~豊臣秀長とNO・2の存在?~ | 自炊・電子書籍化応援ブログ

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 歴史を検証する都度思うことは、戦争にせよ国家運営にせよ名参謀・名宰相と呼ばれるNO・2の存在が組織の有無、組織の是非を決定することが少なくない。
特に戦争に勝利しその後国家運営に移った組織が長期政権を確立していく過程を見れば必ずといってよい程、君主の側近に最上級のNO・2が付き従っているケースがほとんどである。

                      (ナポレオンと信長)
リーダーが過度に優秀であり参謀の資質も兼ね備えているケースの場合は、たとえ戦いに勝利し国家なり政権なりのトップの地位に着いたとしても、多くの場合短命に終わっている。
ナポレオンしかり織田信長しかり……これは偶然ではなく全体を統括するカリスマ性なりを有するトップの資質と、物事を現実的に具現化する能力とは切り離されている方が賢明であるということ……
そして双方を兼ね備えた者が組織運営なり国家統治というものを実際に施行した場合、歴史上成功した例は稀であるという事実である。

その1つの例として豊臣秀吉による政権がある。
彼はご存じの通り明智光秀が謀反を起こし信長を死に追いやったことで、天下取りへの道を見出した人物である。昨今NHKの大河ドラマの主人公としてクローズアップされている黒田勘兵衛や、途中病死する竹中半兵衛といった優秀なNO・2(参謀)は、この秀吉をよく補佐したことで有名であるが、実のところ実質的に秀吉を補佐した本当のNO・2は秀吉の弟(異父・同父両説あり)、小一郎秀長だと言われている。

秀長は智にも武にも優れた人物であったと言われており、実際彼は秀吉の軍事作戦に於いてなくてはならない存在であった。そして常に秀吉の勝利の一躍を担っていたことも歴史上の事実である。
…秀吉はご存じの通り山崎の戦いで光秀を撃破、清州会議で信長軍団のトップに躍り出、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家軍を敗走させ後には勝家を北ノ庄で自害させている……その後も小牧・長久手の合戦、小田原城攻め、四国・九州平定など全国統一を推し進めていった。
これら歴史上に名立たる戦での戦功においても秀長は大いに秀吉を支え続け、特に四国平定では病気であった秀吉に変わり総大将として出陣、長宗我部元親を降服させている、また九州征伐でも日向方面の総大将に任じられ島津軍を撤退させた後、島津家久に講和をさせるに至っている。

                        (秀吉と秀長)
秀吉が天下統一を果たした後も秀長は兄・秀吉をよく補佐し、各大名と秀吉の間で接着剤の役割として無くてはならない存在であった。
…しかし天正19年、以前より病に侵されていた秀長はこの年の1月に病死、その後の秀吉は糸の切れた凧のように乱れに乱れ、千利休を自害させ、朝鮮出兵を行うなど急速に政権の運営能力を衰退させていくのである。
多くの歴史家は豊臣秀長が存命であれば、少なくとも豊臣政権の崩壊は秀吉治世の間に起こることはなかったであろうと結論づけている。

歴史に‘もしも‘は禁句であるが実際、秀長の存在は秀吉の暴走に歯止めをかけるストッパーの役割を果たしていたことも確かである。
権力者という者は往々にして権力を手中にした瞬間から腐敗し始めるケースが多分に見受けられるが、そんな権力者の傍らに優秀な参謀・人材が付き従っている場合に限り、その支配領域や国家が極端な短命に終わらない事実は歴史が証明している。

                  (言わずと知れた国会議事堂)
現代社会の組織や国家において、NO・2の存在の有無は正直なところ私には分からない。しかし少なくとも評伝が伝えるように温厚・真面目・寛容、そして智勇に秀でた豊臣秀長のような補佐役が現代の国家運営や企業経営の中核に存在していれば、大きく舵取りを間違うことはなさそうな気がする。