30日、弁護士らによる『第三者調査』で、横浜市の山中竹春市長(53歳)の7項目にわたる『パワハラ認定』をし『調査報告書』を公表した。

 

この問題は、前人事部長の久保田淳氏が報道機関に内部告発し発覚したという経緯がある。

 

しかし、私にとっては、2021年8月の横浜市長選挙において、地元の衆議院議員・江田憲司氏が(どこかから)『有能な人物を見つけてきた』みたいな感じで、突然、横浜市民に対して、当時流行っていた『新型コロナ対策』についても、『医学部出身』なので、『対策の専門家?』であり、また『データサイエンティスト?』でもあるので、『IR・カジノ』について『専門的知見』を有しなどと称して、突如、『市長選の有力候補』として宣伝し、その結果、他の候補を大差でおさえて当選してしまったその時から、『疑惑に満ちた人物』として気にかかっていた人である。

 

 

その選挙では、私は、『IR・カジノの導入反対』という観点から、(いろいろ疑問を感じながらも)山中氏を応援するようなブログ記事を書いてしまったし、当選したときは、『それで良かった』と思っていた(というか、『思おう』としていた)。

 

しかし、その後の経過は、山中氏の『経歴詐称』というか『能力の誇大宣伝』疑惑、さらには、彼の『パワハラ』体質、『何かを隠しているかのような』びくびくし、ぎごちない『言動のかずかず』がずっと伝えられてきた。

(そして、当初、江田憲司氏の『立憲民主党』とともに、山中市長当選に貢献したはずの『日本共産党』も、その後、『山中批判』に転じた。)

 

山中氏は、市長当選後、いつの間にか『市の官僚的政治機構』の利害に乗っかって、(前の林文子市長以上に)『体制寄り』『既存の利益の擁護者』として、『ロボット』みたいなぎごちない答弁を繰り返しながら、『立場の転換』を進めていったようだ。

(詳しい内容は、私自身、整理しきれていない。)

 

そして、その裏側で(これは、彼が横浜市立大学医学部教授であったころからの根強い『体質』であったようだが)、身近なものに対する『いじめ』『パワハラ』を繰り返していたようである。

 

(02)山中市長のパワハラ認定

 

今回、彼の極めて悪質な『パワハラ』行為の数々が明らかになった。

その報道を見ると、こうした体質は、彼が継続的にやってきたことで、『常習犯』『確信犯』ともいえそうだ。

 

昨日、今日の話ではないので、到底、『修正不可能』のように見られる。

こうしたことが明らかにされた以上、山中市長は、一日も早く、『辞職』をすべきであろう。

(もちろん、今回の『認定』に重要な『過誤』があり、『私は無実だ』『冤罪の被害者だ』と主張し、それが『説得力のあるもの』であれば、話は別であろうが…。)

 

(03)江田憲司議員の『引退』

かつて、彼を横浜市民に紹介した形だった、江田憲司衆議院議員(私自身の住んでいる小選挙区『神奈川8区』の選出議員だった)もすでに、前回の選挙で落選し、『引退』をしてしまっている。

 

というよりも、江田氏自身も、『そのうち、山中市長を横浜市という政治の場に連れてきた責任』を問われるのではないか、それを恐れていたというような『雰囲気』を私は、彼の街頭演説を時折、聞いたりしながら、感じていた。

 

横浜市政の詳しいことは私には、わからない。

また、横浜市長だけでなく、現在の神奈川県知事『黒岩祐治』(くろいわ・ゆうじ)氏(9月で72歳になるはずだ、元フジテレビのキャスター、2011年に神奈川県知事に初当選、現在、4期目)も、前回、2023年の知事選期間中に、『11年間にわたる不倫関係』、その後、『手切れ金?』で彼女を『ポイ捨て?』しようとしたことで、『週刊誌報道』などで暴露され、一挙に『選挙民の信頼』を失った。

 

(04)黒岩知事の『汚点』

 

しかし、既に『選挙期間中であった』ことなどを利用して、彼は、『逃げ切り』、かくして『長期の不倫関係を認めている人物が、知事として、立派なこと?を言い続けている』という『歪んだ』事態が、『神奈川県政』においても続いている。

 

こうしたことは、『現在の民主主義の仕組みの欠陥?』とでも言うしかないような話であるが、どちらにしても、『神奈川県知事』というのは、『政令指定都市だらけ』の『神奈川県』にあっては、『大して権限がなく(そうであっても、もっとマシなこともできるはず、と思うが)』『ある種の象徴・シンボルのような人物』に過ぎないらしい。

 

しかし、その『象徴』が、同時に『不倫スキャンダル』『人権無視』を体現するような人物であるというのは、『茶番』でしかないだろう。

(『山中パワハラ市長』が失脚すれば、つぎには、『神奈川県民の怒り』が、黒岩氏に向かうだろうことを『期待』するしかないが、黒岩氏は黒岩氏で、『高市首相の出現』で国政が不安定化を増し、かつ、『自民党内の、次世代の有力政治家』がある意味で乱立状態にあるなかで、『自分が延命できる可能性』もまた出てきたと、あくまでも『前向き?』に考えているようにも見える。)

 

(05)『園芸博』で延命はかるか、山中氏

 

また、山中市長のほうは、『横浜園芸博』(正式名称は、2027年国際園芸博覧会『GREEN×EXPO2027』)が2027年3月19日~9月26日の会期で開催が予定されていることから、それの円滑な執行のためには、『自分がやめないこと』が不可欠であると主張したがっているように見える。

 

しかし、『横浜園芸博』は何も、現在、予定通り執行しなければならないという『緊急性』があるわけではない。

むしろ、『山中氏のブラックなイメージに覆われた、市長職の継続を、無批判に許すこと』こそ、(子どもなどに対する『教育上の影響』を考えても)『好ましくない事態』と言わざるをえないだろう。

 

ここは、『山中退陣』で、『疑惑の払拭』を少しでもはかること、(問題だらけの『地域の民主主義』を『改善』『改革』していこうとする観点からいうと)『望ましい選択肢』であると思われる。

『横浜園芸博』の(少なくとも)『延期』という決断こそが必要だろう。

 

(仮に、『延期』した結果)『横浜園芸博』自体、その必要性が認められなくなったということになれば、『中止』だってありうるだろう。

『やると決めていたから、やる』などという、『思考停止』の措置だけは、とるべきではない、と考える。

 

 

 

 

本日(7月27日)、作家の東野圭吾さんの訃報(享年68歳だったとのこと、23日大腸がんで死去)がネットで一斉に報じられたのには、びっくりした。

 

『大腸がんで闘病中』とは知らなかったからだ。

この間、(『アド街ック天国』などにも出演していた)山田五郎さんが、テレビ出演を見かけたばかりだったのに、(テレビ出演後、2週間くらいで亡くなられたのにも)びっくりしたものだが、東野圭吾さんの訃報には、それ以上に驚いた。

 

 

(02)山田五郎さんの訃報

東野圭吾さんは、昔からよく読んでいる。

その名前が、特に印象に残ったのは、『流星の絆』がドラマ化されたのを2008年10月期のTBS系のテレビドラマで見たときからだったような気がする。

 

当時、私は、カミさんと一緒に、日本と中国を行ったり来たりしている時期だった。

たしか、テレビドラマ(三浦友和が重要な役で出演していた。脚本は宮藤官九郎で、二宮和也、錦戸亮、戸田恵梨香なども出演していた)を先に見て、その後、原作を読んだ気がする。

(03)『流星の絆』

 

 

テレビドラマを見たのは、もしかしたら、(そのころ、中国で蔓延していた)海賊版っぽい『動画配信』によるものだったのかもしれない。

 

何となく、原作のほうは、その当時、北京にあった、『日本人の駐在者向けの、<日本人会>の貸本サービス』を利用して読んだような記憶がある。

(そこはたしか、『日本語が出来る中国人』も大いに利用していたような印象だ。)

 

(04)日本語の小説が人気

 

一般の書店においても、『東野圭吾』は人気があって、『翻訳本』がたくさん出ていた。

どうやら、『ある種、社会派的な語り口』、そして、『人情派で登場人物にも共感する作風』、それでいて、『ドラマとしても波瀾万丈』といったところが、『中国人にも人気がある理由』のようだった。

 

私の見るところ、『村上春樹』にもまさるとも劣らぬ人気という気がした(『村上春樹』よりも、もっとすそ野の広い読者に受けているという印象だった)。

(05)『村上春樹』との人気争い

 

私は、その後、台湾や、その他の地域を訪れた際にも、『村上春樹』や『東野圭吾』の人気ぶりを見るのが、現地の人々の『日本の小説や文化』の受容度をはかる物差しになるなと感じたほどだった。

 

最近、どうも、『東野圭吾』さんの小説が文庫本になったり、あるいは映画化される等、いっぱい出ているなと思っていた(たしか、これまで、『電子化』を認めていなかった作品でも『電子化』されたものが、どんどん出されていた。

 

『大腸がん』の末期であったというから、当然、出版社などは、その病状を割合詳しく知っているところもあったのだろう。

 

(06)宮部みゆきさん

 

最近、どうも、『宮部みゆき』さんがいろいろ活躍しているという印象があったが、あるいは、『東野圭吾さんの退出』を受けて、ご自分が、『エンタメ小説』を世の中に伝える『スポンサー的な役割』を、かつての『東野圭吾さんに代わって、努めなければならない』というような『自覚』(というと、『上から目線』的な表現になってしまうが)のようなものの、現れだったのかもしれない。

 

ともかく、私は、『小説を読む気があまり起きないとき』は、『病人が昔、病み上がりにりんごなどをよく食べたように』とりあえず、『東野圭吾を読んで、調子を取り戻す』ということは、何度かあった。

 

現に、最近も、何冊か、『読もう』と思って、『図書館から借りたり、あるいはブックオフ等から購入したり』していたくらいである。

 

東野圭吾さんの晩年の動画などを見ると、私が知っている東野圭吾さんというのは、相当、昔の静止画とか動画ばかりだったのだな、と気が付く。

 

私は、彼が、『同じようなものは、なるべく書かない』という主義で、次々と、『新たなネタやトリック、題材』を取り入れていたのを知っていた。

(とはいえ、明らかに、『東野圭吾風』の『作風』というのはあって、それが、『心地よい秩序をキープしていた』。)

 

彼は、もともと、『理科系の人』であるから、今後、『AI』などもテーマにして、『人間とAIのだまし合い』みたいなことも、素材にするのだろうと思っていた(すでに、そういうものを書いているのかもしれないが…)。

 

『人間はいつか死ぬもの』だから、東野圭吾も死んでも、しようがないが、本当に『山田五郎さん』以上に、びっくりさせられる『訃報』だった。

(歳をとると、本当に、『訃報』ばかりが気になってしまうのも、残念な話である。)

 

 

 

 

 

 

ワールドカップのサッカーの試合が終わって以降、何となく勝負を追いかけるイベントの中毒みたいになったところがあって、その後、大相撲名古屋場所の中継放送をバカみたいに見ていた。

 

以前は、横綱照ノ富士(現在の『伊勢ケ浜親方』)のファンを自称していたため、正直言って、しょっちゅうハラハラしながら土俵を見つめていたが、彼が引退して以降は、そういう『切迫感』もなくなったし、相撲を見なければならないという気持ちも薄れていた。

 

ところが、不思議なことに、最近ではまた、『土俵』を巡って不思議な空気が漂っている。

それは、『モンゴル力士ばかりが席捲している』『なぜ、伊勢ケ浜部屋の力士がやたらにいるのか』『豊昇龍はなぜ、横綱になって以降、一度も優勝できないのか』『次の横綱候補として、霧島というモンゴル力士がまたもや出てくるのはどういう訳か』『豊まず、昇龍と大の里という両横綱が、揃って成績が悪いのはどういう訳か』『日本出身横綱がどうして増えないのか』

などというものらしいのだが、実は、これらは、相互に矛盾しているような気がしている。

 

まず、『伊勢ケ浜部屋の関取がやたらに多いのは、相撲協会が横綱白鵬の部屋をとりつぶしにして、白鵬の角界における影響力を、一挙にそごうとしたせいであろう』

そもそも、『モンゴル力士が強いのは、いまだに、大相撲で強くなれば、自分の実力で大金を稼ぎ、またモンゴルでの名声も獲得できるという<大相撲ドリームの道>が、残されているから』だろうと思う。

 

それに、『モンゴル力士』というのは、例えば昔の『ハワイ勢』のように、過度に『仲間意識』をもつことなく、むしろ、『いくつかの派閥にわかれる』ということはあったとしても、かえって、『異なる派閥同士』では、強烈なライバル意識を発揮し、その結果、切磋琢磨で『モンゴル出身力士』から、継続して、大関、横綱を生み出すという『成果』を上げつつある。

そのなかで、唯一、『大関』から『横綱』に上がれなかったのが、『霧島』であるが、彼は、現在、二度も大関から陥落しながらも、再度、『綱取り』への挑戦を続けているところである。

また、『横綱照ノ富士』などは、引退以降も、『指導者』としての力を発揮し、今場所の『関脇・熱海富士』を優勝決定戦で、『初優勝までもう一歩』のところまで、育て上げたのも、『照ノ富士の指導者としての力量を示すもの』だと言えるのだろう。

 

もっとも、『照ノ富士』は、いわゆる『昔ながらのいわゆるスパルタ式の指導』を本能的にやってしまうところがあるようで、例えば、『伯乃富士(もともとは、白鵬の部屋の所属力士であった・旧のしこ名は伯乃鵬だっ)』は、かつて、『竹刀』

をふるっての暴力を受けたと、協会のなかで訴えたこともあったが、これは『部屋のタニマチの女性』に対して『酒が入っての悪い素行』に及んだことと、『照ノ富士のスパルタ指導』がミックスして、そのようなことになってしまったようだ。

そしてこれも、『照ノ富士』自身が、自ら協会に申告し、かつ『伯乃富士』に対しても、自分を告発することを促したようで、その後、両者の関係は改善したようにも見える。

(現に、最近では、伯乃富士は、伊勢ケ浜親方の指導を受け入れて、相撲のほうも、やや改善したようにも感じられる。)

 

いろいろ書いていくと長くなってしまうが、大相撲の混乱は、何も、『モンゴル勢』がもたらしたものというよりも、そのときそのときで、常に『良いモンゴル』と『悪いモンゴル』という形で、『モンゴル勢内部の対立』を利用して、その都度、『その場しのぎ』のことばかりやってきたのが、ついに累積して、『番付と力士の実力のバランス』がごまかし切れない状態にまでなってしまった結果のような気がしている。

 

そういう意味では、今回、『安青錦の足の負傷に耐えての優勝決定戦での連勝(千秋楽当日だけで、本割を含めて、1日に連続して、三回も相撲をとって、●○○でもって、優勝を決定した。ひょっとして、最後に霧島に負けていれば、最低、あと、三回くらい相撲をとって、○○の形を作れなければ、優勝できなかったはずである。)』というのは、『奇跡』に近いことである。

 

私は、実をいうと、(サッカーの試合での、アルゼンチン選手などのふるまい方を見ると)『安青錦の足がどの程度、けがをしているのか』というのは、『疑問な点もありうる』という気もしている。

『相撲という競技の性格上、<わざと、負傷の程度を大きいようにアピールしている>そのような可能性だってあると思う。』

たとえば、私の見るところ、『霧島』という力士は、『わざと安青錦の負傷している個所を攻撃する』というようなことのできない『性格の力士』のように見えてしまう。

仮にそうしてことが出来ていれば、『霧島の勝利の可能性』はもっと確率が高まっていたのではなかろうか?

(それが、『霧島のやさしさ』なのか、『霧島の油断』あるいは『霧島の心のよわさ』なのか、その辺まではわからないが…。)

 

また、本当に、『安青錦の足の負傷の程度』が大変なものであったとしたら、来場所以降、その後遺症に『苦しむ』という試練が『安青錦の未来』に暗雲としてたてこめているのかもしれない。

 

ともかく、そういうリスクを含めて、今場所は、終わった。

 

本来は、『優勝決定戦の裏話』とか、『安青錦の負傷の程度』など、『本場所が終わって以降』も、さまざまな情報が流れ、それが『新聞記事』などに書かれてもおかしくないのだが、どういうわけか、『大相撲の記者クラブ』というのは、『記者クラブ』のなかでも、『相撲協会にさからわない記事』しか書かない『メディア』ばかりのようで、本場所が終わると、『次の場所』が始まるまで(あるいは少なくとも、『巡業』が始まるまで)さっぱり、『報道がされなくなってしまう』というのが、実情のようである。

 

このように、NHKを含めて、『大本営発表』みたいな『報道ぶり』ばかりで、さっぱり、『裏の話』も『実情』もわかりそうにない、というのも、『大相撲の世界』と(最近話題の)『皇室の世界』『女性天皇』とか『女系天皇』の是非を巡り、『ブラックな世界』が維持されているようにしか見えない『次の天皇、次世代の皇室、特に<女性に対する差別と、非人間的扱いが埋め込まれてしまっているような>皇室典範のままで良いのだろうか』と感じる『二つの伝統の世界』のありようである。

 

正直言って、私など、『誰が皇室に入ったとしても、女性皇族に対しては、<男性の跡継ぎを生んでください>というプレッシャーにさらされざるを得ない<現在の皇室典範>など<非人間的なシステム>でしかなく、本来、将来的に、『廃止』か、『養子』や『里子』などの制度を含めて、跡継ぎの確保の在り方を、幅広く、『ゼロベースから検討せざるを得ないのではないか』という気がしているのだが…。

 

それに、『衆議院と参議院の議長、副議長で、『立法府の総意』を勝手に決めたというが、ほかならぬ、『福山哲郎・参議院副議長』といった人物(彼は、ついこの間まで、『立憲民主党の副代表や幹事長を務めていた』)がいながら、あのような『とりまとめ』を許したというのは、この人物自身の『背信行為』といっても過言ではないような気がする。

(もっとも、そのような人物と、一緒に『立憲民主党』を立ち上げた『枝野幸男氏』自身の『選択』も問われることになるのだろうけど…。これはかつての『立憲民主党』の『限界』を示すものでもあるのだろうけど…。)

 

私は、『日本』から『象徴天皇制』がなくなったとしたら、『現行憲法』もたちまち、『魔法』がとけて、『日本国民を統合する力』を喪失しそうな気もしているので、そう簡単に、『日本が変わる』とも思えないが…。

(例によって、長々と書きすぎてしまったようだ。)

 

 

日本時間の20日午前4時から、サッカーW杯の決勝(スペインVSアルゼンチン)が放送された。

 

 

私は前から書いているように、『にわかファン』であって、ルールもろくにわかっていないのだが、(あまり『愛国主義』の人間ではなく、おまけに『天邪鬼精神』の持ち主なもので)

日本代表チームがブラジルに負けて以降、急に熱心に中継放送を見始めた。

 

良くわからないながら見ていると、思いのほか、『スリリング』で面白かったもので、結局、その後、いくつもの試合をテレビ観戦した。

(高齢者でもあり、『仕事のない』身分のため、生の中継を見ることを基本にして、アメリカ、スペイン、ノルウエーの試合などを特に2回戦以降、見たような気がする。)

 

今、思い直してみると、<アメリカがいつ負けるのか>とか<ブラジルを倒したチームはその後、どうなっていくのか>などの関心で見ていたような印象だ。

 

その結果、米国がベルギーの『赤い悪魔』によって、火だるまにされて4対1で敗退するのも見届けた。

(02)アメリカの敗退

 

また、そもそもその試合では、その前の<米国対ボスニア・ヘルツェゴビナ戦>でレッドカードをくらって、出場停止になったはずの米国のバログン選手が、<トランプの介入><FIFAのタコ会長こと、インファンティノ会長の口利き>によって、『退場処分』が一年間猶予?されて、次のベルギー戦にも出場する、という『不思議な状況』が現出した。

 

(03)バログン選手の不幸

 

しかし、これは当のバログン選手にとっても、『はた迷惑な話』『はりのむしろ的状況』であったようで、結局、バログン選手は、何ら活躍することができず、途中で、『選手交代』を余儀なくされるという、『屈辱』を味わされていた。

(バログン選手も、もうひとりの『トランプの被害者』であるともいえよう。)

 

この辺をあまりくだくだ書いてもしようがないが、今回の『ワールド杯北中米3か国大会』は、トランプばかり『悪目立ち』して、しかも『トランプの信奉する、拝金主義、儲かりさえすれば良い』という『貧富の格差を容認し、サッカーという球技の根本をさえ破壊しかねないような、ブラックな思想』が世界を覆いかねない『ハルマゲドンのような戦い』であったような印象を受けた。

 

しかし、幸い、トランプが最も嫌っていたチームであるはずの『スペインチーム』が優勝し、2度目の頂点に達したのは、『まだましなエンディング』であったと感じた。

 

(04)トランプへのブーイング

もっとも、トランプというのは、『ブーイング』を浴びれば、かえって『自分の存在を認められた』と感じる『歪んだ感覚の持ち主』らしくて、むしろ、『うれしそうな表情』さえ浮かべていたのには、あきれ果てた。

 

どちらにしても、『ハーフタイム』に自分好みの『ショー』を無理やりねじ込み、『サッカーの決勝戦の雰囲気』を台無しにしようとしたことは、全世界の(ほとんどの)サッカーファンが、『こいつはどうしようもない奴だ』と思わせるに十分だっただろう。

(どちらにしても、彼は、大統領の任期の最後まで、『ロサンゼルス五輪』などの場で介入し、自分が『ホストだ』という扱いを求め続けるであろう。)

 

日本のニュース番組などでは、トランプ大統領は、『世界最大の軍事大国アメリカ』のリーダーだからということで、必要以上に、彼に対して『敬意を示す』ことを求める『礼儀正しい世論』が多数派のようだが、『世界政治の現実』を考えると、むしろ、スペインチームの選手たちのように、『俺たちの優勝を汚すな』というストレートな怒りを、はっきりと示すほうが、『倫理的に正しい態度なのではないか』という気が改めてした。

 

(05)スペイン選手たちの怒り

 

どちらにしても、トランプが最も『優勝させたくなかったチームの一つ』であったはずの、『スペインチーム』が今回、優勝したのは、『痛快な気分』がした。

(もっとも、それでもって、『トランプに対して、政治的な打撃を与えることができた』とは必ずしも言えないわけで、『そんなこと』で痛快がって見ても、それはそれで、『いじましい?』ということになってしまうけれど…。)

 

改めて、W杯の試合が終わってしまうと、日本代表の試合を含めて、もう一度、きちんと試合を見直してみたいという気がしないでもない。

(どちらにしても、『試合結果』が既にわかっているので、『録画中継』の放送を見ても、『同じ熱量』でわくわくしながら見ることはできないのだろうけど…。)

昨日(7月15日)、恒例の芥川賞、直木賞の選考会が開かれ、第175回芥川賞・直木賞がそれぞれ決定した。

 

私は、ちょうど、最近、『川崎市民アカデミー』の文学関連の講座やワークショップ(ゼミみたいなもの、参加者の発表や相互討論を含めて運営がされている)に継続して参加していることから、『一種のお遊び』として、芥川賞の候補作を全部読んで、『選考委員』になったつもりで、『選考ごっこ』をしてみようと思った。

 

ところが、候補作5作品を簡単に、『図書館』などで掲載雑誌をコピーしたりすれば、読めてこの『選考ごっこ』が出来るかと思ったのだが、『掲載雑誌』など貸し出されているので、あろう。図書館で入手は不可能だった。

 

そもそも、『文學』とか『群像』、『新潮』、『文藝』など、『芥川賞』などに興味のありそうな人しか、読まなさそうな雑誌なので、私なども、ほとんど買ったり、借りたりしたこともこれまでなかったような雑誌なのだが…。

 

それで、『勿体ない』とは思いながら、既に単行本となって刊行されている本を、次々と買うことになってしまった。

最初は、『ブックオフ』などで、『割引価格』のものがあるかとも思ったけれど、『ブックオフ』にはほとんどなかったし、結局、『アマゾン』などを利用して、新品のものばかりを、5冊も購入することになってしまった。

(その結果、こうした『無駄遣い』がカミさんに発覚して、厳しく叱責されることになってしまった。)

 

この5冊を購入してしまったわけだ。

ところで、これらを入手したものの、実際に読みだしてみると、『あまり面白くない』ものが少なくない。

 

ベストセラーのエンタメ小説(特にミステリー系)のように、読みだしたら、一気に一晩で読んでしまう、というようなのは、非常に少ないと言う印象である。

 

もちろん、これは、私自身の『小説を読む能力』にも問題があるのだろうとも思う。

しかし、それだけでもなさそうだ。

 

例えば、比較的早めに読んだ、『悪い血』(鈴木涼美・すずきすずみ作)という作品。

慶應義塾大学環境情報学部を卒業後、東京大学大学院社会情報修士課程を修了したという経歴だが、『修士論文』は後に『「AV女優」の社会学』というタイトルで書籍化したのだという。

 

その後、小説を書き始め、小説第一作、第二作がともに芥川賞候補になったのだという。

これを見ても、『社会ネタ』を小説化するタイプという印象を受ける。

 

ところが、小説を読んでも、なんというか、『ひりひりした感じ』がなく、ただ『エピソードの羅列』という印象を受けた。こちらの感性がマヒしているのか、『眠たくなってしまった』というのが第一印象だった。

 

そして、二番目に読んだのが、たしか、『ソリティアおじさんがいた頃』(村司侑・むらし・ゆう作)=この人変なペンネームだが男性である。ただし、作品のなかでは、女性の主人公になりきっている。だから、あえて中性的なペンネームにしたのか?

 

この作品は、関西弁のノリ、しかも、漫才というか、『ピンの漫談』みたいな軽快なタッチで飛ばしてゆくのが、心地よいのはたしかだ。

ただし、この主人公の夫が、どうして、黒野田さんに気に入られたのか?そして、主人公自身は、黒野田さんを『ソリティアおじさん』=仕事をしないで、『トランプゲーム』の『ソリティア』ばかりやって時間をつぶしていたので、そういうあだ名をつけたみたいだ=と呼んで冷たい眼で見ていたのか、その辺がよくわからない。

 

結局、『他の会社に移って、すでに退社している』黒野田さんが、突然死したというので、主人公は、黒野田さんのお通夜と告別式に参列することになったのだが…。

 

何となく、話は快調に進んでいくが、『夫の孤独』も理解できずに、『転職できないままに、長い間、通勤しているふりをしていた夫』に、ついに、いわば『蒸発』されてしまう『女性主人公』の『心理』とこの軽快な関西弁小説の『ギャップの謎』は、私にはよく理解できなかった。

(これも、小説の読解力の『なさ』のせいかもしれないが…。)

 

なおこの作品には、『よどんだ人生にあたらしい一手をもたらす決断と成長の物語』と書いた『帯』がつけられている。

 

この調子で書いていると、とてつもなく長くなってしまうので、先を急ぐ。

 

『ゾンビ回収婦』(これが結局、『受賞した』)については、ストーリーに途中からついていけなくなってしまった、というのが、実情だ。

 

『ゾンビの死体を回収するのが仕事である、清掃専門の女性』というのが、『わたし』の設定であるが、どうやら、彼女は、『ゲームの世界のなかの人物』のようで、途中から、話は『AI』というか『VR』のなかの世界になってしまう。

 

そして、『AI』が暴走して、主人公自身が、『カリガリ博士』の世界か何かのように、最後は、『狂人の夢のなかの出来事』そして、『狂人が、電気的治療か何かを施されているかの如く』最後は、自分が『崩壊する』=『救われる』イメージで終わるというのだが、どうもそこまでついて行けなかったというのが、本音である。

 

『アンチ・グッドモーニング』(八木詠美=えみ=作)というのは、『眠れるなら、死んでもいい。』仕事のチャット通知に追い立てられ、自分を失った『わたし』。『ポジティブ至上主義の現代社会に反逆する、“不眠”アドベンチャー長篇!』という宣伝文句がつけられている。

 

ちょうど、私はこの間、サッカーのワールドカップを、(日本が負けて以降)本格的にテレビ観戦することになったので、なぜか、しょっちゅう、寝不足で『不眠症』に陥ってしまったような錯覚にとらわれている。

 

だから、個人的には、私自身の境遇と似ているのだが、こんな調子で、『芥川賞の選考会』に合わせて、無理に、作品を読み続けるという風になってしまったもので、はっきりいって、私自身に『読者』として、あまりにも余裕がなかった。

 

ほとんど、5作のなかで、最後に読んだのが、『丹心/まごころ』(仁科斂・にしなれん作)だった。

 

これは、『日中関係の今に迫る芥川賞候補作』という『帯』がつけられていた。

 

廃墟マンション(資金が続かなくなって、途中で、建設が放棄された、中国の高層マンション)を『美術館』にするという話が、日本人の建築家に舞い込んできて、その弟子である、ほとんど未経験の中国人青年が、それの実行を担うというような話である。

 

これは、作者自身が、多摩美術大学芸術学科非常勤講師で、自身、『設計などもできる』という能力と経験がバックに遭っ手の話のようである。

 

しかし、この小説、『中国の政治、経済、社会の状況』とか、『不動産業界の話』、『日本と中国の関係』など、いろんな情報を取り込んで、構築されてはいるものの、『何やら、調べて書いた作品』というか、『作り物めいた感じ』が全体に漂っていて、『消化不良の作品』という印象を抱いた。

 

どちらかというと、『5作品のなかでも、下位の作品』という気がした。

なんでもかんでも、(満州の話を含めて)盛り込めば、『大作が出来る』というものでもないだろう。

 

この作品を見ると、『いかにして、芥川賞の受賞作の神話が形成されるか』その仕組みが、現れているようで、やや『寂しい感じ』がしてくる。

 

総じていうと、私は、今回は、『受賞作』について、『該当作品なし』であっても良いのでは、と思った。

 

しかし、いわゆる『出版不況』だから、『芥川賞』で『受賞なし』は具合が悪いのだろう。

 

それで、5作品のなかでは、『想像力・構想力』が垣間見られる『ゾンビ回収婦』を、『受賞作』にしたのではなかろうか?

 

という気がした。

今回、芥川賞も直木賞もともに、女性受賞者であり、しかも、直木賞のほうは、『歴代で最高齢の受賞者』というようなことも言われている。

 

作家、編集者、選考委員ともに女性優位になりつつある時代を象徴しているような気もする。

しかし、率直にいうと、私が今回、作品のほとんどを購入した『有隣堂書店たまプラーザ店』においても、最近、本の陳列スペースを削減し、『雑貨みたいなもの』を販売したり、あるいは、本のなかでは、比較的大人が、カネを投下する、『絵本』とか『児童書』『学習図書』みたいなものは、売り場面積を増やしている状況だ。

 

つまり、書店自身が、『芥川賞・直木賞』で本が売れる時代は、とっくに過ぎていると判断しているみたいで、これら両賞の関連作品の『販売促進』『セールスプロモーション』の企画も店頭で、さほどやっているわけでもなかった。

 

なんとも『皮肉な感じ』がしてしまったのも事実である。

(この有隣堂は社長だか、副社長だかが、『安倍晋三』とか『高市早苗』などのファンらしいということで有名のようだが)現在、『我が世の春?』みたいな感じの漂っている『高市早苗関連本』にしても、あまりにも、似たような『便乗雑誌』ばかり店頭をにぎわせているというのが実情である。

 

こんなことをやっていると、さすがの『高市ファン』も『同じような雑誌ばかり買ってられない』という気がして、『売れ残り』『ブーム終焉』の高市本が、並びすぎて、『赤字倒産』してしまう出版業者が出てくるのではなかろうかと、そんな気さえ、してくる。

(すでに、『トランプ本』に関しては、その傾向が出てきているみたいだ。)

 

7月7日の朝9時からのW杯『米国』vs『ベルギー』の試合を私も見ていた。

(私の場合、『にわかサッカー』の組だから、『サッカーの見方?』もよくわからない。)

 

だから、正真正銘、『トランプがスポンサー』というか、『自分のチーム』みたいな顔をしている『米国代表チーム』が敗北したら、どうなるか…、それを見たさに、朝早くからサッカーの試合をテレビ観戦しているわけで、(カミさんに言わせると)『性格が悪い』ということになりそうだ。

(01)アメリカ代表チーム

 

だが、今回ばかりは、私と同様な思いで、『アメリカが負けるといい』と念じながら観戦していた人の数は、そうとうの数に上るのではなかろうか?

 

というのも、例の(ボスニア・ヘルツェゴビナ戦で)『レッドカード』をくらい、本来、『出場できなかったはずの』アメリカの主力選手のFWのバログン選手に対して、トランプ大統領が、露骨に介入して(本人があまりにも率直に語るには、友達のFIFA=国際サッカー連盟=会長のインファンティノ氏に対して)『あまりにもひどい。なんとかしてくれ』と直接、電話を入れたところ、早速、動いてくれて、『バログンの出場停止処分』について『1年間猶予する』と決定したのだという。

 

その後、FIFAでは、『機関が正式決定したもので問題はない』などと『表面的には、きれいな形にした』ようである。

しかし、そもそも、対戦相手のベルギーチームの監督が、『エイプリル・フールが7月にあるとは知らなかった』と皮肉っているように、トランプが、インファンティノ(外観的にいうと、『タコ坊主』のように見える、悪役にぴったしのキャラクターである)会長との間の『ホットライン』で決めてしまったのは、『サッカーに対する冒とく』ともいえるような行為である。

 

トランプには、『そういうことはしてはいけない』という『倫理観』は全く欠如しているようで、いわゆる『スポーツマンシップ』とは全く『縁のない人物』と言ってもさしつかえないであろう。

こういう人物が、『W杯』とか『オリンピック』あるいは『野球』などに口出しをするので、ますます、さまざまなところで、『歪みが拡大』してゆく。

 

だが、結果は、皆さんご存じのとおり、『米国チーム』は、『赤い悪魔』というニックネームを持つ『ベルギーチーム』の前になんと『4対1』で大敗した。

 

おまけに、試合の最中、一度も、『アメリカ』は『ベルギー』をリードすることもなく、さらに、『バログン選手』も終始、精彩を欠き、結局、試合の途中で、他の選手に『替えられてしまう』という『みじめな結果』に終わってしまった。

(ある意味では、バログン選手も、『トランプの暴走』による『被害者』の一人であろう。)

 

こんな『負け方』をすると、『すると、これまでの勝ちはなんだったのか?』という気がしてくる。

弱いチームとばかり対戦するように、『対戦相手』が調整されていたのではないか?という気さえしてくるから、困ったものだ。

 

 

さらに、『ブラジルvsノルウエー戦』では、日本があれだけ苦しめられ、『5回もW杯で優勝したチームだから、しようがない』とまで言われていた、ブラジルチームが、ノルウエーの『守備だけ堅固なのかと思ったら、バイキングのような勢いで、攻撃も仕掛けてくる』その戦いぶりで、(前日の7月6日の)朝5時からの試合で、2対1で勝ってしまっていた。

 

この日の朝5時からの『スペインvsポルトガル戦』では、どうしてもレジェンドのクリスチーナ・ロナウドを主軸にした戦いをせざるを得ないらしいポルトガルが、(実際は、若い選手もかなり育ってきているのだけど…)その『ロナウド頼み』の戦法がたたって、『変化のある戦い方』の出来るスペインの前に敗北したような気がしたが、何せ、サッカーがよくわからないので、見たものの記憶が消えていくのも早い。

 

だが、それでも、サッカーは瞬時に『勝負が決まる』ところがあるので、面白い。

しばらく、『寝不足の日』が続きそうだ。

 

さて、アメリカの観客は、今後、どこを応援するのだろうか?

 

『USA』『USA』とサッカーにはあまり合わないようなテンポで応援していた、『トランプ信者』のようにも見える人たちは、どうするのか、ちょっと気にかかる。

もう、サッカーはあきらめて、ほかの競技に向かうのかもしれない。

 

 

私は、もともと『サッカー』など全くわかっていない人間だが、日本チームがキューバに敗退した試合を見て以降、何となく興味がわいてきて、その後、何試合か見ている。

(もっとも、見ていても、何もわかっていない可能性が大だが…。)

 

昨日(7月2日)なぞは、日本時間の朝9時50分から、NHKテレビ(昔で言う、『総合テレビ』)で『アメリカvsボスニア・ヘルツェゴビナ』の試合を中継していたので、『アメリカが負けると面白い』という『不純な動機』で見ていた。

 

それを素直にカミさんに言ったら、『性格が悪い』と言われた。(たしかに、そうかもしれないが…。)

(01)アメリカvsボ・ヘ戦の告知

 

ところが、アメリカチームは、(私にとって)意外と強く、余裕でもって、2対0で勝利した(『快勝』という印象を受けた)。

 

それで面白かったのは、私から見ると、アメリカチームというのは、『雑種集団』と言って悪ければ、『移民出身者の集合体』であったこと。

(おまけに、『会場』がサンタ・クララにある『サンフランシスコ・ベイエリア・スタジアム』だというのも興味深かった。

ここらあたりは、もともと、『トランプ大統領』の獲得票が極めて少なかった、『民主党系の強い』地域だったという気がする。)

 

さらに、アメリカチームの個々の選手を見ていると、『国歌斉唱』(『星条旗』を歌っていた)のときに、どうも、意識的には、『歌おうとしない選手』がいたように感じたこと。

 

その他、『アメリカ国歌』に対して、明らかに『斜めにかまえた』雰囲気で向かい合っている選手の姿を見かけた気がした。

(もしかしたら、彼らは、『アメリカ代表』として自分が試合を戦っていることは事実だが、『アメリカという国家』が今日やっていること=トランプ大統領の言動や政策=に対しては、決して承服できないと思っているのではなかろうか?)

 

これは、仮に、ワールドカップが終了して以降、トランプ大統領が、チームのメンバーを『ホワイトハウス』にでも招待しないと、『本当は、どういう気持ち、あるいは態度なのか』はわからないかもしれない。

 

しかし、何となく、『この選手は、トランプが嫌いなんだろうな』という印象を受けた。

 

そして面白かったのは、この試合でも、『生き生きと活躍』し、『強いアメリカ』を体現していたのは、こうした『移民出身』で(場合によっては)『強制送還の対象にもなりうるのかもしれない』選手たちが多数、出場していたので、アメリカ・チームは、勝ち進んでいるのではなかろうか?

ということである。

 

それに対して、『ボスニア・ヘルツェゴビア』のチームのほうも面白かった。

このチームは、何とかビッチというように、『ビッチ』で終わる名前の選手が結構、多いというのが、特徴だと思う。

(サッカーについて、全くわかっていない私などには、そうしたことが印象に残る。)

 

それで、他のチームの様子も見ていると、たしか、『オーストリア・チーム』(ここも、今日=7月3日の試合で、スペインに粉砕され、『3-0』で敗退したが…)にも、何とかビッチという選手がいたような気がした。

 

そして考えてみると、『オーストリア』と『ボスニア・ヘルツェゴビナ』というのは、直接接してはいないが、『スロベニア』『クロアチア』あるいは『ハンガリー』などと介して、ヨーロッパに位置している。

(何となく、昔の、『ナチス・ドイツ』あるいは、『オーストリア、ハンガリー二重帝国』と呼ばれた地域の『記憶』と微妙に重なりあっている地域のような気がした。

もっとも、ヨーロッパの歴史については、『にわか勉強』しかしていないので、この知識も、相当、怪しいのだけど…。)

 

こんなことをいろいろ考えながら、ワールドカップの試合を見ていると、いろんな連想が起こってきて、面白い気がする。

(しかし、試合の中継では、応援者たちの様子をほとんど写さないし、ましてや、『解説者』が出場国の歴史や特徴などを語ることもほとんどないので、そういう点では、『ワールドカップ』を見ていると、『世界がわかる』ということでは、なさそうな気もしてくるが…。)

 

どちらにしても、『アメリカチーム』の印象にしても、『試合を一度見るかどうか』で随分違ってくるものだなと思っている。

(このほか、日本を破った『ブラジル・チーム』などがどうなるか等も面白そうだ。

ただし、私の年齢の関係で、『徹夜』みたいな状態になってしまう危険性があるような試合は、『リアルタイムでの観戦』はなかなか難しいが…。)

 

 

NHKで放送のドラマ『ムショラン三ツ星』の最終回を、昨夜やっと見た。

 

これは、小池栄子、國村隼、中村蒼、生瀬勝久などが出演の<刑務所のメシ事情>に関する<社会派コメディードラマ>。

<ミシュラン三ツ星を目指していた女性シェフが、ひょんなことから男子刑務所の管理栄養士に転職し、料理初心者の受刑者たちと奮闘する>ドラマだった。

 

全5話と放送回数が、少なかった(おまけに、ワールドカップとか、台風や地震などが影響していたのか、放送回数が当初の構想より、1回分減らされたというような話を、どこかで見た)のが残念だったが、面白く、ないかつ『情報提供』『問題提起』も含むという、あまり例のない、『欲張り企画』である。

 

最後は、『ハッピーエンド?』で終わったのは良かったと思う。なぜなら、この手の『社会派』ドラマといえば、『現実性』にひきずられてか、『暗い終わり方』というのがほとんど

ではないか、という気がする。

 

この番組の良さは、まず『小池栄子』の『明るさ』『必死さ』『コミカルな感じ』が、てんこ盛りになっていること。

(02)

 

それに、『中村蒼』(この人、前から知っていたかどうか、あまり自信がない。

TVの『エール』、『べらぼう』、映画の『空飛ぶタイヤ』などは見ていたと思うのだが…)の『暗さ』というか、『万事に対して、懐疑的、慎重だったのが、小池のやっていることを見ていて、いつの間にか、変わってしまう』、その変化のふり幅が面白かった。

(03)

 

 

それから、『情報提供力』もあった番組である。

『刑務所の食事』が、予算面のみならず、『不公平を避ける』とか、『刑務所内の炊事場で、受刑者自身によって作られることによる制約』など、がんじがらめになっているという話も面白かった。

(変な話だが、私自身、若いころ、いわゆる学生運動などで、『豚箱』に入れられた経験は何度かあって、そのとき、『食べ物』に対する関心がとても強かったのは記憶している。

 

これは、私が、『運動神経』が極端ににぶいために、何度もお世話になっただけで、そうでない奴らは、かなり『暴れまくり』、学生時代は、『万引き』などよくやっていたのに、いつのまにか、『弁護士先生』になってしまったような奴もいた。)

 

 

この番組面白いのは、原作が、黒やなぎ桂子さんの『めざせ!ムショラン三ツ星』という現役管理栄養士の実体験(どこまでが、『実体験』なのか、原作本を読んでみないとわからないが…)に基づいているらしいということ。

(本を読んでみたいという気もするが、最近、自宅は『本だらけ』なので、『図書館』などから入手できるようになるまで、少し時間を置きたいという気がしている。)

(04)原作本

 

 

この番組で言われていた、刑務所サイドの『完全に管理者(支配者)視点』で、『どうせ、受刑者は、更生不可能?』だし、『受刑者を甘やかす』のは『百害あって、一利なし』という視点は、実際には、多くの『視聴者』が既存情報によって、『彼らを甘やかしてはいけない』といった、今日、一般に『植え付けられている?』観点であろう。

 

それに対して、(このドラマでは、『おいしい食事』を提供しようとする、主人公に対して)SNSを通じて、『炎上』『バッシング』が集中するという場面の、ある意味では、『説得力の強さ』『たしかに、今の時代を表している』という私自身が抱いてしまった感想にも、象徴されている。

 

ただし、このドラマでは、それに対して、ある『仕掛け』によって『逆転現象』が起こるということになっているのだが、残念ながら、その説得力は、少し『弱かった』ような気もしている。

 

にもかかわらず、面白かったのは、このドラマで描かれている、『受刑者においしいものをくわせるな』というのは、ある意味では、『学校給食』などで、『しつけ』だから、『うまくないものを食わせろ』『好き嫌いや、食べ残しは許さない』しかも、『短い時間内で、みんなとペースを合わせて、さっさと食え』などといった、『学校給食』の『冷酷さ』『権力性』に通じているとも、感じられる点だ。

(『学校』というのは、『刑務所』みたいな場所である。というのは、昔から言われている視点だと思うが…。)

 

ところが、今や、『学校給食』などでも、『おいしい給食』、『楽しい給食』、『食べる者に合わせた給食』といったことが、多く語られるようになっている。

 

そういう時代に、こういった番組が作られるようになったのは、注目すべきことだろう。

 

SNS等で一部、見られる『受刑者を甘やかすな』とか(これは、『死刑の是非、論争』でもよく見られる傾向)は、『奴隷根性』の表れであり、『今の日本人』に多く見られる、『情けない傾向』であるとは思うが、しかし、そもそも『弱い人、虐げられた人』は、より『弱い』というか、『序列』において、『目下』にある存在に対して、『権力者的にふるまう』というのが、ある種の『人間のサガ』でもあるような気もしている。

 

このドラマ、正直言うと、たった『5回』でテーマを描き切るというのは、『ちょっと重荷だった』ような気がしないでもない。

(最後の2回での『逆転劇』というのは、ちょっと『調子が良すぎた』という気もしてしまう。

しかし、そういった『夢』というか、『前向きな提案?』みたいなものがないと、この世は『哀しすぎて、やってられない』というのも事実である。)

 

ということで、この番組と『企画』には、拍手を送りたい。

(ドラマとしては、受刑者・尾藤護を演じた『関口メンディー』さんの存在感がドラマに重みを与えていたという気がした。

(05)関口メンディーさん

 

また、塚本高史さんの矯正処遇部・処遇部長の斉藤俊一という人物のイメージも、『いかにも、いそう』という印象を受けた。)

 

そして、『いい奴か、悪い奴か』わからないままに、『突然死』してしまい、その『出来事』が、『ドラマの結節点』ともなっていた温水洋一(さん)演じた、受刑者44番『竹田照男』(『詐欺』の常習犯)というのも、『面白い役柄』であった。

(06)温水洋一さん

 

その他、『ひょうろく』さんなど、何とも個性あふれる(頼りない)人々が多数登場しているのも面白かった。

 

 

 


 

『週刊文春』は、創業者の『菊池寛』路線を踏襲していることで、有名らしい。

 

『菊池寛』とは、『芥川龍之介の友人?』で『芥川の早い死(35歳で、1927年に自殺)』とその才能を悼んで、『芥川龍之介賞(通称、芥川賞)』を早くも『文藝春秋』1935年1月号において、『芥川・直木賞宣言』(いわば身内の作家を選考委員に仕立て上げて、とりあえず両賞の受賞者を決定し、公表)が発表されたというのが、そのあわただしい設立の経緯のようだ。

 

当初、菊池は、『世間が、両賞のことを大きく取り上げてくれない』ことに不満を漏らしたらしいが、このような経過での『身内での表彰ごっこ』では、そのような反応だったのも無理はなさそうな気がする。

 

その後、菊池の『しつこい浸透工作?』によって、徐々に世間に知られることになった。

 

こういう経緯から、いまでも、『芥川賞・直木賞』ともに、文藝春秋社内に置かれた、『公益財団法人 日本文学振興会』によって運営がされているが(公益財団法人 日本相撲協会などと、同様に)あまり、『公平・中立・独立』などの基準で運営されていないのでは…?というのが、少なからぬ人々の抱いている『イメージ』『印象』であろう。

(まあ、私自身、そう感じている。)

 

こんなことを書いていると、長くなってしまうので、やめるが、最近、『週刊文春』が連載している『高市首相<中傷動画> 全ての疑問に答える』(副題として、『Zoom会議の音声を声紋鑑定すると…』など付けられている)という記事を掲載した『週刊文春6月25日号』(首都圏では、6月18日発売だった)を発行した。

 

バカみたいな話だが、私も早速、これを昨日(18日)購入した。

 

それでどうだったか?

そもそも、『全ての疑問になど、全く答えていない』。

というより、答える気(能力)などもあまりないようだ。

 

『週刊文春編集部』では、『Zoom会議』の音声(高市首相の公設第一秘書の木下剛志氏、ならびに動画作戦にかかわったとされる松井健氏)を『日本音響研究所』の鈴木創社長のところに持ち込み、『本格的な声紋鑑定』を依頼したのだという。

 

すると、『同一人物の音声と推定してよい』とする鑑定結果が得られたのだという。

 

いやいや、『声紋鑑定』などというのは、さまざまな刑事事件等で、検察(警察)側あるいは、弁護人(被告)側などがそれぞれ持ち込み、いつもいつも、両側から異なった『鑑定結果』が得られている(らしい)といった程度の代物でしかないのでは?

(素人の『印象』での話だが…。)

 

それをこんなところで、出してもらって、『全ての疑問に答える』と言われてみても、???

 

本来、『週刊文春は、この事件?について、その全貌をどの程度、承知しているのか?』『なぜ、それをいつもいつも小出しにしながら、記事のキャンペーンを継続しているのか?』

 

そのことこそ、『週刊文春』の答えるべき疑問であろう。

私の『印象』だと、いつもいつも、最後は、『野党側の誰かの、別のスキャンダル記事をいきなり、出してきて、<帳消し?>をはかる』あるいは、野党の国会議員など、こうした『キャンペーン』に乗っかって、『追及しすぎた、やや軽はずみな議員さん』が、最後は、『自責の念から?』『飛び降り自殺など、不幸な末路』を遂げてしまい、かえって、真相が全く分からなくなり、『嫌な印象、政治不信』だけが残ってしまう…ここらあたりが、『文藝春秋社のキャンペーン』の末路であることが多いような感じがしている。

 

果たして、今回は、もう少しまともな『決着』を見ることが出来るのか、問われているのは、『文藝春秋社』の編集方針、キャンペーン路線そのものであろう。

(下手をすると、『廃刊への道』すらありうる、そして、『芥川賞』『直木賞』などは、文藝春秋社内から分離して、別のところに移す、ということだってあり得ないことではないだろう。)

 

菊池寛自身も、『スキャンダル大好き体質』(はっきり覚えていないが、読者は、『1割くらい本当のことをまぜれば、あとは、適当なことを書きまくれば、喜んで読んでくれる』そんな存在だと、みなしていたらしい。

そして、架空の『文人、性豪番付』などをでっちあげて、発行部数を伸ばしていたのだという。

 

 

 

 

 

国立映画アーカイブで『映画監督 是枝裕和』という特集をやっているので、何本か、是枝監督の作品を見たことは、昨日(6月16日)の記事にも書いた。

 

面白かったのは、以前、見ていたにもかかわらず、すっかり忘れていた作品があったことだ。

しかも、今回、『見直してみて』、前よりずっと『わかった』というか、『作り方』に納得したような気がした。

 

これは、不思議な体験だった。

その作品は、『怪物』(2023年製作)である。

 

国立映画アーカイブ作成の『リーフレット』には、その紹介として、<小学生の息子(黒川)の異変を察知し、担任教師(永山)からのいじめに遭っていると確信した母親(安藤)は学校に訴えたが、校長が当事者たちに事情を聞けば聞くほど、事態は混迷を極めていく…。><第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞、およびクイア・パルム賞を受賞>などと書かれている。

 

 

この映画は、たしか、日本アカデミー賞でも、たくさん賞を獲ったので、私も『面白そう』だと思い、どこかの映画館で見たのだった。

 

ところが、すっかり、(見たことを含めて)忘れていた。

おまけに、ストーリーもほとんど忘れてしまっていたので、結果的に、『二度、楽しめた』。

 

これは、私自身の『老化』と『早期認知症の疑い』も影響しているとは思うが、しかし、それだけではない。

 

<以下、やや『ネタバレ』的なことを書く。>

そういったことを読みたくない人は、ここで、『読むのをやめて、ください』。

 

『すでに見た人』あるいは、『そういうことは、あまり気にならない』という人は、続けてお読みください。

 

すっかり、忘れていたのは、この映画が、かなり『複雑な作り』方が、されていたからだ。

 

『母親』役の『安藤サクラ』は、すっかり、自分の子供がいじめられて、『教師が悪い奴だ』という確信を強めながら、学校に乗り込んでいき、その後、『大暴れ?』するのだが、この映画を見ていくと、『物事』には、『いろんな見方』が出来るのだということが、徐々にわかってくる。

 

『教師』の『永山瑛太』は必ずしも『悪い奴』ではない。むしろ、『生徒思い』であり、彼は彼なりに、いろんなことをしている(『いじめ』以外のことを)。

 

にも、かかわらず、『教員たち』(特に管理職クラス)の『集団無責任』によって、『とりあえず、謝りなさい』という指導が、教師に対してなされる。

 

その結果、むしろ、『教師の永山』は、精神的な孤立で、『ノイローゼ』になり、一時は、『死のうとさえしてしまう』というのが、この映画のなかで、語られる『もう一面』である。

 

そして、そのためには、ちょっと『変わった生徒』、『生徒同士のある種の、同性愛的な感情のやりとり』も関わってくる。

『女子生徒』などのなかに、『いい子』ぶって、『誰かを<悪い子>にして、糾弾する側にたちたい』というような感情も芽生えてくる。

 

そして、興味深いのは、『いじめられた』とされている、『黒川想矢』演じる少年と、もう一人の『冬?木陽太』演じる<屈折した性格の少年>の二人の、絶妙ともいえるような『絡み合い』とがある。

 

なお、この映画を『複雑』にして、『容易に把握しにくい』ようにしているのは、この映画は、必ずしも、『時系列順』に物事が展開していない、ということである。

 

『現在』、『過去』、『大過去』みたいなものが、複雑に交錯し、あるいは行ったり来たりしている。

(しかも、複数の人々の視点で、それは描かれている。)

 

その結果、ある意味では、『非常にわかりにくく』、下手をすると、『眠たくなってしまう』(いわゆる、『寝落ち』というやつ)ような物語られ方がしている。

 

しかし、(私もさすがに、二度見て、気が付いたのだが…)このような『物語り方』をしている映画であることがわかれば、その『虚構の世界』(結局、映画とは、『虚構の世界』である)を楽しめる。

 

むしろ、このような描き方をするからこそ、『今の世の中』の複雑性をとらえることができる。

というような気がしてくる。

 

この映画は、当初、感じた『安藤サクラ』の視点からの、『いじめを糾弾する、正義の母親』というとらえかたが、むしろ、『モンスターの視点』だったかもしれない、という気がしてくる、不思議な映画、『見直すことで、より楽しめる映画』である。

 

そして、是枝監督というのは、これより、もっと『複雑な実験映画』みたいなものを、次々と、『平気で作り出してしまう』ような映画監督なのである。

(もちろん、それらすべてが『成功』しているわけではない。しかし、その『試み』そのものが楽しそうだ。)

 

こうした『映画の構造』を感じ取ることができたのが、この映画を、(前に見ていたことを、すっかり忘れて)『二度見』したことによる、『楽しさ』だった。