と関心を抱いたのは、少年時代に両親より与えられたボックス・ブラウニー(箱型の初期型カメラ)でスナップ写真の撮影に夢中になったことである。しかしこの時点での彼の写真への興味は、まだ好奇心の域を出るものではなかった。

…1923年、15歳を迎えたブレッソンは当時盛んだった芸術運動の1つシュルレアリズム(シュルレアリズム宣言は1924年)に魅せられる。そして、それをきっかけに1927年から28年には、やはり当時盛んだった芸術運動であったキュビズムの彫刻家:アンドレ・ロードに師事するのである。…しかしこの頃の彼はまだ芸術活動を通して画家を嘱望する一青年でしかなかった。

画家志望だったブレッソン……しかし彼を再び写真へと振り向かせたのは当時すでに世界的名声を得ていたダダイズム・シュルレアリズムの写真家:マン・レイだった。マン・レイの優れた芸術性に触発された彼は、1931年を境に本格的に写真芸術の世界へと足を踏み入れていくのである。

彼は35mmのライカⅢのカメラを媒体にスナップ・ショット(日常の風景・人物の動きを瞬間的に捉える撮影法)を基本とした撮影に終始する。それは彼を写真による芸術表現へと誘ったマン・レイのフォト・コラージュ(異なった2つ以上の写真の合成)によるシュルレアリズム作品とは異なり、あくまでも写真が持つ本来の表現方法を逸脱するものではなかった。

1933年、彼は初の個展をニューヨーク:「ジュリアン・レヴィ・ギャラリー」で開催するが一部に熱狂的な支持者を生み出すに留まる…その後しばらくスペイン・メキシコと撮影旅行で周った後、1935年からおよそ5年間ジャン・ルノワール(映画監督・脚本家)らの助手として映画関係の仕事に携わる。…1936年、彼はパリの新聞社にカメラマンとしての職を求めるが上手くいかずそんな折、カフェで偶然にもロバート・キャパとデヴィッド・シーモアに出会う。二人共カメラマンを目指すもブレッソン同様上手くいかず、同じ境遇の者同士が意気投合するのにそれほど時間は要しなかった。この出会いは正に運命的であり、後の彼らの方向性と結びつきを予兆させるものであった。

1939年、ヨーロッパではナチス・ドイツの台頭と共に戦雲が広がり第二次世界大戦が勃発する。ブレッソンはフランス軍に身を投じるがドイツとの交戦で捕虜となる。捕虜となった彼は3度の脱走を試み3度目にして成功、その後終戦までレジスタンスとしてドイツ軍と戦い続ける。ところが戦争終結後、彼の戦死がまことしやかに囁かれこの噂に伴う形で1946年、ニューヨーク近代美術館は彼の回顧展を準備する。しかし実際にはブレッソンの死は全くのデマであった為、本人出席のもとで回顧展は開催されるのである。

…そして1947年、以前パリのカフェでロバート・キャパ、デヴィド・シーモアらと運命的な出会いを果たしていたブレッソンは、ここにジョージ・ロジャー、ウィリアム・ヴァンダイヴァーらを加えた写真家集団『マグナム・フォト』を結成する。彼らが立ち上げた写真家集団は有名誌の依頼により{ヨーロッパ~アメリカ横断}や{インドでのガンジー暗殺前後}、{中国・国民党政権の終焉}、{中華人民共和国誕生前後}、{インドネシア独立}などの歴史的出来事に立ち会いその姿を写真に焼き付けていくのである。

ブレッソンとマグナム・フォト(キャパ、シーモア、ロジャー、ヴァンダイヴァー)の面々は商業誌の企画・依頼により写真撮影を行い、世界情勢の今を大衆に伝える役割を十分に果たすのだが、同時にそのような現実を切り取った1枚1枚の写真に於いても芸術性が生まれることを広く世界に認知させるのである。……ブレッソンはマン・レイなどに代表される加工された写真芸術から、加工されない現実の一場面や瞬間を捉え表現することにも高い芸術性が生まれることを実証した一人であり、そういった意味でも現在に繋がる写真芸術の草分け的存在であるとも言える。

現在、私たちが知るアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真の多くは、1950年から1960年代にかけ写真集として出版されたものであり、最も有名なものは1932年から1952年に撮影された写真を集約した『決定的瞬間/The Decisive Moment』である。またこの写真集の表紙はフォービズム(野獣派)の中心的存在であった画家:アンリ・マティスのコラージュが用いられている。

こうして写真芸術家として世界的に認知されたプレッソンは1965年には半年近く日本に滞在し、その1年後の1966年には写真家集団:マグナム・フォトから退会。1974年以降には「……ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある なにかしらの形で相手を侵害することになる  だから心遣いを欠いては粗野なものになりかねない……」と語り、以降は画家として芸術活動や仕事に従事する。

…… …そして2004年8月3日、南フランス・プロヴァンスにある別荘にて95歳の生涯を閉じるのである。

…僕は彼の大々的な写真展を2006年に大阪・天保山にあったサントリーミュージアム(2010年12月26日に閉館しちゃった
)で観ていますが、全部見るのに結構な時間が掛かり、途中からは一緒にいった彼女が飽きたらしく、休憩ソファーでジュース飲んだり、雑誌みたり、挙句の果てには「早よ出よっ、出よっ」と急かされたのを思い出します。
(写真好きでも、かなり根性がいる展示枚数だった…と、思います


今日に在ってはカメラもデジタル化が大勢を占め、広く一般大衆が写真を楽しめる時代になりましたが、そんな中でブレッソンの写真に思うことは‘人は何を目指し、何処へ向かっているのか’ということです。

アンリ・カルティエ・ブレッソン……彼に限らず多くの芸術家、多くの芸術作品の価値が無に帰する時、それは人間社会から文化が無くなる時なのかも知れません。