~集団としての限界~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 先日、統一地方選挙が行われ新たな構成員による地方政治がスタートすることとなった。

かく言う私が暮す大阪に於いても‘自民’や‘公明’、‘維新の会’と言った政治屋集団(組織)が議席の確保に奔走し、選挙後の再編された府・市議会員として大阪の政治を担うこととなる訳だが………

それにしても政治を司る人々を見るにつけ、集団としての人間社会の限界を感じずにはいられない。

……ところで人間社会、文明の成立条件とは何なのか?…考古学者:ゴードン・チャイルドによれば人の数(在る程度の人口数)、食糧生産の安定、身分の階級化、職業の分化、文字(文化練度)などが挙げられている。…遠くオリエントに人間社会(文明)が誕生しておよそ1万年以上が経過した今日、現代に生きる私たちの社会習熟度は果たしてオリエント時代と比較し成長を遂げているのだろうか?

私の高校時代の恩師がよく言っておられた言葉に「人が持って生まれた気質(土台となる性質)は変えられない。それゆえ、そこから派生する短所を補うには性格全体の向上を図る他はない!、そのために学ぶことが大切なのである」と………当時は今一つピンとこなかったのだが、現在では痛感するほどに得心できる言葉である。

人間は個としてそれぞれの気質(性質)を宿している。そしてその気質がゆえに他者との争いが生まれる。しかし学習の度合いによって生まれ持った気質と後天的に加わった性質+人格形成が連動し個々が持つマイナス部分・欠損部を補うことができる。そしてそういった心(精神性)の成長から調和と協調を獲得することで他者との争いを回避することが可能となる……だからこそ集団による社会の構成・構築が可能となったのである。

しかしながらコミュニティーが大きくなればなるほど集団としての機能は低下の一途をたどる、なぜなら人間の数だけ集団に性格が反映されることになるからである。その性質的反発が社会運営を停滞させ最悪の場合、集団としての機能が失われることにも繋がりかねない。社会・国家の崩壊とは詰まるところ個人の性質の違いが招く事象なのである。

知識を蓄え、学習に沿った経験を積み重ねることで個人が集団を、社会・国家を支えているという意識が芽生えはするが、さらにマイナス要因として大小に関わらず性格(性質)の根源にある我欲が集団性を阻害する。現に人間社会から争いが、国家組織から紛争や戦争がなくならないのはこうした人間という生き物が持つ根源的本質に内在する我欲にあることは否めない。

政治を見るにつけ、この種の人間が持つ欠陥部を観察できることは大変面白く感じることではあるが、振り返れば社会や国家が砂上の楼閣として成立していることにある種の恐怖を感じずにはいられない。

おそらく……いや…、確信できると言っても過言ではないだろうか?。
人が理想的社会(争いもなく、飢えもなく、常に調和と協調を持った平和な世界)を構築できる未来など永劫あり得ないことなのだと言うことを…………。

統一地方選挙……政治屋が‘個‘として優れた性格(性質)・人格を有することで社会をできる限り延命させられるはずなのだが、多分に彼ら彼女らがそのような思考や行動規範の上に立脚していないことは現在の日本を見れば一目瞭然である。

…私は選挙に接する都度にそのような考えに捕われ陰鬱となる。そして決して実を結ばない人間社会の理想的未来、日本の行く末に思いを馳せてしまうのである。