遅くなってしまったが、この記事の続きみたいな話だ。

 

 

 

『つばさの党』というのは、何とも人騒がせな連中である。

 

だが、嫌がらせの相手に、(小池百合子都知事が、応援しようとしていた)アノ乙武洋匡氏など、どちらかというと『嫌われキャラ』の候補を巧みに選定しているようにも見える。

(つまり、『正義の行為』を代わりに行使してくれる『月光仮面?か何か』のようなイメージを作り上げることもできる。)

 

さらに、飯山陽さんなども、どちらかというと『敵の多そうな』候補者かもしれない。

逆に須藤元気氏などは、あまり攻撃を受けなかった?ということなのかもしれない。

 

どちらにしても、いかにも、『敵の多そうな政治家』を攻撃しているので、『いいことをやっているのだから、いいジャン』と感じる人もいることだろう。

アノ小池百合子などに対して、どんな手段を講じても『叩くことは<正義>である』と思い込んでいる人もいるのかもしれない。

 

 

しかし、楽しければ『何でも許される』と考えるのは、明らかに、どこかネジの外れたような行為である。

昔、『ジョーカー』という映画があったが、それは今の時代を先取りしたような映画だったという気がしている。

 

『面白さ』『気持ちがすっとする』ばかりに、ありとあらゆる『悪ふざけ』を主人公は繰り返す。そして、大衆がそれに対して拍手喝采する。

 

だが、その果てで、主人公は『滅茶苦茶な行為』の中毒患者みたいな精神状態になり、次第に自我が崩壊していく(というような映画だったと思う。ただし、この映画の『面白ければ良い』というようなトーンで展開されているので、こうした事態を肯定しているのか、否定しているのか、何とも心もとない描き方だったと記憶している。

 

 

『つばさの党』というのは、奇妙な連中であり、一部、一緒に寝泊まりしている人たちもいたという。どこか、『オウム真理教』を思わせるような部分もあるようだ。

 

ただ、危ないのは彼らの活動様式というのは、例えば、参政党とか、あるいは令和新選組などと共通するような部分もあるように私は感じている。

そして、もちろん、彼らは(立花孝志氏の)かつては、『NHKから国民を守る党』という名称だった、『政党転がし集団?』=選挙制度の盲点をたくみに突いて、『議席をかすめ取ることに成功した知恵者ども』=が行き着いた、一つの姿をも現している。

 

 

 

 

(これは、過去の画像から探し出してきたものなので、時間が前後しているものもあるかもしれない。

ともかく、『議席獲得ノウハウ』をいつの間にか身に着けた立花氏がその次の段階で議席のロンダリング、あるいは政党のロンダリングビジネスに着手したらしい、ということは見てとれる。)

 

『NHKが、受信料を無理矢理徴収しているのはケシカラン』→『放送のスクランブル化という政策を実現してくれるのではないか』(あるいは、『受信料を払わなくともすむようにしてくれるのではないか』)といった、人々の素朴な期待は、どこかに吹っ飛んでしまったようだ。

(私は、『NHKから国民を守る党』が真面目に、『スクランブル放送化』といった成果を獲得しようとすれば、それは実際に、『実現しえた』のではないかと思っている。)

 

しかし、彼らは、それでは『自分たちの戦いの大義がなくなってしまう』と考えたのか、いつの間にか、『スクランブル放送化の実現』といった政策は、どこかに消えてしまった。

そして、『議席転がしのノウハウ』という危ない実績のみが残された。

 

そして、この立花孝志氏の『ノウハウ』を取り入れて、さらに、『ハイパーレベル』へとバージョンアップを図っているのが、今回の『つばさの党』なのであろう。

 

 

非常に、ヤバさがぷんぷんとして、どこまで行きつくか、知れない(ような)連中だと思う。

おまけにその手法は、他の政治集団などにとっても、『魅力的』に見えるかもしれない要素を取り込んでいる(俺たちも、ああいうことをやってみたかったんだ、と考える政治集団は、あちこちにいることだろう)。

 

だが、こんなことをそのまま許せば、(アノ車寅次郎ではないが)『それを言っちゃあ。おしまいよ!!』の世界に入っていきつつあるのは、明らかである。

 

物事には、『良識』というか、『一定の限度』というものが、おのずから存在している。

 

それを突き破ろうとするようなことばかり、繰り返していれば、例えば『中国の文化大革命』、あるいは『カンボジアのクメール・ルージュによる大虐殺』、またはナチスの『仲間殺し』を一方で伴いつつ進行した『ホロコースト』ではないが、理性による歯止めの崩壊した『地獄絵図の世界』に行きついてしまうことだろう。

 

そのような予感を覚えさせられる方向に、『つばさの党』の悪ふざけというものは、進みつつあるような気がしている。

 

しかも、問題なのは、彼らの『おふざけ行為』は、逆にそれらを口実にして、警察、検察が(好きなタイミング、あるいはきっかけで)選挙運動における行為に対して、選択的に『介入』ができる、そのような介入に対して、逆に、『庶民レベルの納得感』(あんなことをする連中を放置することは出来ないよね)を与えるような『非常にイケナイ事』をしてしまっているという気がしてならない。

 

イケナイことはイケナイという当たり前のことを言うのを躊躇してはならないだろう。

 

こうしたことは、(大人?の態度で)大目に見るというようなことをしては(それこそ)イケナイのだ。