一昨日(9月17日)、池袋の映画館『新文芸坐』で篠田正浩監督(この人も、2025年3月に94歳で既に亡くなられている。奥様の岩下志麻さんも既に85歳、まだまだお元気のようだ)の作品『スパイ・ゾルゲ』を改めて見た。

(01)篠田正浩監督の映像

 

私は、この映画、今回、二回見ようかと思っていた。

というのは、9月19日にも、再上映が予定されており、しかも、この日は、『トークショー』付きである。

 

どうせ、182分の大作であるし、最近、高齢のせいで、長時間の映画など、一度、見ただけでは、内容が咀嚼できず、もう一回見ないと、内容が把握できそうもないことが多い。

(これは、『脳みその活動』の低下のせいだろう。)

 

またまた、寝不足で映画を見に出掛けることが多いので、見ている途中で『寝落ち』してしまうことも多い。

(02)映画の画像

 

ところが、この映画、見始めてすぐ、『以前、見た映画だ』と思い出した。

それに、この映画を見るのに合わせて、参考書籍(岩波現代文庫・チャルマーズ・ジョンソン著『ゾルゲ事件とは何か』が一番、面白かった。まだ、途中までしか読んでいないのだけど)

(03)『ゾルゲ事件とは何か』の画像

 

こういうものをいろいろ読んだりしたし、以前に読んだものを思い出したりしていた。

 

それで、『脳みそが活性化』した状態で映画を見たせいか、不思議なことに、一度も眠たくならずに、最後まで見ることができた。

 

この映画、不思議なことがいろいろある。

まず、第一は、『篠田監督の立場は何か?』ということである。

 

この映画、途中で、『2・26事件』のシーンが出てくるが、その時間が結構長い。

 

おまけに、(故・石原慎太郎の次男である、最近は、もっぱら気象予報士として売れている)石原良純君が、ナント、2・26事件の青年将校の一人(銃殺刑に処せられる)中原基明中尉の役で出演していて、こまかいセリフは忘れたが、『国賊をたたっきる』とかやって、『東京朝日新聞』を襲撃する部隊を率いていたりした。

(当時の主筆の)緒方竹虎とやりあったりしていたのだが、(私は良く知らないのだが)当時の『朝日』も『読売の前身?』なども、どの程度、違っていたのだろうか?

 

現在のイメージで、『国賊・朝日』とやれば、『一定の層』にはうけるだろうけど…、『はて、どうだったのかな』とついつい思ってしまう。

 

とはいえ、今は、『気象予報士』で『常識人?』みたいなイメージの発言をテレビでは繰り返している、『良純君』が、まるで『親父さんの若いころのイメージ』で『国賊・朝日を許さない』などとやっていると、『ブラック・ユーモア』を感じてしまう。

(なお、彼は、『地方では、我が姉妹が、売春婦に転落することを強いられている』『財閥どもは、私利私欲をむさぼっている』とやるのだが…)皮肉なことに、この時点でも『良純君』は栄養が良さそうで、『やや太り気味』であるという印象を受けてしまう。

 

話が脱線してしまうが、彼(中橋基明中尉)は、特設軍法会議にかけられ、4月28日開廷、7月5日死刑判決、12日死刑執行に処せられた。

そこでは、(昭和天皇にいわば『見捨てられた』という状態に置かれながらも)『天皇陛下万歳』とか、『昭和維新万歳?』みたいなことを叫んで亡くなった。

 

このような青年将校たちを、中心とする『2・26事件』などのシーンが結構、長い。

ここで、篠田監督は、彼ら青年将校たちに対する『共感?』を隠していないような気がする。

 

これは、直接は描かれていなかったが、故・三島由紀夫の蹶起と自決(1970年11月であるから、この映画の公開の30年前の話になってしまうが…)に対する『一種の共感』を隠してさえいない、という気がした。

(ある意味では、『三島由紀夫に対する思い』を込めて、篠田監督は、『スパイ・ゾルゲ』を撮ったのかもしれない。)

 

ところが、一般に、『スパイ・ゾルゲ』を評価する人たちは、こういう立場との矛盾があるのが普通だから、『不思議な映画だ』と改めて思った。

 

しかし、『スパイ・ゾルゲ』のほうは、さらに『謎だらけ』でしかも、なぜ、あのタイミングで、『当局』は『事件の発生』を報道し、あえて、『尾崎秀実』と『リヒアルト・ゾルゲ』の死刑執行まで行ったのかと考えると、不思議な気がする。

(結局、『ナチス・ドイツ』の『在日大使館』の『すきだらけ』を告発し、同時に、日本が、『スパイたち』によって、『情報垂れ流し』状態にあったこと、『スターリンのソ連』が、その情報を『信用せずに、利用できなかった』という、それぞれの『ミス』を『告発する事件』であったので、敗戦目前の日本がこのような事件の発生を世間に明らかにして、どういうつもりだったのか、イマイチ、わからない事件なのである。

どちらにしても、『戦意発揚』に役立ちそうな、『事件摘発』には思えない。)

 

話が、少し先まで行き過ぎてしまったが、この『9月17日の映画鑑賞』で、この映画の内容は、それなりに、把握できたので、19日に『もう一度見る』というのは、必要ないと、判断した。

 

なお、蛇足ながら、前回、『新文芸坐』で映画を見たとき(たしか、7月4日にアンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星・ソラリス』を見に行ったとき)は、池袋駅から、『新文芸坐』になかなかたどり着けず、迷いに迷って、ようやく、『半分以上、過ぎた時点』で映画館に入ったもは、のである。

(しかも、『上映の途中からは入れない』ということは、『はっきりわからないような告知の仕方だった』とかなり、ごねて、ようやく、一番後ろのほうで、『立ち見』でお情けで見せてもらった。これは、その後、『上映後の入場禁止』という『告知』を強化しているので、今では、『認めてもらえない措置』であるとは思っている。)

 

だが、どういうわけか、わからないが、今回は、池袋のJR出口から、比較的容易に『新文芸坐』にたどり着けた。

不思議なもんだ。

(この映画と事件の感想その他は、引き続き、書くことにする予定だ。)

 

 

 

 

つい、最近、東野圭吾さんの遺作をできるだけ、たくさん読もうと思ったというようなことを、このブログに書いた。

 

しかし、その後、連続的に彼の作品を図書館から借りて読んでみると、自分自身の脳みその能力に問題が生じていることを、自覚せざるを得なかった。

 

というのは、前に読んだことを次から次に忘れてしまうのである。

おそらく、メモなど取りながら読んだら、そうでもないのだろうけど、しかし、ただ普通に、読んでいくと、なんと前夜に読んだ、ストーリーを忘れてしまっているのだ。

 

やっぱり、(前からその傾向があると、自覚しつつあったが)脳の機能に、障害というか、『機能低下』が生じつつあり、もはや、普通に読み飛ばしながら、どんどん読んでいくというようなことはできないみたいである。

 

もちろん、作品によっては、メモを取りつつでも読んでいきたいという気がしないでもないが、でも、とりあえず、『東野圭吾、むさぼり読む?』プロジェクトは、『ストップ』をかけようかと思っている。

(少々、くたびれかけている、という気もするし…。)

 

なんだかんだいっても、彼の作品は、人間の書いた話だから、『繰り返し』というか、『似たようなストーリー』が非常に多い(という気がしている)。

 

この間、それでも、かなりの数、『東野作品』を読んでしまったので、少々、食傷気味である。

 

今後、再び、読むとすれば、『映像化作品(ドラマとか映画とか)』を見た(見る)前後に…ということになるだろう。

 

しばし、『小休止』。

(自分の『ポンコツ脳』に対して、あまり、余分な『負荷』をかけて、『自分で自分をいじめる?』ことのないようにしないと…。)

 

ちょっとした反省である。

それに、世の中には、嫌というほど、いろんな『文学作品』(別に『文学作品』でないものを読んでも良いのだが…。)があって、例の『川崎市民アカデミー』というNPOの『講座』でも、再び、いくつかの『講座』や『ワークショップ』を受講する予定にしている(2026年度後期のカリキュラムが、10月からまた始まることになっている)ので…。

(01)

 

そこで、『文学関連』の講座、ワークショップも、二つ受講することにしているので、そのための『余力』も残しておきたいという気もしている。

(02)

 

直接、関係ないが、13日、投開票の沖縄県知事選挙で、現職の玉城デニー氏が、敗北し、自民党などが推していた新人の古謝玄太氏が、初当選を決めた。

 

 

開票作業が始まる前に、NHK等は『当選確実』をうったようだが、例の高校生の『船の転覆事故』における学校側の対応の不誠実さ、亡くなった少女の両親の怒りよう、その他を見ると、この事件が、『平和教育を推進している』と称する側の人々の『さまざまな矛盾』を露呈させてしまったことは間違いがないのだろう。

 

ひとまず、翁長雄志・沖縄県知事(2018年8月、67歳で死去)が代表した、『オール沖縄』という政治勢力の結集(保守革新を問わず、『辺野古基地建設中止』『オスプレイの配備撤回』『普天間基地の閉鎖撤去ー県内移設断念』を求める『建白書の精神の実践』)による沖縄での運動は、ある種の『曲がり角』に来ていることを示している、という気がどうしてもしてしまう。

<『首里城全焼』(2019年10月)は、翁長さんの死去(2018年8月)から1年後に沖縄を襲った『悲劇』だった。>

 

こうしたことは、『日本、世界を取り巻く状況の転換』を示しているのだろう。

それを『見て見ぬふり』をしても、しようがない。

そんな気がしてしまうのも事実だ。

(それくらいの『大敗』だったと感じる。)

 

 

 

 

 

 

このような訃報が、新聞やネットなどをにぎわしたのは、7月27日くらいのことだったらしい。

その時点では、既に家族葬で、通夜、告別式などは終えた旨の告知だった。

 

どうやら、東野圭吾さんクラスになれば、各出版社、新聞社など、『担当記者』みたいな存在の人もいただろうから、彼らがいわば『総ぐるみ?』で一斉に『訃報の通知』を解禁しようと、取り決めていたのではないかというような印象を

もつ。

 

そして、それが順当に守られたのかどうか知らないが、このような形で亡くなってから、4日後くらいになって、『訃報の洪水』のような状態になった。

 

それから、もう1か月半近くになる。

 

 

私は、東野圭吾さんが、大腸がんを患っていたことを知らなかったから、しょっちゅう、作品を発表している作家が突然、亡くなったことに驚いた。

 

そして、その後、彼の作品をやたらに図書館から借りてきて読んだ。

(もちろん、我が家の書棚にも、彼の作品の文庫本などたくさんあったのだが…。)

(01)写真など

 

私は、考えてみると、かなり昔から、彼の小説を読んでいる(といっても、本当の意味で、彼の作品を意識するようになったのは、2008年に単行本が刊行された『流星の絆』以降だったかもしれない。)

 

たとえば、『秘密』(1998年)とか、『手紙』など、あるいはデビュー作の『放課後』(1985年)も、たしか、東野圭吾の第一次ブームのどこかで読んだという気がする。

 

ただし、私の印象では、東野圭吾は、『読みやすく』、また、読み出すとなかなか、途中で放り出すことの出来ない、『中毒性』がある。

 

しかしながら、読み終えた読後感というのは、かならずしも『好印象』『爽やかな感じ』というよりは、むしろ、『後味の悪い作品』も結構、多かったような気がする。

 

 

それで、今回、(今月の頭まで、それに集中していた)国立映画アーカイブの『返還映画コレクション(4)文化・ニュース・漫画映画篇』の特集が終わったことから、ここ一週間くらいは、東野圭吾作品を、図書館から借りまくって、読んでみた。

(そのなかには、以前、読んだものも、多数あったが…。)

 

それで、改めて感じたことを書いてみたい。

 

 

彼の作品が、どうして映画とかテレビドラマとかにされるかは、非常に『映像化』しやすい作品が多い、ということからきているように感じた。

 

また、最初はそうでなかったようだが、一定の時期から、『加賀恭一郎シリーズ』とか、『ガリレオシリーズ』あるいは、『マスカレードホテルシリーズ』など、主人公や、背景となるホテル等々の『シリーズもの』をいくつも誕生させたことが、より、『小説を書きやすい』手助けとなったのかもしれない。

 

だが、改めて感じたのは、彼が、相当、毎回苦労して、『設定』とか『ネタ』、『伏線』などを生み出しているであろうということだった。

 

彼は、例えば、将棋の藤井聡太ではないが、藤井が、しょっちゅう、対戦に追われているように、東野さんは、連載をいくつも抱えていて、神経がなかなか休まらないような日々を送っていたのではなかろうかという気がする。

 

(結局、東野さんは、大腸がんで亡くなったということだが、大腸などの臓器が、『寝不足』とか、『神経の疲れ』『締め切りに追われる感じ』などが、身体に良くないのではないかという印象を受けるが)まさに、これは『流行作家の宿命』かもしれないが、彼は、『手を抜くことをしらない』真面目さと、『同じものを繰り返し書くことはしない』『必ず、何か新しい作品を生み出して、読者の期待を満足させたい』そのような律義さ、あるいは一種の『職人気質』が彼の、命を縮めてしまったのではないかという気もしてくる。

 

 

東野さんは、結構、長い間、サラリーマンとして生活をして(その前は、学校の教師をしていた時期もあるらしい)、自分がようやく、『作家として飯を食っていける』という自信が芽生えたときに、漸くプロの作家になったのだという。

 

しかし、彼は、もともと『理科系』であり、おまけに、『本格推理小説のようなもの』へのこだわりが、あったようで、最初は、『トリックにこってみたり』云々で、必ずしも読者のウケはよくなくて、しばらくの期間は、なかなか、本の『重版』が思うように出来ず、つまり、『本が思うように売れない』時期が結構、続いていたらしい。

 

それが、『秘密』とか『容疑者Xの献身』による直木賞、本格ミステリ大賞の受賞以降、読者に存在が認知され、その作品の映像化(映画化、ドラマ化)が相次ぐことによって、雪だるま的に、人気が沸騰するようになったらしい。

 

 

しかし、読者というのは、『気まぐれ』なものだし、ミステリーものにしても、次々と新しい作家が誕生してくる。

おまけに、最近では、いろんなジャンルで、女性作家が活躍している。

 

そうしたなかで、『人気を維持し続ける』ことは、相当の、苦労があったことだろう。

 

実際、今回、私は、既に10作品以上、20作品に及ばんとする数を、ここ1週間くらいの間に読んできたが、さすがに、これだけ集中的に読むと、いくら彼が、その都度、工夫をしているといっても、比較的に筋が、『波乱万丈』というか、『二転三転』というか、やたらに、複雑怪奇で、多様な展開をする作品の多いことに気が付かざるを得ない。

 

 

しかも、後年になるほど、その筋は、(表現の仕方が良くないかもしれないが)複雑にねじれて、『さすがに、ドンデン返しばかり』しかも、(ある意味で)似たような、『ひねた筋の展開の仕方』で、それはいくら何でも、『不自然過ぎる』『筋を追っていくのに疲れてしまう』そのように感じることも多くなってきた。

(もっとも、最近の作品をまだ、読んでいるわけではないので、最終的に彼がどのような境地に至ったのかは、わからないが…。)

 

これなどは、『作家生活による蓄積疲労』のなせるわざではないのか、という気すらした。

 

 

私が、東野圭吾についての印象が固まったのは、2008年に刊行された『流星の絆』、および、それを原作とした、宮藤官九郎脚色による、テレビドラマ『流星の絆』(TBS系で2008年10月~12月に全10話で放送)を見たことによる。

 

今回、改めて、『流星の絆』の原作を読み、宮藤官九郎のドラマと対比してみると(これは、ユーチューブの動画とか、ネット記事のまとめによる。改めて、元のドラマをきちんと見直したわけではない)、クドカンがさすがというべきか、『原作に漂う暗さ』というものを、『コメディータッチの明るさ』に転嫁し、逆にそうすることによって、妹の有明静奈(戸田恵梨香が印象的に演じていた)が、本来、『詐欺の対象』として近づき、その後、『両親の仇』の息子ではないかと思って、『悶々とした』対象であった(というのは、途中で恋に陥ってしまったため)洋食チェーン店『とがみ亭』の創業者の御曹司・戸神行成(『要順』が熱演していた)との、『心の浮き沈み』あるいは、『ヒッチコック流の、追いつ追われつのサスペンス』が、より印象的なものになっていたと感じた。

 

(三浦友和演じる、刑事との、『最終結末のつけかた』も、『変えている』。

このドラマでの三浦友和の演技も、非常に印象的なものだった。

三浦友和の『俳優人生』のなかでも、転機となった作品なのではなかろうか?)

 

 

これは、一見すると、『軽いもの』を『元の味』にミックスすることで、余計、『ドラマ』が生きてくる、いわば『隠し味』のようなもので、もしかすると、あまりにも、真面目過ぎる東野圭吾さんには、なかなか『なせない技』なのではなかったかという気もした。

 

このTBSの『流星の絆』を見たことが、もう一度、『東野圭吾作品』を読んでみようという、きっかけになったので、今、改めて考えても、『良いとっかかり』を得たという感じだ。

 

 

今後、現時点で入手した作品を、もう少し読んでみて、そして、今後、予定されている『最後の作品』の映像化なども、映画館などで見てみたいものだと思っている。

(あらためて、東野圭吾さんには、『お疲れ様』そして、『有難う』の言葉を送りたい。)

 

それにしても、『最もプロらしい作家』で、あまりにも『一生懸命、書き続けた作家』であったという気がした。

 

ただ、こうした作品が『なぜヒットしたのか』『このように読者に愛されたのか』について、いわゆる『批評家』とか『評論家』などの分析とか見解というものが、もっと、きちんと発表されても良さそうな気がしている。

 

松本清張が偉大な作家であり、忘れることの出来ない、『物書き』(歴史認識に対する、かずかずの問題提起を含めて)であったことは、周知の事実だが、東野圭吾という作家は、『現代の松本清張』(もちろん、資質は、そうとう、異なっているが)とも言うべき存在で、日本人の昭和、平成、令和における、『精神のありよう』『物語のありよう』を書き続けた『物書き』であったという気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

ここにアップするのも久しぶりだ。

もう、ブログをやめたのかと思う人もいるかもしれない。

 

ずっと書いてなかったのは、8月は、(東京・京橋の)『国立映画アーカイブ』に通うのが忙しかったからである。

アメリカ議会図書館に収蔵されていた古い日本映画(外国映画も)が日本側に返還されてきたらしい。

 

そのうち、(劇映画よりも)文化映画・ニュース映画・漫画映画(アニメ映画)と区分されるものを、国立映画アーカイブで、<返還映画コレクション(4)文化・ニュース・漫画映画篇>と称して、8月4日~9月6日にかけて、上映していた。(28プログラム、113作品)

 

(01)プログラムの概要

はじめは、そんなに夢中で見る気はなかったのだが、見てみると、戦時中の戦意高揚のプロパガンダ映画などばかりで(短い作品も多い)、当時の雰囲気がわかり、なかなか面白い。

 

それに、地下1階の小ホール(定員151名)という、小さいほうの会場でやっていたのだが、結構、毎回、見に来ている人が多い。

(それも真剣に見ている人が多いという雰囲気である。)

 

それでついつい、『ついでだから全部見てしまおう』という気になって、毎週何回か、国立映画アーカイブに通っていた。

 

1日2回の上映(初回は、12時か14時、2回目は、15時とか18時とか)なもので、毎回、シニアで1100円(一般は1300円)とられるし、交通費もかかるし、おまけに基本ネットでの事前予約になるので、行けなくなった場合も、カネはかかる。

 

さらに、最近、ぼけてきているので、同じ回を(馬鹿なことに)二重に予約してしまったこともあり、すべて『出費』になる。(当然、自己責任。)

 

それでも、何となく、『歴史探偵』というか、『一種の記者』というか、『歴史の目撃者』にでもなったかのような感覚で面白かった。

 

(02)解説のイベント

よくNHKのドキュメンタリー番組などで、『国立映画アーカイブ』の所蔵しているフィルムなどを利用している場合があるが、その場合、ほとんど『注』など付けないので、どういう『出典』なのか、『ファクト』がわからないことが多い。

(それでも、そういう番組のきちんとした批評とか解説などはあまり見かけない。日本人は、そういうことにはこだわらない、『大雑把な人々』が多いのかもしれないし、そうしたものを『批評』するような習慣とか『仕事』『慣習』などは日本の中で、育ってこなかったのかもしれない。)

 

今回も、アメリカから『返還』されたものをどのように、まとめて、今回のような形の上映になったのか、よくわからないことも多かった。

 

それでも、時々、『解説のトークショー』のようなイベントも催され、特に8月11日の15時の回の『「事変」の欺瞞(1)』上映後に行われた井上寿一(国立公文書館アジア歴史資料センター長、学習院大学教授)による講演は、当時の日本の状況、立場などを整理して話されたもので、大変、勉強になった。

会場全体でも、そうした解説を聞きたいと思っていた人が大半だったのだろう、好意的な拍手がわきおこっていたと感じた。

(たしか、メディアが、当局に強いられた以上に、商売のために、『煽り』の役割を果たし、それが逆に、『状況全体を縛っていく』という悲劇についても語っていたと記憶する。

本当は、比較的細かなメモをとったのだが、それも整理が悪いのでどこかに行ってしまった。)

 

 

変な話だが、こういったプロパガンダ映画を見ていると、同じ会場で見ている人たちがどう感じているのか、よくわからなくなる局面がある。

(そもそも、防衛大学校とか自衛隊の関係者なども、『勉強』のために見に来ているようだ。

目の前に座っている人の姿勢な髪形、態度などで『どうも変だな』と思っていたら、どうやら、そういった立場の人で見に来ていた人のようだった。

 

明らかに、『太平洋戦争』あるいは『日中戦争』、『東京裁判』について、『どういう立場なのか』によって、特に、『特攻作戦』などを描いた作品に対する受け止め方が異なってくるような気がする。

 

目の前の人は、そうした死者に対して、『共感』を示す姿勢をしていたので、(私自身も、彼らを一律に『無駄死にさせられた人たち』というように、受け止めるのは、バイアスがかかっている見方だという気もしている)、『あれっ』と思ったのである。

(もしかしたら、戦時中に人々が感じた不安というのは、『目の前の人』が何を本当に感じているのかわからない→だから、とりあえず、自分も『時局』に合わせた行動をとるようにしよう→『非国民』と指弾されるようなことをするとまずいという、『無限連鎖』のようなものだったのではないかという気がする。

だから、戦後になると、『自分は踊らされていただけ』→『自分は悪くない』となり、さらに、今度は、『占領軍』のいうことを聞いていれば無難だろうとあたかも、『自然災害の被災者?』みたいな行動と思考のパターンだったのではないだろうか、そんな気がしている。)

 

上記の『講演』は共感できるものだったが、『国立映画アーカイブ』は最近、ますます、『思想を表明してはならない』といった『無毒の行政機構』になりつつあるような印象を受けている。

 

その結果、今回の『返還映画』についても、逆に、『アメリカ側のプロパガンダ』的な性格も含まれていると思ったが、そうしたことはあまり指摘されない。

 

それに、『上映内容』も、『敗戦の前と後』でどのように、『映画のトーンがかあったのか』『当時の観衆の側は、それに対して、どのような反応を示していたのか』(当然、占領軍による『検閲』や『統制』は極めて厳しいものがあったようだが…)

そのように、逆に、『8・15の前と後』というのが、極めて面白い部分があるのだろう、と思って期待したのだが、今回の上映は、その前のところ(つまり、『敗戦』)でぷっつり思ってしまった。

(今後、『上映』を期待するが、いつになるのだろうか?

そもそも、『国立映画アーカイブ』の体制は極めて脆弱で、しかもそうした『資金』について、さらに今後、厳しくなるというのが、昨今の日本の政府の姿勢であるようだから…。)

 

ともかく、いろいろ面白い『映像』をこの『国立映画アーカイブ』は所蔵しているようで、それがどのように、『公開』されるのか、そのことには『注目』していきたいと思っている。

 

とにかく、8月は、この『返還映画コレクション(4)』を見るのに、相当、時間も、カネも、そして気力も費やしたというのが実態で、その結果?、このブログも『休止状態?』になってしまっていたということがある。

(半分、『言い訳』みたいな話だが…。)

 

 

 

 

本日(8月13日)、『パワハラ』発言で全国的に有名になってしまったらしい、山中竹春・横浜市長が市議会の総務委員会の場で『集中的な質疑』の対象とされるらしいというので、その中継を見ていた。

 

というか、これまで『横浜市議会』(横浜では、『市会』と呼んでいるらしいのだが)のインターネット中継などほとんど見たことがなかったもので、リアルタイムではなく、少し時間がたった後に、『ユーチューブ』で流していた『中継録画』のようなものを見た。

 

(01)山中市長の画像

 

私が見たものは、『民放』が『中継画像』をまとめたもののようで、本来、午前の部と午後の部とで、合わせて4~5時間以上あるものらしかったが、私が見たのは、そのうち、午前の部分(2時間強)の内容だけだった。

 

しかし、それだけ見ても、山中氏の不誠実さは、十分、理解できた。

 

彼は、第三者調査委員の報告書で、自らの言動がパワハラと認定されたことについて、『認定を全て受け入れる』としたうえで、『(職員や市民らに対して)心から深くおわび申し上げる』と謝罪して見せた。

 

しかし、『相手がどのように受け止めるかという理解が自分自身に足りなかった』などとし、『認定されたことを全て受け入れ、私自身の人権意識を刷新しなければならないと考えている』などと述べていた。

 

要するに、『自分には、人権意識について学ぶことにより、今後、<変わることが出来る余地がある>』というのであり、『ここで、市長を辞任するのでなく、<新しく生まれ変わった、山中竹春>に引き続き、市長職を続けていく、チャンスを与えてほしい』ということを、繰り返し、述べていたのである。

 

(02)答弁の様子

 

この人は、前々から言われていたように、前職の横浜市立大学の医学部教授を務めていたころから、職場の同僚、部下や、大学院生などに対して、『パワハラ言動』を繰り返して、『問題を抱えた人物』であったことが言われているが、それがどういうわけか、いつの間にか、衆議院の神奈川8区(私の住んでいる小選挙区でもあるが)選出の(立憲民主党所属の議員でもあった)『江田憲司』氏に巧みに売り込んで、江田氏が、『素晴らしい候補を、見つけてきた』といいながら、(当時、『IRカジノ誘致を巡る賛否』『新型コロナのパニックが蔓延するなか』『前任の林文子市長の市政に対する賛否』によって、自民党から出馬した『小此木八郎・前国家公安委員長』氏自身が『IRカジノに反対』を主張するという『紆余曲折』のなか)どういう人物なのかという評価が、ほとんど山中氏に対してされることのないなか、『立憲民主党』や『社民党』『共産党』など、『反自民』の票を獲得するなかで、当選を果たした。

 

そして、その後、『社共や立憲民主などの反自民勢力』と次第に決別し、むしろ、『自民』や『横浜市内部の官僚体制』に支えられるように『方向転換』し、4年後の2025年市長選挙では、田中康夫・元長野県知事(おおさか維新の会に推されての出馬)など多くの対立候補がありながら、52%という得票率を獲得し、選挙の上では、『圧勝』を果たしている。

 

(03)『未熟なモンスター』

しかし、本日の『市議会での質疑』でも明らかなように、今や、『横浜の自民党』ですら、うらみつらみを述べるような、状態になっている。

(ただし、自民党の横浜の議員たちの反応は、『自分たちが騙されたこと』『利用されたこと』に対する『うらみつらみ』が反映しているようなところが多くみられ、そのような『モンスター政治家』を自分たちが、育ててしまったことに対する『反省』があまりないらしい?様子に疑問を感じる。)

 

本日の市議会の答弁においても、山中氏の態度は、はなはだ、おかしなものである。

彼は、自分の行為、言動として、『調査報告書』で認定されてしまった範囲では、『認める』し、いちおう、『反省』もしてみせる。

 

だが、その時折見せる、『俺は頭が切れるんだ』という態度、『言葉を操ることで、事態をごまかそうという姿勢』、さらには、『巧言令色、少なきかな仁』みたいなことを、

たしか、『論語』に書いてあったと思うが、山中氏はその典型で、何とかして、『言葉を並べ立てて、この場を逃れようとする態度』が鮮明である。

 

そして、その『不遜な態度』、『言葉遣い』、あるいは、『本当に<申し訳ない>と思っているはずがない』といった態度・ふるまいを見ると、『この五十をとうに過ぎた男』が、『コミュニケーション能力をもった人間』に『生まれ変わる』ことなんてできるはずがないと思わせるものがある。

 

彼は、もうすぐ『横浜園芸博』の開会が迫っているという状況を、最大限、生かして、『この状況からの逃げ切り』をはかっているのは、明らかだろう。

 

しかし、このような『モンスター政治家』『未熟なパワハラ男』の、『逃げ切り』を許したとすれば、それこそ、『民主主義のもう一つの失敗の事例』を後世に遺すだけであろう。

 

『横浜の名誉』というよりも、むしろ『日本の民主主義の名誉』のためにも、こうした人物は、『辞職に追い込まなければならない』。

『横浜園芸博』をこのまま、山中市長のもとで、遂行することこそ、国際的に、『汚名を宣伝しまくる』ことになってしまうだろう。

(それに、こうしたことは、横浜の小中学校、高校、大学、実業団のメンバー、その他、『町内会』等の人々のためにも、『見過ごせない話』である。おそらく、子供たちの間でも、『山中市長のおかしな言動』は話題になっていてもおかしくない。)

 

本来、江田憲司議員が、今でも、現職の国会議員であれば、彼自身、『どうして、こんな人物を、横浜市政に連れてきたのか?』と非難ゴウゴウであるはずだが、(幸か不幸か)江田氏は、昨年の総選挙で、『大敗』し、既に『引退』をしてしまっている。

(そこら辺は、さすがに、『逃げ出すのが早い』というべきかもしれないが…。)

 

 

 

30日、弁護士らによる『第三者調査』で、横浜市の山中竹春市長(53歳)の7項目にわたる『パワハラ認定』をし『調査報告書』を公表した。

 

この問題は、前人事部長の久保田淳氏が報道機関に内部告発し発覚したという経緯がある。

 

しかし、私にとっては、2021年8月の横浜市長選挙において、地元の衆議院議員・江田憲司氏が(どこかから)『有能な人物を見つけてきた』みたいな感じで、突然、横浜市民に対して、当時流行っていた『新型コロナ対策』についても、『医学部出身』なので、『対策の専門家?』であり、また『データサイエンティスト?』でもあるので、『IR・カジノ』について『専門的知見』を有しなどと称して、突如、『市長選の有力候補』として宣伝し、その結果、他の候補を大差でおさえて当選してしまったその時から、『疑惑に満ちた人物』として気にかかっていた人である。

 

 

その選挙では、私は、『IR・カジノの導入反対』という観点から、(いろいろ疑問を感じながらも)山中氏を応援するようなブログ記事を書いてしまったし、当選したときは、『それで良かった』と思っていた(というか、『思おう』としていた)。

 

しかし、その後の経過は、山中氏の『経歴詐称』というか『能力の誇大宣伝』疑惑、さらには、彼の『パワハラ』体質、『何かを隠しているかのような』びくびくし、ぎごちない『言動のかずかず』がずっと伝えられてきた。

(そして、当初、江田憲司氏の『立憲民主党』とともに、山中市長当選に貢献したはずの『日本共産党』も、その後、『山中批判』に転じた。)

 

山中氏は、市長当選後、いつの間にか『市の官僚的政治機構』の利害に乗っかって、(前の林文子市長以上に)『体制寄り』『既存の利益の擁護者』として、『ロボット』みたいなぎごちない答弁を繰り返しながら、『立場の転換』を進めていったようだ。

(詳しい内容は、私自身、整理しきれていない。)

 

そして、その裏側で(これは、彼が横浜市立大学医学部教授であったころからの根強い『体質』であったようだが)、身近なものに対する『いじめ』『パワハラ』を繰り返していたようである。

 

(02)山中市長のパワハラ認定

 

今回、彼の極めて悪質な『パワハラ』行為の数々が明らかになった。

その報道を見ると、こうした体質は、彼が継続的にやってきたことで、『常習犯』『確信犯』ともいえそうだ。

 

昨日、今日の話ではないので、到底、『修正不可能』のように見られる。

こうしたことが明らかにされた以上、山中市長は、一日も早く、『辞職』をすべきであろう。

(もちろん、今回の『認定』に重要な『過誤』があり、『私は無実だ』『冤罪の被害者だ』と主張し、それが『説得力のあるもの』であれば、話は別であろうが…。)

 

(03)江田憲司議員の『引退』

かつて、彼を横浜市民に紹介した形だった、江田憲司衆議院議員(私自身の住んでいる小選挙区『神奈川8区』の選出議員だった)もすでに、前回の選挙で落選し、『引退』をしてしまっている。

 

というよりも、江田氏自身も、『そのうち、山中市長を横浜市という政治の場に連れてきた責任』を問われるのではないか、それを恐れていたというような『雰囲気』を私は、彼の街頭演説を時折、聞いたりしながら、感じていた。

 

横浜市政の詳しいことは私には、わからない。

また、横浜市長だけでなく、現在の神奈川県知事『黒岩祐治』(くろいわ・ゆうじ)氏(9月で72歳になるはずだ、元フジテレビのキャスター、2011年に神奈川県知事に初当選、現在、4期目)も、前回、2023年の知事選期間中に、『11年間にわたる不倫関係』、その後、『手切れ金?』で彼女を『ポイ捨て?』しようとしたことで、『週刊誌報道』などで暴露され、一挙に『選挙民の信頼』を失った。

 

(04)黒岩知事の『汚点』

 

しかし、既に『選挙期間中であった』ことなどを利用して、彼は、『逃げ切り』、かくして『長期の不倫関係を認めている人物が、知事として、立派なこと?を言い続けている』という『歪んだ』事態が、『神奈川県政』においても続いている。

 

こうしたことは、『現在の民主主義の仕組みの欠陥?』とでも言うしかないような話であるが、どちらにしても、『神奈川県知事』というのは、『政令指定都市だらけ』の『神奈川県』にあっては、『大して権限がなく(そうであっても、もっとマシなこともできるはず、と思うが)』『ある種の象徴・シンボルのような人物』に過ぎないらしい。

 

しかし、その『象徴』が、同時に『不倫スキャンダル』『人権無視』を体現するような人物であるというのは、『茶番』でしかないだろう。

(『山中パワハラ市長』が失脚すれば、つぎには、『神奈川県民の怒り』が、黒岩氏に向かうだろうことを『期待』するしかないが、黒岩氏は黒岩氏で、『高市首相の出現』で国政が不安定化を増し、かつ、『自民党内の、次世代の有力政治家』がある意味で乱立状態にあるなかで、『自分が延命できる可能性』もまた出てきたと、あくまでも『前向き?』に考えているようにも見える。)

 

(05)『園芸博』で延命はかるか、山中氏

 

また、山中市長のほうは、『横浜園芸博』(正式名称は、2027年国際園芸博覧会『GREEN×EXPO2027』)が2027年3月19日~9月26日の会期で開催が予定されていることから、それの円滑な執行のためには、『自分がやめないこと』が不可欠であると主張したがっているように見える。

 

しかし、『横浜園芸博』は何も、現在、予定通り執行しなければならないという『緊急性』があるわけではない。

むしろ、『山中氏のブラックなイメージに覆われた、市長職の継続を、無批判に許すこと』こそ、(子どもなどに対する『教育上の影響』を考えても)『好ましくない事態』と言わざるをえないだろう。

 

ここは、『山中退陣』で、『疑惑の払拭』を少しでもはかること、(問題だらけの『地域の民主主義』を『改善』『改革』していこうとする観点からいうと)『望ましい選択肢』であると思われる。

『横浜園芸博』の(少なくとも)『延期』という決断こそが必要だろう。

 

(仮に、『延期』した結果)『横浜園芸博』自体、その必要性が認められなくなったということになれば、『中止』だってありうるだろう。

『やると決めていたから、やる』などという、『思考停止』の措置だけは、とるべきではない、と考える。

 

 

 

 

本日(7月27日)、作家の東野圭吾さんの訃報(享年68歳だったとのこと、23日大腸がんで死去)がネットで一斉に報じられたのには、びっくりした。

 

『大腸がんで闘病中』とは知らなかったからだ。

この間、(『アド街ック天国』などにも出演していた)山田五郎さんが、テレビ出演を見かけたばかりだったのに、(テレビ出演後、2週間くらいで亡くなられたのにも)びっくりしたものだが、東野圭吾さんの訃報には、それ以上に驚いた。

 

 

(02)山田五郎さんの訃報

東野圭吾さんは、昔からよく読んでいる。

その名前が、特に印象に残ったのは、『流星の絆』がドラマ化されたのを2008年10月期のTBS系のテレビドラマで見たときからだったような気がする。

 

当時、私は、カミさんと一緒に、日本と中国を行ったり来たりしている時期だった。

たしか、テレビドラマ(三浦友和が重要な役で出演していた。脚本は宮藤官九郎で、二宮和也、錦戸亮、戸田恵梨香なども出演していた)を先に見て、その後、原作を読んだ気がする。

(03)『流星の絆』

 

 

テレビドラマを見たのは、もしかしたら、(そのころ、中国で蔓延していた)海賊版っぽい『動画配信』によるものだったのかもしれない。

 

何となく、原作のほうは、その当時、北京にあった、『日本人の駐在者向けの、<日本人会>の貸本サービス』を利用して読んだような記憶がある。

(そこはたしか、『日本語が出来る中国人』も大いに利用していたような印象だ。)

 

(04)日本語の小説が人気

 

一般の書店においても、『東野圭吾』は人気があって、『翻訳本』がたくさん出ていた。

どうやら、『ある種、社会派的な語り口』、そして、『人情派で登場人物にも共感する作風』、それでいて、『ドラマとしても波瀾万丈』といったところが、『中国人にも人気がある理由』のようだった。

 

私の見るところ、『村上春樹』にもまさるとも劣らぬ人気という気がした(『村上春樹』よりも、もっとすそ野の広い読者に受けているという印象だった)。

(05)『村上春樹』との人気争い

 

私は、その後、台湾や、その他の地域を訪れた際にも、『村上春樹』や『東野圭吾』の人気ぶりを見るのが、現地の人々の『日本の小説や文化』の受容度をはかる物差しになるなと感じたほどだった。

 

最近、どうも、『東野圭吾』さんの小説が文庫本になったり、あるいは映画化される等、いっぱい出ているなと思っていた(たしか、これまで、『電子化』を認めていなかった作品でも『電子化』されたものが、どんどん出されていた。

 

『大腸がん』の末期であったというから、当然、出版社などは、その病状を割合詳しく知っているところもあったのだろう。

 

(06)宮部みゆきさん

 

最近、どうも、『宮部みゆき』さんがいろいろ活躍しているという印象があったが、あるいは、『東野圭吾さんの退出』を受けて、ご自分が、『エンタメ小説』を世の中に伝える『スポンサー的な役割』を、かつての『東野圭吾さんに代わって、努めなければならない』というような『自覚』(というと、『上から目線』的な表現になってしまうが)のようなものの、現れだったのかもしれない。

 

ともかく、私は、『小説を読む気があまり起きないとき』は、『病人が昔、病み上がりにりんごなどをよく食べたように』とりあえず、『東野圭吾を読んで、調子を取り戻す』ということは、何度かあった。

 

現に、最近も、何冊か、『読もう』と思って、『図書館から借りたり、あるいはブックオフ等から購入したり』していたくらいである。

 

東野圭吾さんの晩年の動画などを見ると、私が知っている東野圭吾さんというのは、相当、昔の静止画とか動画ばかりだったのだな、と気が付く。

 

私は、彼が、『同じようなものは、なるべく書かない』という主義で、次々と、『新たなネタやトリック、題材』を取り入れていたのを知っていた。

(とはいえ、明らかに、『東野圭吾風』の『作風』というのはあって、それが、『心地よい秩序をキープしていた』。)

 

彼は、もともと、『理科系の人』であるから、今後、『AI』などもテーマにして、『人間とAIのだまし合い』みたいなことも、素材にするのだろうと思っていた(すでに、そういうものを書いているのかもしれないが…)。

 

『人間はいつか死ぬもの』だから、東野圭吾も死んでも、しようがないが、本当に『山田五郎さん』以上に、びっくりさせられる『訃報』だった。

(歳をとると、本当に、『訃報』ばかりが気になってしまうのも、残念な話である。)

 

 

 

 

 

 

ワールドカップのサッカーの試合が終わって以降、何となく勝負を追いかけるイベントの中毒みたいになったところがあって、その後、大相撲名古屋場所の中継放送をバカみたいに見ていた。

 

以前は、横綱照ノ富士(現在の『伊勢ケ浜親方』)のファンを自称していたため、正直言って、しょっちゅうハラハラしながら土俵を見つめていたが、彼が引退して以降は、そういう『切迫感』もなくなったし、相撲を見なければならないという気持ちも薄れていた。

 

ところが、不思議なことに、最近ではまた、『土俵』を巡って不思議な空気が漂っている。

それは、『モンゴル力士ばかりが席捲している』『なぜ、伊勢ケ浜部屋の力士がやたらにいるのか』『豊昇龍はなぜ、横綱になって以降、一度も優勝できないのか』『次の横綱候補として、霧島というモンゴル力士がまたもや出てくるのはどういう訳か』『豊まず、昇龍と大の里という両横綱が、揃って成績が悪いのはどういう訳か』『日本出身横綱がどうして増えないのか』

などというものらしいのだが、実は、これらは、相互に矛盾しているような気がしている。

 

まず、『伊勢ケ浜部屋の関取がやたらに多いのは、相撲協会が横綱白鵬の部屋をとりつぶしにして、白鵬の角界における影響力を、一挙にそごうとしたせいであろう』

そもそも、『モンゴル力士が強いのは、いまだに、大相撲で強くなれば、自分の実力で大金を稼ぎ、またモンゴルでの名声も獲得できるという<大相撲ドリームの道>が、残されているから』だろうと思う。

 

それに、『モンゴル力士』というのは、例えば昔の『ハワイ勢』のように、過度に『仲間意識』をもつことなく、むしろ、『いくつかの派閥にわかれる』ということはあったとしても、かえって、『異なる派閥同士』では、強烈なライバル意識を発揮し、その結果、切磋琢磨で『モンゴル出身力士』から、継続して、大関、横綱を生み出すという『成果』を上げつつある。

そのなかで、唯一、『大関』から『横綱』に上がれなかったのが、『霧島』であるが、彼は、現在、二度も大関から陥落しながらも、再度、『綱取り』への挑戦を続けているところである。

また、『横綱照ノ富士』などは、引退以降も、『指導者』としての力を発揮し、今場所の『関脇・熱海富士』を優勝決定戦で、『初優勝までもう一歩』のところまで、育て上げたのも、『照ノ富士の指導者としての力量を示すもの』だと言えるのだろう。

 

もっとも、『照ノ富士』は、いわゆる『昔ながらのいわゆるスパルタ式の指導』を本能的にやってしまうところがあるようで、例えば、『伯乃富士(もともとは、白鵬の部屋の所属力士であった・旧のしこ名は伯乃鵬だっ)』は、かつて、『竹刀』

をふるっての暴力を受けたと、協会のなかで訴えたこともあったが、これは『部屋のタニマチの女性』に対して『酒が入っての悪い素行』に及んだことと、『照ノ富士のスパルタ指導』がミックスして、そのようなことになってしまったようだ。

そしてこれも、『照ノ富士』自身が、自ら協会に申告し、かつ『伯乃富士』に対しても、自分を告発することを促したようで、その後、両者の関係は改善したようにも見える。

(現に、最近では、伯乃富士は、伊勢ケ浜親方の指導を受け入れて、相撲のほうも、やや改善したようにも感じられる。)

 

いろいろ書いていくと長くなってしまうが、大相撲の混乱は、何も、『モンゴル勢』がもたらしたものというよりも、そのときそのときで、常に『良いモンゴル』と『悪いモンゴル』という形で、『モンゴル勢内部の対立』を利用して、その都度、『その場しのぎ』のことばかりやってきたのが、ついに累積して、『番付と力士の実力のバランス』がごまかし切れない状態にまでなってしまった結果のような気がしている。

 

そういう意味では、今回、『安青錦の足の負傷に耐えての優勝決定戦での連勝(千秋楽当日だけで、本割を含めて、1日に連続して、三回も相撲をとって、●○○でもって、優勝を決定した。ひょっとして、最後に霧島に負けていれば、最低、あと、三回くらい相撲をとって、○○の形を作れなければ、優勝できなかったはずである。)』というのは、『奇跡』に近いことである。

 

私は、実をいうと、(サッカーの試合での、アルゼンチン選手などのふるまい方を見ると)『安青錦の足がどの程度、けがをしているのか』というのは、『疑問な点もありうる』という気もしている。

『相撲という競技の性格上、<わざと、負傷の程度を大きいようにアピールしている>そのような可能性だってあると思う。』

たとえば、私の見るところ、『霧島』という力士は、『わざと安青錦の負傷している個所を攻撃する』というようなことのできない『性格の力士』のように見えてしまう。

仮にそうしてことが出来ていれば、『霧島の勝利の可能性』はもっと確率が高まっていたのではなかろうか?

(それが、『霧島のやさしさ』なのか、『霧島の油断』あるいは『霧島の心のよわさ』なのか、その辺まではわからないが…。)

 

また、本当に、『安青錦の足の負傷の程度』が大変なものであったとしたら、来場所以降、その後遺症に『苦しむ』という試練が『安青錦の未来』に暗雲としてたてこめているのかもしれない。

 

ともかく、そういうリスクを含めて、今場所は、終わった。

 

本来は、『優勝決定戦の裏話』とか、『安青錦の負傷の程度』など、『本場所が終わって以降』も、さまざまな情報が流れ、それが『新聞記事』などに書かれてもおかしくないのだが、どういうわけか、『大相撲の記者クラブ』というのは、『記者クラブ』のなかでも、『相撲協会にさからわない記事』しか書かない『メディア』ばかりのようで、本場所が終わると、『次の場所』が始まるまで(あるいは少なくとも、『巡業』が始まるまで)さっぱり、『報道がされなくなってしまう』というのが、実情のようである。

 

このように、NHKを含めて、『大本営発表』みたいな『報道ぶり』ばかりで、さっぱり、『裏の話』も『実情』もわかりそうにない、というのも、『大相撲の世界』と(最近話題の)『皇室の世界』『女性天皇』とか『女系天皇』の是非を巡り、『ブラックな世界』が維持されているようにしか見えない『次の天皇、次世代の皇室、特に<女性に対する差別と、非人間的扱いが埋め込まれてしまっているような>皇室典範のままで良いのだろうか』と感じる『二つの伝統の世界』のありようである。

 

正直言って、私など、『誰が皇室に入ったとしても、女性皇族に対しては、<男性の跡継ぎを生んでください>というプレッシャーにさらされざるを得ない<現在の皇室典範>など<非人間的なシステム>でしかなく、本来、将来的に、『廃止』か、『養子』や『里子』などの制度を含めて、跡継ぎの確保の在り方を、幅広く、『ゼロベースから検討せざるを得ないのではないか』という気がしているのだが…。

 

それに、『衆議院と参議院の議長、副議長で、『立法府の総意』を勝手に決めたというが、ほかならぬ、『福山哲郎・参議院副議長』といった人物(彼は、ついこの間まで、『立憲民主党の副代表や幹事長を務めていた』)がいながら、あのような『とりまとめ』を許したというのは、この人物自身の『背信行為』といっても過言ではないような気がする。

(もっとも、そのような人物と、一緒に『立憲民主党』を立ち上げた『枝野幸男氏』自身の『選択』も問われることになるのだろうけど…。これはかつての『立憲民主党』の『限界』を示すものでもあるのだろうけど…。)

 

私は、『日本』から『象徴天皇制』がなくなったとしたら、『現行憲法』もたちまち、『魔法』がとけて、『日本国民を統合する力』を喪失しそうな気もしているので、そう簡単に、『日本が変わる』とも思えないが…。

(例によって、長々と書きすぎてしまったようだ。)

 

 

日本時間の20日午前4時から、サッカーW杯の決勝(スペインVSアルゼンチン)が放送された。

 

 

私は前から書いているように、『にわかファン』であって、ルールもろくにわかっていないのだが、(あまり『愛国主義』の人間ではなく、おまけに『天邪鬼精神』の持ち主なもので)

日本代表チームがブラジルに負けて以降、急に熱心に中継放送を見始めた。

 

良くわからないながら見ていると、思いのほか、『スリリング』で面白かったもので、結局、その後、いくつもの試合をテレビ観戦した。

(高齢者でもあり、『仕事のない』身分のため、生の中継を見ることを基本にして、アメリカ、スペイン、ノルウエーの試合などを特に2回戦以降、見たような気がする。)

 

今、思い直してみると、<アメリカがいつ負けるのか>とか<ブラジルを倒したチームはその後、どうなっていくのか>などの関心で見ていたような印象だ。

 

その結果、米国がベルギーの『赤い悪魔』によって、火だるまにされて4対1で敗退するのも見届けた。

(02)アメリカの敗退

 

また、そもそもその試合では、その前の<米国対ボスニア・ヘルツェゴビナ戦>でレッドカードをくらって、出場停止になったはずの米国のバログン選手が、<トランプの介入><FIFAのタコ会長こと、インファンティノ会長の口利き>によって、『退場処分』が一年間猶予?されて、次のベルギー戦にも出場する、という『不思議な状況』が現出した。

 

(03)バログン選手の不幸

 

しかし、これは当のバログン選手にとっても、『はた迷惑な話』『はりのむしろ的状況』であったようで、結局、バログン選手は、何ら活躍することができず、途中で、『選手交代』を余儀なくされるという、『屈辱』を味わされていた。

(バログン選手も、もうひとりの『トランプの被害者』であるともいえよう。)

 

この辺をあまりくだくだ書いてもしようがないが、今回の『ワールド杯北中米3か国大会』は、トランプばかり『悪目立ち』して、しかも『トランプの信奉する、拝金主義、儲かりさえすれば良い』という『貧富の格差を容認し、サッカーという球技の根本をさえ破壊しかねないような、ブラックな思想』が世界を覆いかねない『ハルマゲドンのような戦い』であったような印象を受けた。

 

しかし、幸い、トランプが最も嫌っていたチームであるはずの『スペインチーム』が優勝し、2度目の頂点に達したのは、『まだましなエンディング』であったと感じた。

 

(04)トランプへのブーイング

もっとも、トランプというのは、『ブーイング』を浴びれば、かえって『自分の存在を認められた』と感じる『歪んだ感覚の持ち主』らしくて、むしろ、『うれしそうな表情』さえ浮かべていたのには、あきれ果てた。

 

どちらにしても、『ハーフタイム』に自分好みの『ショー』を無理やりねじ込み、『サッカーの決勝戦の雰囲気』を台無しにしようとしたことは、全世界の(ほとんどの)サッカーファンが、『こいつはどうしようもない奴だ』と思わせるに十分だっただろう。

(どちらにしても、彼は、大統領の任期の最後まで、『ロサンゼルス五輪』などの場で介入し、自分が『ホストだ』という扱いを求め続けるであろう。)

 

日本のニュース番組などでは、トランプ大統領は、『世界最大の軍事大国アメリカ』のリーダーだからということで、必要以上に、彼に対して『敬意を示す』ことを求める『礼儀正しい世論』が多数派のようだが、『世界政治の現実』を考えると、むしろ、スペインチームの選手たちのように、『俺たちの優勝を汚すな』というストレートな怒りを、はっきりと示すほうが、『倫理的に正しい態度なのではないか』という気が改めてした。

 

(05)スペイン選手たちの怒り

 

どちらにしても、トランプが最も『優勝させたくなかったチームの一つ』であったはずの、『スペインチーム』が今回、優勝したのは、『痛快な気分』がした。

(もっとも、それでもって、『トランプに対して、政治的な打撃を与えることができた』とは必ずしも言えないわけで、『そんなこと』で痛快がって見ても、それはそれで、『いじましい?』ということになってしまうけれど…。)

 

改めて、W杯の試合が終わってしまうと、日本代表の試合を含めて、もう一度、きちんと試合を見直してみたいという気がしないでもない。

(どちらにしても、『試合結果』が既にわかっているので、『録画中継』の放送を見ても、『同じ熱量』でわくわくしながら見ることはできないのだろうけど…。)

昨日(7月15日)、恒例の芥川賞、直木賞の選考会が開かれ、第175回芥川賞・直木賞がそれぞれ決定した。

 

私は、ちょうど、最近、『川崎市民アカデミー』の文学関連の講座やワークショップ(ゼミみたいなもの、参加者の発表や相互討論を含めて運営がされている)に継続して参加していることから、『一種のお遊び』として、芥川賞の候補作を全部読んで、『選考委員』になったつもりで、『選考ごっこ』をしてみようと思った。

 

ところが、候補作5作品を簡単に、『図書館』などで掲載雑誌をコピーしたりすれば、読めてこの『選考ごっこ』が出来るかと思ったのだが、『掲載雑誌』など貸し出されているので、あろう。図書館で入手は不可能だった。

 

そもそも、『文學』とか『群像』、『新潮』、『文藝』など、『芥川賞』などに興味のありそうな人しか、読まなさそうな雑誌なので、私なども、ほとんど買ったり、借りたりしたこともこれまでなかったような雑誌なのだが…。

 

それで、『勿体ない』とは思いながら、既に単行本となって刊行されている本を、次々と買うことになってしまった。

最初は、『ブックオフ』などで、『割引価格』のものがあるかとも思ったけれど、『ブックオフ』にはほとんどなかったし、結局、『アマゾン』などを利用して、新品のものばかりを、5冊も購入することになってしまった。

(その結果、こうした『無駄遣い』がカミさんに発覚して、厳しく叱責されることになってしまった。)

 

この5冊を購入してしまったわけだ。

ところで、これらを入手したものの、実際に読みだしてみると、『あまり面白くない』ものが少なくない。

 

ベストセラーのエンタメ小説(特にミステリー系)のように、読みだしたら、一気に一晩で読んでしまう、というようなのは、非常に少ないと言う印象である。

 

もちろん、これは、私自身の『小説を読む能力』にも問題があるのだろうとも思う。

しかし、それだけでもなさそうだ。

 

例えば、比較的早めに読んだ、『悪い血』(鈴木涼美・すずきすずみ作)という作品。

慶應義塾大学環境情報学部を卒業後、東京大学大学院社会情報修士課程を修了したという経歴だが、『修士論文』は後に『「AV女優」の社会学』というタイトルで書籍化したのだという。

 

その後、小説を書き始め、小説第一作、第二作がともに芥川賞候補になったのだという。

これを見ても、『社会ネタ』を小説化するタイプという印象を受ける。

 

ところが、小説を読んでも、なんというか、『ひりひりした感じ』がなく、ただ『エピソードの羅列』という印象を受けた。こちらの感性がマヒしているのか、『眠たくなってしまった』というのが第一印象だった。

 

そして、二番目に読んだのが、たしか、『ソリティアおじさんがいた頃』(村司侑・むらし・ゆう作)=この人変なペンネームだが男性である。ただし、作品のなかでは、女性の主人公になりきっている。だから、あえて中性的なペンネームにしたのか?

 

この作品は、関西弁のノリ、しかも、漫才というか、『ピンの漫談』みたいな軽快なタッチで飛ばしてゆくのが、心地よいのはたしかだ。

ただし、この主人公の夫が、どうして、黒野田さんに気に入られたのか?そして、主人公自身は、黒野田さんを『ソリティアおじさん』=仕事をしないで、『トランプゲーム』の『ソリティア』ばかりやって時間をつぶしていたので、そういうあだ名をつけたみたいだ=と呼んで冷たい眼で見ていたのか、その辺がよくわからない。

 

結局、『他の会社に移って、すでに退社している』黒野田さんが、突然死したというので、主人公は、黒野田さんのお通夜と告別式に参列することになったのだが…。

 

何となく、話は快調に進んでいくが、『夫の孤独』も理解できずに、『転職できないままに、長い間、通勤しているふりをしていた夫』に、ついに、いわば『蒸発』されてしまう『女性主人公』の『心理』とこの軽快な関西弁小説の『ギャップの謎』は、私にはよく理解できなかった。

(これも、小説の読解力の『なさ』のせいかもしれないが…。)

 

なおこの作品には、『よどんだ人生にあたらしい一手をもたらす決断と成長の物語』と書いた『帯』がつけられている。

 

この調子で書いていると、とてつもなく長くなってしまうので、先を急ぐ。

 

『ゾンビ回収婦』(これが結局、『受賞した』)については、ストーリーに途中からついていけなくなってしまった、というのが、実情だ。

 

『ゾンビの死体を回収するのが仕事である、清掃専門の女性』というのが、『わたし』の設定であるが、どうやら、彼女は、『ゲームの世界のなかの人物』のようで、途中から、話は『AI』というか『VR』のなかの世界になってしまう。

 

そして、『AI』が暴走して、主人公自身が、『カリガリ博士』の世界か何かのように、最後は、『狂人の夢のなかの出来事』そして、『狂人が、電気的治療か何かを施されているかの如く』最後は、自分が『崩壊する』=『救われる』イメージで終わるというのだが、どうもそこまでついて行けなかったというのが、本音である。

 

『アンチ・グッドモーニング』(八木詠美=えみ=作)というのは、『眠れるなら、死んでもいい。』仕事のチャット通知に追い立てられ、自分を失った『わたし』。『ポジティブ至上主義の現代社会に反逆する、“不眠”アドベンチャー長篇!』という宣伝文句がつけられている。

 

ちょうど、私はこの間、サッカーのワールドカップを、(日本が負けて以降)本格的にテレビ観戦することになったので、なぜか、しょっちゅう、寝不足で『不眠症』に陥ってしまったような錯覚にとらわれている。

 

だから、個人的には、私自身の境遇と似ているのだが、こんな調子で、『芥川賞の選考会』に合わせて、無理に、作品を読み続けるという風になってしまったもので、はっきりいって、私自身に『読者』として、あまりにも余裕がなかった。

 

ほとんど、5作のなかで、最後に読んだのが、『丹心/まごころ』(仁科斂・にしなれん作)だった。

 

これは、『日中関係の今に迫る芥川賞候補作』という『帯』がつけられていた。

 

廃墟マンション(資金が続かなくなって、途中で、建設が放棄された、中国の高層マンション)を『美術館』にするという話が、日本人の建築家に舞い込んできて、その弟子である、ほとんど未経験の中国人青年が、それの実行を担うというような話である。

 

これは、作者自身が、多摩美術大学芸術学科非常勤講師で、自身、『設計などもできる』という能力と経験がバックに遭っ手の話のようである。

 

しかし、この小説、『中国の政治、経済、社会の状況』とか、『不動産業界の話』、『日本と中国の関係』など、いろんな情報を取り込んで、構築されてはいるものの、『何やら、調べて書いた作品』というか、『作り物めいた感じ』が全体に漂っていて、『消化不良の作品』という印象を抱いた。

 

どちらかというと、『5作品のなかでも、下位の作品』という気がした。

なんでもかんでも、(満州の話を含めて)盛り込めば、『大作が出来る』というものでもないだろう。

 

この作品を見ると、『いかにして、芥川賞の受賞作の神話が形成されるか』その仕組みが、現れているようで、やや『寂しい感じ』がしてくる。

 

総じていうと、私は、今回は、『受賞作』について、『該当作品なし』であっても良いのでは、と思った。

 

しかし、いわゆる『出版不況』だから、『芥川賞』で『受賞なし』は具合が悪いのだろう。

 

それで、5作品のなかでは、『想像力・構想力』が垣間見られる『ゾンビ回収婦』を、『受賞作』にしたのではなかろうか?

 

という気がした。

今回、芥川賞も直木賞もともに、女性受賞者であり、しかも、直木賞のほうは、『歴代で最高齢の受賞者』というようなことも言われている。

 

作家、編集者、選考委員ともに女性優位になりつつある時代を象徴しているような気もする。

しかし、率直にいうと、私が今回、作品のほとんどを購入した『有隣堂書店たまプラーザ店』においても、最近、本の陳列スペースを削減し、『雑貨みたいなもの』を販売したり、あるいは、本のなかでは、比較的大人が、カネを投下する、『絵本』とか『児童書』『学習図書』みたいなものは、売り場面積を増やしている状況だ。

 

つまり、書店自身が、『芥川賞・直木賞』で本が売れる時代は、とっくに過ぎていると判断しているみたいで、これら両賞の関連作品の『販売促進』『セールスプロモーション』の企画も店頭で、さほどやっているわけでもなかった。

 

なんとも『皮肉な感じ』がしてしまったのも事実である。

(この有隣堂は社長だか、副社長だかが、『安倍晋三』とか『高市早苗』などのファンらしいということで有名のようだが)現在、『我が世の春?』みたいな感じの漂っている『高市早苗関連本』にしても、あまりにも、似たような『便乗雑誌』ばかり店頭をにぎわせているというのが実情である。

 

こんなことをやっていると、さすがの『高市ファン』も『同じような雑誌ばかり買ってられない』という気がして、『売れ残り』『ブーム終焉』の高市本が、並びすぎて、『赤字倒産』してしまう出版業者が出てくるのではなかろうかと、そんな気さえ、してくる。

(すでに、『トランプ本』に関しては、その傾向が出てきているみたいだ。)