~みちのくの聖・鞭牛~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 小学4年生だった頃、夏休みの宿題の一つに読書感想文がありました。

今でこそ読書は好きですが10歳の僕は読書に特段興味も関心もなく‘夏休みの友(休み中の総合学習ドリル)’や‘絵日記‘、‘図画工作’といった他の宿題もほっぽらかして、毎日、マイニチ、まいにち……遊び呆けていました。

もちろん母は僕の顔を見る度に「あんた!ええ加減に宿題しぃー!」と、これまた毎日、マイニチ、まいにち、小言の繰り返し……そんな夏休みのある日母が一冊の本を買ってきました。それは‘科学と学習’と言う学研の月刊誌で、しかもそのシリーズの増刊的発行誌‘読み物特集号’と言う読書好きじゃない小4には内容もドン引き!「なにっ!この太さっ!!」と言う厚さもドン引きというエゲつない本でした。

‘読み物特集号’はどうやら夏休みの宿題の一つである感想文のための特集号的な感じもあり文部省推薦的な読み物が集められた、まるで「感想文書けよー!!」と言わんばかりの本でした(当時の僕にはそう思えた)。

母の小言が耳タコ状態だった僕は渋々その本をめくり始めたのですが、そこで数ある読み物の中で一篇だけ興味と関心が湧いた物語を見つけました……それが表題にも上げた『みちのくの聖・鞭牛(実際の表題では鞭牛は弁牛と表記されていたと思います)』なのです。

【牧庵鞭牛和尚とは…】
 鞭牛は宝永七年(1710年)和井内村清水の地(現在の岩手県宮古市)の農家に生まれます。やがて成長した鞭牛は牛方や炭鉱夫などの仕事に従事しますが母の死を機に22歳で仏門に帰依、栗橋村{常楽寺}、吉里吉里村{吉祥寺}など幾多の寺で修行を重ね、寛保二年(1742年)32歳で種市村{東長寺}の住職に、そして延享四年(1747年)38歳で橋野村{林宗寺}の住職になります。ここで鞭牛は僧たるもの「百姓や村人と共にあるべき」という考えに基づき寺を道路に面した所に移し彼らを身近で励まし力づける日々を送ります。また日頃から百姓・村人が物資の運搬に窮していることを知ると道づくりを行い運搬の不便さを解消、大いに百姓・村人から喜ばれます。
 

 宝暦五年(1755年)鞭牛・四十六歳の時、三陸・閉伊地方を大飢饉が襲います。鞭牛はこのことに衝撃を受けると共に被害拡大の原因として、古くからこの地が陸の孤島と化し救援物資等の支援すら間々ならないという道路網の不備に気付きます。…「ならば!」と、彼は孤島と化したこの地域と内陸とを結ぶ道路網の整備に着手、三陸沿岸の海辺道をはじめ宮古から盛岡に至る往路(現:国道106号)など開墾に生涯を捧げる事となるのです。
 

 鞭牛の道路開墾は基本、玄能(ゲンノウ)や鶴嘴(ツルハシ)といった道具のみで進められ大変時間と労力のかかる作業でした。それゆえ最初の頃は近隣の百姓や村人たちも鞭牛の道造りを「遊び」だの「続くまい」だのと小馬鹿にし誰も手を貸そうとはしませんでした。しかし来る日も来る日も黙々と開墾を続ける彼の姿に、一人、また一人と手伝うものが現れ、やがては多くの者たちが鞭牛の道造りに参加しました。彼は一つの道造りが終わると、往来する人々の安全を祈ると共に供養碑を建て工事で亡くなった者を弔いました
 
 このようにして鞭牛の道造りは常に手作業で続けられましたが、時折工事を著しく妨げる巨石が行く手を阻む事態が起こります。そんな折に鞭牛が用いた工法は当時としても大変画期的でした。それは巨石を薪で高温に熱し、すぐさま冷水をかけて破砕し易くするという方法で、これは私たちが物理で習う‘熱衝撃’のことであり、彼の知識がかなりのものであったことが伺い知れます。
 
 明和四年(1765年)五十六歳を迎えた鞭牛に盛岡藩は長年に渡る彼の道造り・道路整備の功を称え終身扶持でその労に報います。こうして鞭牛の道造りは公儀にも認められるのですが、しかし功を得たその後も何ら彼の道造りは止まることはなく天明二年(1782年)73歳でこの世を去るまで鞭牛は、多くの百姓や村人たち、そして盛岡藩全ての人々のために道を開墾し続けたのです。

そんな鞭牛が生涯を通じて開墾した道路は宮古から盛岡までの主往路である宮古街道をはじめ、吉里吉里から山田間・腹帯から南川目間・宮古から岩泉間・橋野から鵜住居間など、改修も含め総延長400kmという気の遠くなるような道程でした。……『みちのくの聖・鞭牛』、彼こそ仏の教えをこの世に在って実践した数少ない‘聖(ひじり)’なのかも知れません。

鞭牛和尚とは何と凄い人でしょう。もちろん小学4年当時の僕が今ここで調べ倒して書いた鞭牛の生涯を知っていたはずもなく、また当時の記憶としても彼が難儀している村人たちのために道なき場所を黙々と開墾していったという大まかな事しか覚えていません。それでも40年以上経った今もなお鞭牛和尚を忘れずにいると言うことは、子供だった僕にとっても彼の生き方(生き様)が大変素晴らしいものに感じられたのだと思います。

夏休みの宿題に出された読書感想文で初めて真面目に読み、そしてその感動を文章に綴った人物『みちのくの聖・鞭牛(弁牛)』、僕の読書への関心と興味もここから始まったようです。