~{はやぶさ2}に見る日本のロケット開発~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 2014年12月3日(水)・午後1時22分4秒、{小惑星探査機:はやぶさ2}を積載したH-ⅡAロケット・26号機は鹿児島県:種子島宇宙センターから無事打ち上げられました。
そしてこの後、高度889キロで{はやぶさ2}は燃焼を終えたロケットから分離され一路、目的地{小惑星1999 JU3}を目指すのです。

…太平洋戦争の敗戦から69年、日本のロケット技術は今やロシア・EU・アメリカ・中国についで世界第5位のレベルにまで達しました。
敗戦国の日本はしばらくの間GHQ(占領軍最高司令部)の手により航空産業とその技術研究を厳しく規制されていました。その為、飛行機の開発再開もそうですがロケット研究においても世界から大きく水をあけられていたのです。

しかし日本人の知恵と技術力はそういったロスタイムを克服し、わずか半世紀ほどで純国産ロケットを作り上げ、数十億キロ先の小惑星へ探査衛星を往復させる技術を確立させました。

…ではどのような経緯で日本のロケット開発は成されてきたのでしょう?今回は日本のロケット開発の歴史を早足で紹介したいと思います。

                (日本のロケットの父・故:糸川英夫氏)
《~草創期~》
日本のロケット開発の草創期は‘糸川英夫教授‘率いる東京大学・生産技術研究所から始まりました。
1952年、初めて日本はロケットを打ち上げます。しかしそのロケットの全長はわずか23cm、名称もペンシルと呼称され到達高度も600mでした。
しかしペンシルロケットで得た技術とデータは大変有用なもので、1955年には全長1mで2段式ロケットの開発に成功、都合36機がこの年に打ち上げられ、高度も6kmを記録しました。
こうして日本がロケット開発の基礎固めを行なっていた1957年、世界の科学者が協力し地球の観測とその全容を解明するというプロジェクト、いわゆる国際地球観測年が発足します。
日本もこのプロジェクトへの参加を希望しますが、地球観測に必要な高度100kmに達するロケットを持たない日本は参加資格がありませんでした。
しかし国際地球観測年(IGY)への参加を目標に苦労を重ねた研究者たちは1958年コンポジット推進薬を用いた2段式ロケット・カッパ6型の開発に成功し高度も60kmに達します。
国際地球観測年(IGY)はこのカッパ6型が収集した上層大気のデータを高く評価し60km高度に留まったロケット技術であった日本の参加を認めるのです。

                     (ペンシルロケット・実物)
《~研鑚期~》
60年代を向かえ日本の次なる目標は人工衛星打ち上げでした。
1963年、日本政府は航空宇宙技術研究所・NALを設立(後の宇宙開発事業団・NASDA)しますが、同年東大生産技術研究所ロケット担当班と航空研究所が合併し宇宙航空研究所が設立され、鹿児島県・内之浦発射場からラムダ3型ロケットを発射!、ついに高度1000kmを達成します。
そして1970年2月11日、ラムダ4型・5号機が遠地点5150km・近地点335kmに投入され、ここに日本初の人工衛星(おおすみと命名される)が誕生するのです。
しかし本格的な衛星を積載し打ち上げるには、推力も大きさも足りず宇宙航空研究所は大型ロケットの開発に着手します。
1970年9月にはミューロケットM-4S・1号機を打ち上げますが姿勢制御ができないことで風に影響されるほど不安定な代物でした。
それでも研究成果は着実な歩みを続け、エンジン性能の向上と共にロケットも3段式になりパワーもグンとアップするのです。
1975年に入るとN-1ロケットが開発されますが、第1段と第3段はアメリカのデルタロケットを転用し国産部分は2段目のみでした。
この時点では日本の技術は、まだまだ大型ロケットを自力開発・運用するには至ってはいませんでしたが、このN-1・1号機で始めて技術試験衛星Ⅰ型・「きく」の打ち上げに成功、1976年にはN-1・2号機で電離層観測衛星・「うめ」を、そして1977年に打ち上げた技術試験衛星Ⅱ型・「きく2号」は静止衛星となり、この時点で日本はロシア(旧:ソ連)、アメリカに次いで世界で3番目の静止衛星打ち上げ国となったのです。

                       (ミューロケット)
《~開発・発展期~》
70年代、ロケットに積載した衛星を軌道投入に成功させた日本はいよいよロケット本体の純国産化をスタートさせます。
1985年、宇宙航空研究所は国産ロケットの雛型とも言えるのミューロケットM-S3Ⅱにハレー彗星探査衛星「すいせい」を搭載し重力圏外への打ち出しに成功します。
これ以降、ミューロケットは20以上の衛星の打ち上げに成功します。そして1986年には現在のH-ⅡAロケットの前身であるH-Ⅰロケットの打ち上げに成功します。この時、H-Ⅰロケットには測地実験衛星、アマチュア無線衛星の2機と、磁気軸受フライホイール実験装置が積み込まれていたのですが、こうした複数衛星の同時打ち上げを可能にした日本のロケット技術はこの瞬間、世界と肩を並べたのです。
その後もH型ロケットによる衛星打ち上げは続き、私たちがよく耳にする気象衛星「ひまわり」や通信衛星「さくら」も、こうした日本の高い技術力によるものなのです。
今日、私たちが目の当たりにしているH-Ⅱ型ロケットはその性能やロケット燃料に液体と固体の両方を使用するという特異技術に加え積載量にも優れ、例えば2トンの重量を宇宙空間まで運ぶのに各国のロケットは日本の2~3倍の大きさのモノを作らないと運べません。そういったことからも日本の最先端技術の1つ‘ロケット‘は日本人の誇りとも言えるのではないでしょうか!。

                       (H-Ⅱロケット)
相当に長くなってしまいましたが、日本のロケット技術は世界最高水準であり、今後日本の主要産業の1つを担っていくものでもあると僕は思います。

              (ロケット開発の流れ)     (未来の資源・月)
地球の資源の枯渇が叫ばれる昨今、月には多くの資源が眠っていることが衛星探査などで分かっています。
…少しお話しがSFチックになってきたので、ここら辺で止めておきますが、日本も新たな産業の1つとして宇宙開発とその技術を大いに産業活性の手立ての1つとして考える時だと思います。