今日(5月14日)は、北京でトランプと習近平の会談があるということなので、一体、どうなることかと注目した。

 

ところが、朝のテレビ番組表を見ても、NHKなど全くといっていいほど、この関係のニュースのための報道枠が設定されていない。

 

それで、前日は、(例の)『川崎市民アカデミー』で大江健三郎関係のWS(ワークショップ、参加者の発表、発言が重視される『演習』みたいなもの)があって、それに向けて(例によって)直前になって、『課題の大江の小説やエッセーみたいなもの』を詰め込みで読み込みをして、その結果、『極度の寝不足』になっていたため、本当は、ずっと寝ていたかった。

 

しかし、『トランプと習近平の動向』(ならびに、NHKあたりがそれをどう報道するかも)が気になっていて、今日は、『寝たり起きたり』を繰り返していた。

 

 

(02)歓迎シーン

 

私は、(前から書いているように)北京や上海近郊に住んでいたこともあるし、台湾にも、『新型コロナ』が蔓延して、『日本に帰国したほうが良い』と言われる直前まで、カミさんと一緒に、アパートというかマンションというか、そういったものを借りて、(間に、しょっちゅう、『一時帰国』をはさみながらであったが)住んでいたこともある。

 

だから、中国についても、台湾についても、何となく知っているつもりになっていたが、しかし、それから(中国を去ってからは)はや、13年、あるいは(台湾を去ってからでも)はや、6年?という月日がたってしまった。

 

そのため、もはや、『中国や台湾の状況について知っている』といえるような状態ではない。

 

しかし、昨日や今日になって、『北京と日本との時差はどうだったかな』とか、『北京と台北との時差は?(実は、存在しない、どちらも、日本時間マイナス1時間である)』などと考えていると、改めて、『いろんなことを忘れてしまっている』ことに改めて気が付いた。

 

(03)台湾の様子

テレビでは、特に台湾の人々の様子などを中継したり、『どのような見解を持っているのか』などとレポートしていたが、これは、台湾にはすでに、『中国側の工作』もあって、『政治的分断が拡大』しているから、当然、『人によってバラバラである』はずだと思う。

(特に、どの国でもそうかもしれないが、『一番、貧しい人たち』こそ、『台湾』から脱出する手段をもたず、万一、『戦乱』に近いような状態になったとしたら、その『犠牲』となる可能性が大であろう。

 

(04)頼清徳・民進党政権

いや、もしかしたら、『生活の苦しい層』に対してこそ、『中国共産党』による『甘い工作』が作用し、浸透している可能性もあるから、『台湾独立分子を許すことはできず、愛国的な行動の対象として、頼清徳・民進党政権に対して蹶起することこそ、私の民族的使命であるはず』などと思い詰めている若者(老人も?)それなりにいるはずだ。

 

それに現実としては、『金持ちであるほど』、資産とか人脈とかなどを、台湾以外の各地にも持っていて、『アメリカ』『日本』『カナダ』などに『逃げ出す準備を怠っていない』ことも考えられる。

 

こんなことを考えると、『米中会談』のニュースを見ても、おだやかな気持ちには、なれないが、今日思ったのは、相変わらず、習近平は『したたか』であるが、しかし、今日の読頃は、『習近平もトランプもどちらも』イライラして、すんなり、『二つの超大国』が世界を分割して統治するという話にならないことに、『不満をつのらせている』ように見えたことだ。

 

明らかに、(台湾はさておいても)中国自身、そしてUSA自体に『不満や矛盾』が蓄積していて、それぞれ『人々の不満の爆発』をおさえるためにも、『トップ同士の取引』で『誇ることの出来るような成果』をあげたいと思っているのだろう。

 

しかし、そうした『目に見える成果』をなかなか、あげられそうにないし、トランプも習近平もどちらも、『いらいらしている』『ビッグ・ディールのぎごちない演技』をしているのは、明らかなように思える。

 

はたして、最終的にどのような結果になったと彼らが『発表』し、そして、日本政府(高市政権)やNHKなどが、どのような報道の仕方をするのか、『興味』と『心配』は尽きない。

(とはいえ、私は、日本で、『ニュース』を見ているだけに過ぎないので、いわば、『高みの見物』みたいな状態に過ぎないのだけど…。)

米原万里(よねはら・まり)という人が、昔いた。

父親は、日本共産党の元幹部。

米原昶(いたる)という。

(01)米原昶の選挙

 

衆議院議員として、当選活躍したのは、大きく分けて3回ということで、選挙制度とか日本共産党の党勢が大きく変わってしまった現在では、信じられない思いもするが、1969年には、東京2区で当選(第32回衆議院選挙)7万1357票を獲得している。

 

また、次の1972年の第33回衆議院選挙でも8万5667票で当選と(ネットの記事には)ある。

 

何となく、昔、米原昶の選挙ポスターなど見た記憶などあるような気もする。

 

それで調べてみると、当時は(当然ながら)中選挙区制で石原慎太郎とか、宇都宮徳馬などと争っていたようだ。

 

品川区と大田区を地盤とする選挙区ということで、私も、この両区に住んでいた時の記憶はある。

(特に、72年は、私がカミさんと結婚した年にあたる。そのころは、横浜、川崎を転々として=というのは、娘が生まれそうになったので、結局、次第に義理の母親、カミさんの母親であるが、の住んでいた品川区に徐々に近い場所に住むようになっていった。)

 

このころ、私は、必ずしも『左翼』ではなかったが(その後、一時的に『左翼』にいつのまにか、なってしまったが…)、どちらにしても、『日本共産党』に投票するような気分ではなかった。

 

そのため、米原昶氏に投票することもなかったし、(どうせ、立候補した場合は、ひらがなでも書けるような選挙用の登記をしていたと思うが)、米原昶を漢字で書くとすれば、どういう字なのか、それに迷うこともなかった。

(それに昶などという、不思議な字は、今回、ほとんど初めて『認識』したのに近い。

昔、米原万理さんの文章を読んでいた時は、ポスターなどを見かけていた地だっただろうとは思うが…。)

 

この米原万里さんが、出演というか登場した、テレビ番組を先日、NHKでやっていた。

(これは、米原万里没後20年を記念した出版社のサイトから。いろんな情報を提供している。

彼女の若い時の写真だ。)

 

 

米原さんの没後20年を記念して、また、彼女がNHKの『ロシア語講座』の講師をやったこともあって、『時をかけるテレビ ~今こそ見たい!この一本~』という企画のなかで、昔のNHKの『ドキュメンタリー番組』を再放送していたのである。

 

何だか、今、NHKが語学番組とか、ドキュメンタリー番組の放送枠をどんどん減らしていっているときに、こんなのをやっているのも、腐肉な気もする。

(最近では、NHK特集とか銘打っていても、割合、お手軽に作れる内容であったり、政権などの意向に忖度した放送内容であったりすることが多い気がしている。

さすがは、『高市政権』という気がしてしまうところがある。)

 

ともかく、この番組は、1997年に放送されたものの再放送(それを彼女の妹である井上ゆりさん=故・井上ひさし夫人=が、司会の池上彰氏と一緒に見ていく形式で放送された)

であった。

 

米原万里さんは、少女期(1960年~1964年の時期、彼女は、当時、10歳~14歳前後だったはず)に、父親の赴任先であったプラハのソビエト学校(ソ連共産党版のインターナショナルスクール)で、主に東欧諸国から集まった多くの友人たちとともに、ロシア語とロシア文化の知識を叩きこまれたという。

(音楽を学んだ者たちは、その方面でもエリート教育を注入されたのであろう。)

 

ただし、みんながみんな(ソ連共産党流の)エリートというわけでもなく、いろいろな事情があったようだ。

 

この番組では、『31年の時が流れ、消息が絶えていた3人の同級生を探し、米原さんがヨーロッパ各地をめぐる』という構成になっていた。

 

このとき、米原さんは、45歳くらい(亡くなる10年ちょっと前)。

肩パッドが目立つ服を着るなど、当時のファッションがしのばれる服装をしていた。

 

このとき、彼女は、旧友たちを訪ねて、逆に、彼女らがそれぞれさまざまな事情を抱えていたことを、初めて知る。

(ユダヤ系であることとか、ムスリムの家系であることなど、在学当時、彼女らが隠さざるを得なかった事情も、ある程度、わかってくる。)

 

『消息が途絶えていた3人』はそれぞれ、大変な状況をかかえていて、なかには、到底、『テレビの前』でなど話せないようなことばかりのようだった。

 

逆に、いうと、この時点では、米原万里さん自身が、通訳としても、作家としても売り出していて、いわば『羽振り』のいい時期だったということになってしまう。

 

何しろ、当時、橋本龍太郎などが首相をやっていて、まだ、『北方領土』について、ロシアとの交渉の余地があると見ていた。

社会全体でも、ロシア文学とか、ロシア文化に対して、好意的な時代だったような気がする。

 

ところが、彼女が追跡した友人たちは、ユーゴスラビア崩壊とか、その他の事情で、『命からがら、逃げ回った』とか、『自分の過去をどのようにして消すか』『家族を守るためにどうするか』あるいは、『祖国を捨ててでも生き延びなければならない』と必死だった人々がいたようだ。

 

そういう意味では、『米原万里』は、このころは、『平和な日本』『平和憲法で守られる日本』というイメージの最後のところにいた気がする。

 

父親の米原昶氏について。

 

彼自身は、本当は、当時の日本共産党の路線(外交や安全保障等)に対しても、いろいろな意見を持っていた人のようだが、『温厚な性格』と、『党の内部対立を外に出したくない気持ち』などもあったのか、幸い、除名などにもならず、無事、党の幹部としての生活を全うした。

 

皮肉ではなく、これは、あの党の幹部としては、稀なことのような気がする。

 

米原万里さんが、『父親の失脚』とか、『共産党内部の対立』などを見ることなく、2006年に56歳で亡くなったのは、まだしも、『幸運』だったような気さえする。

 

ソ連がゴルバチョフも、エリツィンも失敗して、ついにエリツィンが後継者にプーチンを指名して、その後、さらにおかしくなっていることを、ある意味では、知らずに済んだ。

 

しかし、彼女の書いた『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』という本は、彼女が、今回、探し続けた友人たちについての、詳しい事情等を書いたもののようだ。

(たしか、以前にも読んだような気がするのだが、そのときは、この『テレビ番組』を見ていなかったし、そうした複雑な事情も知らなかったので、もう一度、『読んでみたい』という気がしている。)

 

また、米原昶についても、彼の詳しい人生について書かれた著作があるようなので、それを読んでみたいという気もして

いる。

少し前の話になるが…。

4月18日、『神奈川近代文学館』(荻野アンナ館長兼神奈川文学振興会理事長)に出掛けた。

 

ここで、4月4日~5月31日の会期で開催されているこの展示

にちなんだ、講演会が開かれていたからだ。

(01)神奈川近代文学館の写真

 

(02)『吉屋信子』シスターフッドの源流(生誕130年)

展のポスターの画像

 

 

特に、この講演会の講師が、前々から『どういう人なのだろうか?』と気になっていた。

 

本来、展示を多少なりとも(講演前に)見てから、講演を聞くというのが、『正しい手順?』であろう。

(何しろ、講演の2週間前から、既に展示のほうは開催されていたのだから…。)

 

ところが、私のほうは、(歳のせいか…)ますますやることが、『衝動的』『無計画』『目先を追うばかり』になってきている。

そのため、展示のほうは、あまり見ないままに講演を聞くことになってしまった。

 

 

今回の講演会で面白かったのは、『講師』のイメージが、『講演を聞く前とあと』とで、がらっと変わってしまったことである。

 

 

 

 

 

というのは、講師(斎藤美奈子さん)は、以前(紙の新聞を自宅でとっていた)『東京新聞』の名物コーナー『こちら特報部』に、『安倍晋三嫌い』『高市早苗大っ嫌い』?の『本音のコラム』というのを、定期的に書いているライターさん(『文藝評論家』)で『フェミニスト』らしい。ただし、私は『フェミニストとは何か』について、必ずしも『わかっている』わけではない)として印象に残っていた。

 

(03)コラムの前の画像

(04)斎藤さんの載せていた写真

 

それで、どういうわけか、彼女はこんな感じの『写真』をいつも紙面に掲載していた。

 

私は、この手の写真というのは、『最も映りのいいもの』(何らかの修正を施したものであることも多い)をしかも、それ以後、何年たってからでも使い続けるものだというイメージを持っていた。

 

その観点からすると、『この程度の写真』しか載せられない人というのは、『実物はさらに、劣化?していて、ヨボヨボの人なのだろう』と私自身も後期高齢者になっておりながら、勝手に想像していた。

 

ところが、びっくり仰天。

斎藤美奈子という人は、ちょっと『天邪鬼』的な、『人をからかったり、びっくりさせること』が大好きな人のようだった。

 

この講演会に登場した斎藤さんは、『若々しく、表情も豊かで、ずけずけと本音トークを展開する人』だった。

 

 

どうやら、彼女は、『見かけ』とか『常識』で判断する『世の人々』を『錯覚のわな』に陥れよう?として、わざと、『映りの悪い』写真を使用しているようだった。

 

それで、彼女は、『吉屋信子』という人(『少女小説』という分野で、『大ヒット』した『一大流行作家』で、同時に、『シスターフッド』を提唱し、自ら実践したひとでもあった)について、大いに語ったのである。

 

彼女は、『東京新聞のコラム』では、いつも『怒っているような人』、『安倍晋三や高市早苗らと、その追随者たち』に対して『マイナスメッセージ』ばかり発している人というイメージを醸し出している。

 

ところが、実物を見ると、実に『ポジティブ』で『前向きな、陽気な人』という印象を受けた(もっとも、もしかしたら、日によって、『プラス、マイナスの変動が激しい』『躁鬱病気質の人』という可能性もないではないが…)。

 

それに彼女のやっていることは、わざと、『ブスっぽい写真』を掲載し、『老けた感じ』に自分を見せかけている==というのは、『ルッキズムの裏返し』のような気がしなくもない。

 

『ルッキズム(Lookism)』というのは、『外見至上主義』と翻訳されているようだが、『その裏返し』というものだと、仮にすると==それも、『外見』に心が縛られていることを示すものであり、あまり『自由な発想』とは言い難いようにも思う。

 

これは、(私が、最近では『嫌い』になっている)いわゆる『リベラルな人たち』『人間の進歩や進化を妄信する人たち』に彼女が『ファン』になってもらうための『一つのテクニック』なのかもしれないが…。

 

(それに、男女を問わず、最近では、『生まれた年』とか、『満年齢』などを表記しないことがなぜか流行っている。

それは、もしかしたら、ネット上で『セキュリティ』を確保するためには、必要な部分もあるのかもしれない=なぜなら、本人の『生年月日』が、『本人確認』の手段の一つになっているケースも、かなりありそうだ==が、

しかし、実際は、『世代によって、常識とか、共通の了解事項』などはかなりあるものだし、『この歳でこんなことを言っているのは、相当、おかしいというか認識眼が歪んでいる』などと、判断することもできるゆえに、『判断や分析のために、必要な情報の一つ』であろう。

 

そういうものを『認めない』というのは、『やはり、おかしい』という気がする。

 

『話が長くなってしまいそう』なので、この辺で、一区切りつけることにしたいが、やはり、『講演会』などの『生の情報』というのは、面白いものだなと感じた次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

4月27日~28日にかけて、(横浜市営地下鉄・ブルーラインの)伊勢佐木長者町駅が最寄り駅である、映画館『横浜シネマリン』で、映画『人間の條件』の第一部~第六部まで、上映合計時間9時間30分の『超大作』を見てきた。

 

ただし、この映画、(この映画館は普段は、女性の観客がかなり多いのだが、いつもと違って)女性が少なかった。

 

そして、明らかに遠方から来たらしい(初めて、この映画館に来た人も多そうな感じの)男性・シニア層が、大半であった。

 

なぜそうなったのだろうか?

 

 

なお、私は、カミさんと一緒に見に行ったのだが、(この映画の内容は、結構、エログロ的なところがあるので、果たしてどこまで持つのかと思ったら、)カミさんは割合、食いついてきて、27日の『第一部、第二部上映』とその後の『第三部、第四部上映』で脱落することなく、結局、翌日の28日に改めて、16時55分から、20時05分まで『第五部、第六部上映』を見ることとなった。

 

『結末が、どうなるか気になった』『この映画は最後まで見たほうが良いと思った』というのである。

 

 

この映画、普段の(この映画館の)常連客があまり来なかったというのは、私の予想では、恐らく、原作の小説(五味川純平執筆の当時のベストセラー)に目を通した人が結構いて、その文章の粗っぽさ(流行小説というか、ベストセラーというものは、だいたいそんなものだろうけど…)に辟易(へきえき)した人が、多かったのではなかろうということである。

 

私の読んだ感じでは、この小説の文章というか、内容は、昔、流行った西村寿行(あたりの)エログロ、バイオレンス小説によく似たところがある。

 

西村寿行という人は、『君よ憤怒の河を渉れ(わたれ)』というような映画化されて、それなりに名作とされたものもあるが、基本はというか、『日刊ゲンダイ』などの夕刊紙、スポーツ紙などに書きまくっていたものは、『バイオレンス小説』の形を借りて、『エログロの大安売り』をするような雑文というか、売文小説であった。

 

そして、五味川純平の原作もまた、それに似た調子があって、主人公の梶という男は、最初は、頭でっかちで要領よく立ち回ろうとするところがあるが、次第に、彼を取り巻く『悪?』と渡り合ううちに、それらを自身のうちに取り込んでしまい、さらに(スーパーマン的に)暴力的に打ちのめし、(必要の限界を超えて)『死』や『殺戮』『破滅』へと追い込む、『死をもたらす装置』と化してしまうところがある。

 

そのため、最初は、日本軍が行う『暴行』や『強姦・殺戮』を描いているのだが、そうした流れの中で、この小説自体に、『エログロ』が蔓延していく。

 

ある意味では、『小説の展開上の必要悪』ともいえるのだが、どちらにしても、(流行作家のファンサービスなのか)そのような目を覆いたくなるような描写が、ますます比率が高くなる傾向がある。

 

こうした原作小説の、『粗野な表現』はおそらく、今の『文学好きの女性』には、耐えがたいような文章であろう。

 

そして、『文学好きの女性』であれば、『原作の小説の文章』に触れたくなるのが、ほとんどのケースであろう。

(その結果、『人間の条件』って、こんな小説なのか!?

五味川純平というのは、こんな文章を書く人なのか!?ということで、たいていの『文学好きの女性』というのは、引いてしまうというのが、考えられるケースである。

もちろん、逆に、フェミニストなどで、かえって『暴力的表現は恐れるに足りず』ととらえる向きもあるかもしれないが…。)

 

まあ、こんな調子で、この『横浜シネマリン』の常連客である女性は、この映画を敬遠したのではなかろうか?

 

逆に、この映画館をあまり知らなかった男性たちで、『人間の条件』をもう一度、見られることに関心を抱いたシルバー男性たちが、この映画の主力の客層として、今回、入ったのではなかろうかという気がした。

(もちろん、シルバー男性だけでなく、やや若手の男女で見に来ている人も、それなりにいたが…。)

 

もちろん、この時代であれば、まだ戦争の記憶が生々しく、日本人が強姦、殺戮などを(非人間的な環境のなかで)やりつくしたことは、ある意味で、『誰でも知っていること』であったから、映画の描写としても、『肯定的にとらえられるべき側面』もあったかもしれない。

 

しかし、もう一歩、引いてみると、五味川純平が、このような感情なサービス(?)を小説の中でするのは、一体、どういうことなのだろうかという気もしてくる。

 

しかも、私は、その後、『戦争と人間』という五味川純平のその後書いた小説(こちらも、山本薩男監督によって映画化された)も、少し読んでみたが、こちらのほうが、さらに、『バイオレンス度』と『エログロ描写の度合い』がエスカレートしているのである。

(なんだか、『筆がますます荒れている』という印象を受けてしまった。)

 

『昭和の流行作家』というものは、結局、『時代が通り過ぎてしまえば』、こんな風にしか見えないものなのだろうか?

 

しかも、『人間の条件』の場合は、梶が置かれた非人間的な状況を描くには、この程度の『エログロ、バイオレンス』もやむを得ないという気もしたが、よくよく考えると、最後に、(この映画で、『悪の象徴的存在?』とされた、金子信雄の演じる)桐原伍長が、最後に、『やくざ映画』のなかの悪役の最後のように、『ボロボロに痛めつけられて、単なる肉の塊』のように『復讐』を受けながら、『どぶに沈められていくさま』など、まるで『やくざ映画そのもの』という感じで、見る人のストレスは解消されるだろうけど、『こんな終わり方で良いのだろうか』という気がしてしまう。

 

そして、それは、一番最後の、『梶の死に方』に関しても言えることである。

『戦争世代』の『小林正樹監督』や『五味川純平』にとっては、こんな終わり方しかないという思いなのだろうが、今考えると、『やくざ映画の流行っていた時代』の『昭和の時代』の結末の付け方という気がしてすっきりしない思いがする。

 

今や、ただ昔の映画を、そのまま上映するだけでは『すまない時代』なのかもしれない。

だから、人の入りが、『イマイチの状況なのでは』という気もしてしまう。

(何が、『正解』なのかはわからないが…。)

 

 

 

 

どうやら、映画には、事前に期待した映画よりも、何も期待しないで見にいった映画のほうが『面白かった』という法則(?)があるようだ。

 

4月16日に、東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で見た二作品についても、それが当てはまった。

 

 

『国立映画アーカイブ』でシニア料金が、一挙に310円から1100円へと大幅値上げしたことについて、いろいろ文句を書いているが、1100円になっても、それなりに面白い作品をやっているので、結構、見に行っている(ただし、ここの運営方針については、今でも疑問があるし、『日本人観客』が消費者?としても、『何でも受け入れる』という根性の人が大多数らしきことには、少々、あきれてもいる(台風などの災害に慣れ切った国民だから、『自然現象でない物事』に対しても、同様に反応する癖があるみたいだ)。

 

 

4月16日に見たのは、15時から上映の『アサンテサーナ』と19時から上映の『戦争の犬たち』だった。

 

『アサンテサーナ』副題はわが愛しのタンザニアという。

日本青年海外協力隊が、全面協力というか最大限の支援をして作られた映画のようである。

 

(01)チラシの画像

これが、チラシに掲載されていた紹介文だが、文字起こしもしておこう。

 

『タンザニアで働く青年海外協力隊の坂田(達)は、首都ダレスサラームの港に着いた先進国からの援助物資をトラックで広大な砂漠を往来しながら各地の集落に届け、時には労働をサポートしていた。地元の農業指導者ジュマ(ムズレイ)と二人三脚の仕事ぶりは住民たちの厚い信頼を得ていたが、ある日、ジュマとの間に決定的な対立が生じる…。

 

プライベートの旅先で、協力隊の青年たちと交流を重ねた谷口千吉がその活動を美化せずに伝えようと、映画会社の力を借りず、当時、ほとんど映画を製作していなかったタンザニアでの撮影させた入魂の作品。

1975(日本青年海外協力隊)監督・脚本・製作谷口千吉

脚本井手雅人、撮影倉持友一、音・渡辺貞夫、出演・達純一、フランク・ムズレイ、大口広司、大林丈史、八千草薫

(原版寄贈:株式会社八千草薫事務所)

 

 

ここに書かれたことだけでは、この映画の魅力はなかなかつかみきれない。

 

この映画の面白さは、日本人の青年海外協力隊の男・坂田というのが、極めて真面目ではあるが、日本人の目線のまんまで怒りっぽく、『自分が正しい』と思い込み、現地の住民との間に、不必要な摩擦を生じさせていることである。

 

通常であれば、このまま、『プロジェクト失敗』で終わりそうな話だが、この映画では、現地の青年とつかみ合いの喧嘩(死闘に近い場面もあった)を繰り広げる。

 

他方、日本人の風来坊で舞い込んできたヒッピー風の青年(大口広司という人、今まで知らなかった俳優だ)がいつの間にか『いい味』を出して、彼らの和解のために、密かに尽力する。

 

それで最後は、『誤解が解消』して、プロジェクトも成功する(まるで、台湾映画の『KANO1931 海の向こうの甲子園』で高校野球の話と同時に、アジア最大の水利事業を成功させた・日本人技術者・八田與一の話が描かれているように、これまで水を引くことができなかった大地に、『用水路』が完成し、水があふれるように流れてきて、人々がそのなかで、水をかけあってはしゃぎ、喜ぶ様子が、出てくる)。

 

この映画の最大の特徴は、主人公の日本人の欠点がリアルに描かれ、彼の『まじめさ』『日本人らしさ』『自分の考えを疑わず、同様の考え方と行動様式を現地の人々に対して求める、愚かさ』を遠慮会釈もなく描き続けているということだろう。

 

 

これはおそらく、当時の『青年海外協力隊』の現地の人々が感じていたさまざまな事象を、ていねいに掬い上げたことで、実現しえたのだと思う。

(ある種の『奇跡』のような映画だ。)

 

 

そして面白いのは、この映画は、谷口千吉監督の恋女房となった(といっても、谷口監督は、いわば、『不倫で強奪した』ような関係だったらしく、八千草薫という人の『激しさ』を表してもいる)八千草薫が、この映画では、歌も踊ったり、(たしか)ダンスも踊ったりと、120%のサービスをして、谷口監督のこの作品が成功するように、張り切っている点だ。

 

彼女の『熱量』は、谷口監督の死(2007年、95歳で死去。なお、谷口監督は八千草薫より、19歳近く年上であった)後も衰えなかったようで、八千草薫自身は、2019年に88歳で亡くなったが、晩年まで、この映画を含め、谷口監督の作品の宣伝に一役買っていたようである。

 

おそらく、仮に現在、八千草薫が『健在』であったとしたら、この映画上映の『トークショー』などにも登場したであろうと思われる。

 

他方、同じ日に上映された『戦争の犬たち』という映画については、『海外で活躍する外国人傭兵ビジネス』を予告し、描いた、画期的な作品?

 

というのが『評判倒れ』というか、私が少し、期待し過ぎていたのかもしれないが、見ていてシラケてしまった。

 

(映画関係者が多数来ていて、皆さん、非常に『感激した面持ち』であったが…。なお、『戦争の犬たち』のほうが、観客は多く、ほとんど満員に近い状態だった。ただし、関係者の声かけによるものも、相当あったように見受けられたが…。)

 

こちらの映画の感想については、別の記事に書くことにしたい。

 

ともかく、『アサンテサーナ』(これは、現地のスワヒリ語で、『どうもありがとう』『本当にありがとう』という意味の丁寧な感謝の表現だそうだ。単に『有難う』だけなら、『アサンテ』で足りるらしい)は、『期待を超えて、見てトクをした』と思わせる映画だった。

 

こういう作品に(ときどき)遭遇できるのが、『映画を見るだいご味』と言えるのかもしれない。

 

なお、この記事に映画『宝島』の画像をつけたが、それは、『期待したが、やや空振り』の映画の例として(つまり、今回の『アサンテサーナ』の逆の例として)の意味である。

かなり、わかりにくいと思うけど。

(本当は、八千草薫さんの画像を、過去の私の記事のなかから探したが、みつからなかったため。)

 

『人間の條件』という映画がある。

(『人間の条件』と書くほうが、一般的かもしれないが、ここは、五味川純平氏の原作に合わせて、『條』という字を用いることにしたい。)

 

原作は、1956年以降、1958年1月にかけて『三一書房』から出版されている。当時、一大ベストセラーになったというが、現在では、『岩波現代文庫』に収録されたもの(全3冊)を読むことが出来る。

 

私は、図書館から借りて読んでいる。

(01)本の画像

 

 

今、これを借りているのは、実は、『横浜シネマリン』という映画館(100席程度のスクリーン一つしかない、『小さな映画館』であるが、意欲的な『番組編成』を行い、しかも、『映画の配給網』みたいなものを独自で、作り上げて、いろいろ仕掛けているので、ファンは多いようだ)で、『仲代達矢と小林正樹』という特集を組んでいて(4月25日~5月8日という期間)、そのメインとして、映画『人間の條件』の第一部~第六部の一挙上映が企画されているが、それをカミさんと一緒に見ようと、誘いをかけているからである。

 

 

カミさんは、『何でそんなに長い映画を見なければならないのか』(全部で、合計9時間30分にも及ぶという)『そもそも、どんな映画、小説なのか、アタシは知らない』などと言うもので、自分でストーリーだけでももう一度、確認しておこうというのが、主旨である。

(02)『特集のチラシ』

 

しかし、やはり『一種のベストセラー』であり、『流行小説』でもあったせいか、五味川純平(1916年~1995年、78歳で脳梗塞のため逝去)の筆は結構、粗っぽい。

 

ストーリーも、満州での中国人に対する強制労働、拷問、殺戮、慰安婦の登場、あるいは、軍隊における新兵いじめ、ついには、ソ連軍の捕虜となっての強制労働、荒野のさまよいなど、波乱万丈のストーリーでどんな残酷なシーン、無茶苦茶な殺戮があってもおかしくないような展開である。

 

 

ウチのカミさんは、『残酷なシーン』等、大嫌いなので、果たして、最後まで見てくれるかどうか、こころもとない。

 

 

それに、この映画、主人公=梶は極めて頑固で独善的な人物として描かれている(少なくとも小説を読みつつある限りでは)し、その妻である三千子(新珠三千代演じる)は、『夫を信じて、終始、そのそばにいようとして、追いかけ続ける』ある種動物的な女性として描かれている。

(おまけに、肉感的なボディをしているので、『兵隊や憲兵』などの『ギラギラした関心の対象』になり続けるという、ストーリーである。)

 

原作だけ読んでいると、どんな『目をおおわんばかりのシーン』が出てくるのか、予想がつかないところがある。

 

 

あと、もう一つ心配な点がある。

この映画、特別のチラシ(ミニリーフみたいなもの)まで印刷して、派手に宣伝しているけど、上映3日前から、劇場とネットで販売開始するので、(ひょっとすると)『チケットがあっという間に売り切れてしまうのではないか』という心配まで(多少)ある。

 

 

それでも、『人間の條件 第一部・第二部』の一挙上映(208分)についていうと、(期間内で)5回の上映回数があるので、何とかなりそうな気もする。

(こういう映画の主要な観客である、シニア層は、『トイレ休憩なしの長時間上映』を苦行とするであろうし、『関心がありそうな人』は、これまでの人生で、加藤剛が主人公を演じた、テレビドラマ版を含めて、何らかの形でこのドラマに接してきた人が、多そうな気もする。だから、さほど食いついてこないのでは…という気もする)

 

 

しかし、私自身が、この映画をあらためて見たいと思ったのは、『主人公』を英雄として描いているようでもないし、また、『八路軍』や『ソ連軍』を『理想的な姿』に美化しているわけでもなさそうな、この映画を通して、『先の戦争』=『旧・大東亜戦争』とでもいったほうがより正確なのかもしれないが=というものが、今日的な視点で、より『全体的にとらえうるのではないか』という気がしたからである。

(そういう意味では、もともと、原作者である五味川純平の視点のたしかさによるものかもしれないが、書かれてから70年たっても、『その評価』が、『失墜』することのない作品というものは、『ある種の奇跡』のような気すらする。)

 

 

また、私自身、この50年間近くの間(1948年生まれなので、その期間は、短くなってしまうが)に、いろんな体験をしてきた(そのなかに、『カミさん』との交流や結婚、その後に、『それぞれ勝手に生きてきた日々』も含まれる)が、そうしたものを、『梶と三千子というスーパーカップル?』と比較してみるのも、『一興ではないか』という思いもあったからだ。

 

 

さてさて、どうなるか(そもそも、カミさんが途中で、『アタシは、もう離脱します』と言い出す可能性も相当あるのだけど…)、それにこの映画にどれくらいの人が押し掛ける(それとも、大して人は入らないのかもしれない)のか、なかなか興味深い。

 

それに、この映画を、『今、上映しよう』という企画がたてられたきっかけともなったのだと思うが、『今日のような国際情勢、そして、高市政権という無思想で、危うい政権が、国会の議席上は、<無敵>状態にあるいま』、映画館のスクリーンのなかが、果たして『どういう雰囲気で覆われることになるのか』、それ自体、興味深いという気もする。

(意外と、若い人たちが、この作品を見にやってくるということも、考えられなくもない。まあ、それは願望に過ぎないのかもしれないが…。)

 

 

 

 

 

4月9日に、このブログに、<トランプは、『死ななきゃ、なおらない』(そういうレベルの人)>と題する記事を書いたが、最近のイランとの交渉の失敗を見ると、どうやら、それでも言い足りなかったようである。

 

今では、<トランプは、『死んでもなおらない(そういうレベルの人)』>と記事を書き直さなければならないようである。

 

 

彼のことを、『ビジネスマンだから…』とか、『天才的』とか、『ディールの人』などといって、ほめそやす人がいるが、そのようにいうと、『何か得する』のか、あるいはそういう『時代の流れ』に乗っているだけ(トランプを褒めても、特に『いいこと』は何もない)のことなのだろう。

 

(01)米イラン交渉合意至らず

 

今回の仲介国パキスタンで行われた『米イラン協議』では、結局、『入口』の段階で、合意を形成することができず、バンス副大統領などは、さっさとアメリカに帰ってしまったようである。

 

この経過を見ていると、バンス副大統領自身が、自分に割り当てられた『役目』に対して大いに不満足であり、それを示す(トランプ大統領と、『完全に同意』しているあけではない?)ために、わざと、さっさと『役目を放棄してしまった』ようにすら見える。

 

 

あいかわらず、日本のメディアには、『トランプを褒めておけば間違いがない』というような『人生の対処法?』を身に着けた『有識者と称する人種』が多いようで、いまでも、『トランプは、次に何をやってくれるか』と期待をもって見守るような雰囲気の『ニュース、報道番組』がやたらに放送されている。

 

しかし、私は、この『トランプ万能論』『トランプ救世主論』を大いに疑問に思っている。

 

むしろ、トランプは大いに『困っている』のではなかろうか?

 

 

彼は、『関税がすべてを解決する』という『タックスマン思想』と、『兵器万能』で『イランの政治のトップメンバーを皆殺し』にしてしまうという、恐るべき、『唯武器主義』『映画ゴッドファーザーのような、皆殺し作戦』でもって、『敵を見境なく、殺してしまった』。

 

しかし、その裏には、『誰と交渉してよいのかわからない』、『イランの権力構造を把握できないままに、殺し過ぎてしまった』という『お粗末さ』が見え隠れしているようである。

 

 

トランプの発信している内容を見ていると、容易に、『想像がつく』ように彼には、『異文化』に対する敬意も何も、全くないようだ。

 

彼ほど、『頭が空っぽ』な人物も珍しいだろう。

『中身が空虚』な人間が、『はったり』と『私を尊敬して』という『自己承認欲求』の『まずます膨れ上がっていく絶望的状況』のなかで、『発信』しているのが、『恐ろしいほど、無内容なネット発信』である。

 

そもそも、以前は、『内容とか語り口が面白い』と評判で、ご本人もノリノリだった『あの独特の演説』ですら、最近は、言葉に力がなく、言っていることも『かすれ声』でしかない。

 

とっくに、『賞味期限切れ』になってしまった、『お前はクビだ』『さっさと出ていけ』という、『ショーのセリフ』にしがみついて、『人気がどんどん下がってしまった、老いた芸人』が昔の『キャラクター』にしがみついて、いつまでも続けているのが、『トランプ老人の認知症じゃないかを疑われる、お寒い三文芝居』なのである。

 

 

こういう芝居が人気があったのは、一方に、『オバマ』とか、『クリントン夫婦』『ジョーバイデン夫婦』など口先だけ、立派なことをいうが、実際には、『失敗ばかり』で、そのくせ、『責任をとろうとしない』アメリカのエリート階層、『大金持ち』たちの『矛盾だらけの言動』が、アメリカの庶民たち?に見透かされてしまったからなのだろう。

 

しかし、今や、トランプ自身が、『新たな権力と利権の城』を築いてしまい、そのなかに立てこもって、『おれが、アメリカで歴代で最高の大統領なのだ』と『幼児じみた』バカ騒ぎを演じ続けてしまっている有様である。

 

これでは、一部の『狂信的な人々』をのぞいて、『トランプは、本当に、我々のために政治をやっているのだろうか』『この人に、そんな能力は本当にあるのだろうか』と疑問を抱き始めたとしても、全くおかしくはない。

 

 

そして、今回の『対イラン戦争(交渉)』では、トランプが、部下たちからあがってくる『提言』とか『作戦プラン』に対して、ロクにチェックもいれずに、いわゆる『めくら判』を押しまくっているらしいことが、浮き彫りになってきている。

 

 

たまたま、対『ベネズエラのマドゥロ大統領』の強行作戦において、デルシー・ロドリゲス副大統領の裏切り(彼女も、『女狐政治家』の一人であった)もあって、うまくいった?作戦の成功に、頭がショートしてしまって、『ここ掘れ、ワンワン』状態になってしまって、同じようなことを、イランでも、あるいはキューバに対してもと『前のめり』になってしまっているのが、『トランプの精神状況』なのであろう。

 

 

しかし、イランとの関連では、(絶対に戦争状態を終わらせてはならないという決意に燃えている)イスラエルのネタニヤフ首相が、(自身の汚職の疑惑裁判の継続再開を許さないために)より『狂信的な小政党』との連立政権の組み換えを行いながら、『永久戦争』を継続している。

 

このようなイスラエルに、『弱み』を握られているかに見える『トランプ爺さん』に、『素晴らしい決断が出来るはず』と『思い込んでいる、日本の関係者』がどうかしている。

 

今や、(権力が大好きな)『読売新聞』といえども、『あまりにもトランプべったり』だと、『リスクヘッジが出来なくなってしまう』と『多少なりとも、批判的な記事』を増やし始めたかのように見えるような状況である。

 

今回のトランプの『ジグザグ』と(来るべき、『米中会談』を意識しての)『迷走ぶり』は、多くの人たちが、十分、予想出来ていた状況なのだろう、という気がする。

 

高市首相などは、『日本は石油を確保できている』『パニックを起こす必要はない』と、国民の不安が拡大しないように、躍起となっているが、逆に、彼女に、『心配はない』『大船に乗った気持ちでいてください』みたいなことを言われると、ますます、不安になるというのが、今の日本国民の大方の状況だろう。

(何しろ、下手に、『高市は大丈夫か…』などと言うものなら、『非国民・国賊扱い』されかねないような、我が国の『精神的風土』である。

 

大方の人たちは、『竹やり訓練』みたいなものに対しても、現在は真剣に取り組んでいるフリをするしかないような状況なのだろう。)

 

 

先日(4月10日)0時7分に次のような記事を書いた。

(01)前回の記事の映像

 

『310円→1100円の大幅値上げ(国立の施設ならではの無茶ぶり)』というタイトルをつけて、(東京・京橋にある)国立映画アーカイブのシニア料金(65歳以上)が、4月から、310円→1100円となんと3.548倍に大幅値上げしたことを批判したものである。

 

 

 

誤解されているかもしれないが、私は、何も料金引き上げという経済的側面にのみ着目しているのではない。

 

むしろ、一方的に、『通達のような形で、国立映画アーカイブの館長の布告でもって、乱暴に改定をしてしまう、その権力的なやり方』に異議を唱えているのである。

 

このようなやり口は、ある意味では、『文化』とは最も縁遠い『スタイル』といえるのかもしれない。

 

 

そう思って、よく見ると、今回の『料金改定』は、『自立できる?』→『儲かる』美術館や博物館を目指すという、高市内閣の新たな『美術館・博物館等文化政策』の一環として打ち出されているようである。

 

はっきり言って、私は、『高市内閣』というのは、最も野蛮な部類(無思想)の内閣であり、彼らが『文化うんぬん』というのは、『野蛮人』が『非野蛮人』の言うことを口真似して、『推進』しようとしている『バカバカしい政策』であると思っている。

(その割に、高市内閣の『支持率』が低下しないのは、『選挙民自体がそのレベル』であり、また、『NHK等のメディア』が忖度したニュースしか流していないためであると感じている。)

 

 

そして、この『国立映画アーカイブ』という施設に不信感をもっているのは、ここは、かなり『暴力的な体質』の警備員を抱えており(昔から、国会などで、『強行採決』の折に駆り出される、『暴力的な警備員』の姿が、ニュース映像で映し出されているが、もしかしたら、『同じ部署』が、『国立映画アーカイブ』の『警備員』たちをも統括しているのかもしれない)、以前から、入館者が、『65歳以上を証明する証明書』などを携行せずに、やってきたときに、その人たちの『入場を阻止する』あるいは、『いったん、入場してしまった人たちをつまみ出す』ために、動員されてくるとき、いきなり『新選組』か何かのように殺気立った集団が、登場するのに、驚き、あきれ果てたことが何度もあった。

 

 

このような『暴力装置?』をしょっちゅう発動するような『国立映画アーカイブ』というのは、昔から、『暴力体質』『お上の施設体質』がぬぐえないところがあったのだが、今回において、『高市内閣』のもとで、その『育ちが知れる体質』が再び、露呈してしまったようである。

 

少なくとも、『なぜ値上げしたのか』『値上げの一方で、どのような改善を約束するのか』『国立アーカイブ』という施設をどのような理念のもとで運営しようとしているのか、その辺についての説明をする(あるいは、『しようとする』)のでなければ、『国立映画アーカイブ』はいつまでたっても、『文化的な施設』として、育っていくことはないと私は思っている。

 

まあ、『高市内閣』に『文化』を求めるのは、『まったくお門違い』の話なのかもしれない。

 

彼女は、『イエーイの女』であり、『保守派』としても、『筋の通らぬ、勢いだけの政治家、中身のない見掛け倒しのお人』に過ぎないらしいことは、ますます明らかになっているが…。

(誰も本気で、担ぐ気のない『ボロ神輿』という感じか?)

 

 

 

 

昨日(4月8日)、久しぶりに(東京・京橋にある)『国立映画アーカイブ』に出掛けて、古い日本映画を見た。

今回は、1939年(昭和14年)の『日活多摩川』の製作映画で、『土と兵隊』という映画。

 

(01)映画の説明文(チラシから)

田坂具隆監督の、私もなんとなく、昔から聞いたことのある『名作映画』である。

火野葦平という(当時の)『流行作家?』(ではなかったかと思う)が書いた、従軍作家?としての『土と兵隊』を原作とする『戦意高揚映画』ということで作られた映画である。

 

だが、皮肉なことに、この映画は、『戦争の悲惨さ』『動員された兵士たちの悲哀』を刻印された映画として、『歴史にその名を刻んでいる』と聞いていた。

 

そういう風に聞いていたので、この映画(ついでに言うと、『最長版』だという。153分の長い映画である)を、ある種の『予見』というか、『偏見』というか、そういったものを含めて見た。

 

だが、この映画は、延々と『皇軍兵士』たちが『行軍』をしていくシーンが続いている。

しかも、かなりのスピードでの『行軍』である。

動員された兵士たちには、かなり年齢の高い人たち(40代、それ以上もいた?)が含まれている。

 

それに持ち物が、やたらに多そうだ。

まず、『日の丸』だったか、『陸軍の旗』だったか忘れた(というか、両方あったような気がする)が、それも、かなり大きいサイズのものを掲げながら行軍している者が、かなり多い。

 

それに、やたらに『掛け声』をあげたり、『君が代』もあったかもしれないが、『大声で歌を歌いながら』行軍している。

『ここは、お国を何百里、誓ってお国を出たからにゃ、手柄たてずに死なりょうか…』などといった歌詞の(いささか、『さみしい感じ』の漂う)その後、『軍歌』とみなされた歌なども、みなで大声で、歌っていた。

 

見ていると、かなり年齢の高い人たちは、全体のスピードについていくのが大変そうである。

部隊は、幾つかの『小隊』などにわかれて、しかも、『運動会のかけっこ』みたいに、お互いに『スピードを競いながらの行軍』であるようだった。

 

ロクに、『休憩』も取らずに、『行軍』ばかりしているようで、年齢の高い兵士たちのなかには、かなりシンドそうなのもいる。

それも、最初は、『若い者に負けられない』とばかりに頑張っているが、時間がたつにつれ、『疲労も蓄積』して、『へとへとになって、落伍寸前』の『年齢の高い兵士』の姿が目立つようになってくる。

 

これは、つらいなと思っていると、そのうち、『疲労』で倒れる者も出てくる。

何だか、食事も取れなくなるほど、衰弱しきって、『注射』を打ってもらったり、ついには、『病院送り』になる者さえいる。

 

しかし、彼らは、『注射を打ってもらう』ことでも、『申し訳ない』という感じで、『自分が足手まとい』になるのは、『皇軍兵士』『天皇陛下の赤子』として『恥』だ、という感覚で、『極限まで無理を重ねよう』とさえする。

 

そのため、衰弱が積み重なり、『食事もとれなくなり、過労のあまり、ぶっ倒れる』まで、『頑張り』を重ねようとする。

(『精神論の極致』みたいな世界を見ているようだ。)

 

衰弱のあまり、食事もとれなくなったり、『過労』が重なって、ついには、『死に至る』者まで出てくるようなありさまである。

 

何とも、『空恐ろしい世界』を描いた映画である。

期せずして、『戦争の恐ろしさ』を描いているのだが、映画のなかでは、『兵士たち』は、『お互いに思いやり、仲間思い』であるということになっているが、それでも、『大和魂』を最大限発揮して、『仲間たちに迷惑をかけないように』と『極限まで、頑張り抜く』、それで『途中で倒れたり、死んでいく』というのが、まるで、『呪文をかけられた、動物たち』が、『絶壁にむかって、突進し続ける』ようで、『哀れ』であり、『不気味』でもある。

 

映画のほうは、このあと、『敵』(なんとなく、国民党の軍隊のようにも見えるが、よくわからない)と遭遇して、彼らの砲撃を避けながらも、『突撃』を繰り返していく。

 

それで、(かなり装備の行き届いた)『敵兵』にぶつかったときは、大勢、死んだりしてくのだが、それでも、『走る』ような勢いでの『進軍』というか『行軍』は変わりがない。

 

どうも、『敵よりも、早く、どこかに着いて、そこから、敵軍を包囲殲滅する』というのが、基本戦略(というか、それしか、闘いの方針がない?)のようである。

 

何だか、こんなことをしていると、『食べ物がなくなってしまい、飢えに襲われることになるのでは…』という気がするが、『物資を兵士とともに、あるいは兵士の進軍に先立って、調達し配備する』といった思想は、『皆無』に近いようで、『食糧は、現地調達』ということで、やがて、『現地の人たち』の食糧を奪い、それと抵抗する『現地の人たち』との『壮絶な争い』になっていきそうな『未来』が、『目の先』にちらついているようなシーンばかりであった。

 

この映画、そういう意味では、『美しい反戦映画』とかそういうものでは全くなく、『ひたすら、命を投げ出して、体力の限り、敵中深く、進軍していく日本軍』が、やがて、『飢え』と『病気』あるいは、『現地の人々との食糧等の争奪戦』に直面していく、そういう『悲惨さ』をしつこく描いた、(見ていて、絶望的な『疲れ』を感じてしまうような)『映画』であった。

 

それも、妙に『ドキュメンタリー作品』的なタッチがあって、『このシーンは、映画というより、実録のシーンをつなぎあわせたのではなかろうか』という『怖さ』があった。

 

そういう意味では、『皇軍の闘い方の無謀さ』『精神論ばかりで、戦略、戦術も何もなさそうな空恐ろしさ』がたっぷり頭に焼き付くような映画であった。

 

だが、こういう映画を、『映画が製作された当時の、日本の観客たち』はどういう気持ちで、この映画を見ていたのか、『こんな映画を作ってみても、ちっとも戦意高揚にはなりそうもない』、果たして、実際、どれほど、この映画が、『上映されたのか』という気がした。

 

それとも、『試写』などを見て、『軍関係者』などが、『この映画は、ダメだ』『没にしてしまえ』『歪んだ反戦思想の持ち主が、プロパガンダ的に作った映画が、紛れ込んでいたのではないか』ということになったのかどうか?

その辺が、よくわからなかった。

 

それから、もう一つ。

実は、今回の映画上映から、ここ『国立映画アーカイブ』における映画のチケット(特に、『65歳以上のシニア料金の対象者』)が、大幅に値上げされることになったようだった。

 

(02)『料金表示』の画像

 

それも、『これまでが安すぎた』ということなのかもしれないが、つい、先日まで『310円』だった『シニア料金』の対象者のチケット代が、一挙に、『310円』→『1100円』と、『3.548倍』に値上げをしていたのには、驚いた。

(これでは、354.8%というか、『+254.8%』の値上げではないか。)

 

こんなに極端に一度に『値上げ』をするのは聞いたことがない。

しかも、『こうこう、こういう理由で』とか、『こういうサービスを今後も維持するため』『向上させるため』といった、説明も一切なされていない。)

 

『国立映画アーカイブ』の側が一切説明をしていないので、一般的な『ニュース』などから類推して、考えるしかないが、どうやら、『高市政権下』において、『国立美術館・博物館に重いノルマ。未達成なら閉館含めた再編--国が突きつけた、第6期中期目標の衝撃』という記事が、ネットで見た『美術手帳』のサイトに出ていた。

 

(03)『美術手帳』の記事

 

文化庁と文科省が、独立行政法人国立美術館と国立文化財機構(国立博物館等)に対して、2026年度からの5年間で達成すべき『第6期中期目標』というのを示したのだという。

要するに、財務構造のドラスティックな転換を求めるという話で、『全体の展示事業に係る費用に対する自己収入額の割合』を『65%以上』にすることが求められるのだという。

 

さらに、次期中期目標期間中には、法人全体で自己収入比率100%目指すのだという。

これは、これまでの実績が、国立美術館が53%(令和6年度)、国立文化財機構が54%(令和3~6年度)であったことを鑑みると、『極めて高い目標』で『大幅な収益構造の転換』が求められている、と記事では説明している。

 

さらに、『4割の壁』ということも指摘されていて、『中期目標期間の4年目』において、『自己収入額の割合が4割を下回っている場合』は、『社会的な役割を十分に果たせていないとみなされる館』とされ、『閉館を含めた再編の対象』となるというのだ。

 

私自身、これ以上の内容は、知らないのだけど、このような『高市政権下でのドラスティックな措置』(おそらく、『防衛費』等において、いくらでも『支出の飛躍的な増加』を余儀なくされるために、それの代わりに、彼らが『社会的な役割をほとんどはたしていない』と考える『美術館や博物館』を目の敵にしているのではなかろうかと、推測する。

 

ともかく、こういう『流れ』のなかで、それと合わせて、『国立映画アーカイブ』もまた、今回のような『入場料の引き上げ』を行ったのではなかろうか?

ちなみに、今回、4月1日から、『国立映画アーカイブ』の館長も、二代目館長の『とちぎあきら』という人に代わったようだが、この人もただ、『役所の人事異動』のような形で、『アーカイブ』に名前が掲示されているだけである。

(04)館長の交代

 

本来、『国立映画アーカイブ』というものを、『映画』を巡る、『作り手』『映画好きの人たち』『映画に関係する職業につくことを目指す人たち』などの『交流』と『出会い』などの『共同のスペース』として『育てて行こう』とするのであれば、今回のように、まるで、『役所の都合でやっていること』として、『皆さんには関係のない?話』なので、勝手に『内輪で決めさせてもらう』といった雰囲気の漂う『話』にはならないはずである。

 

たしかに、『これまで特に、シニア料金は安すぎるくらいだったから、しようがない』という気持ちを持っている人も多いのかもしれないが、それにしても、『一方的過ぎる』あるいは、『国立映画アーカイブ』が目指すことを、ちっとも、『共有していこう』というメッセージが読み取れない。

 

『お前らは、お上の決めたことに従えば、それでよいのだ』という姿勢が露骨すぎる。

という気がしてならない。

これが、例えば、『フランス』とか(あるいは逆に)『ニューヨーク』とか『カリフォルニア』などの地域であれば、もっともっと『異議を唱えたり、<参加>を求める声』が『観客、利用者サイド』から上がってきそうな気がしてならない。

 

何も、『日本人』だからといって、おとなしく、『決められたことに従う』ということには、ならないのではなかろうか?

そんな気がしてしまう。

 

それとも、『1960年代』あるいは『1970年代』などの『抵抗する人々』やら『参加を求める人々』を描いた映画ばかり、この『国立映画アーカイブ』で見てきたすぐ後なので、こんな気がしてしまうのかもしれないが…。

 

たかが、『映画料金』のことで、騒ぐなと言われてしまいそうだが…。

(実際、昨日、『国立映画アーカイブ』の当日窓口で、チケットを購入していた人は、今回が初めての利用か何かだったらしく、『シニア料金対象の人』が、『随分、安いですね』などといって、ホイホイ払っているのを、見かけてしまったが…。)

 

 

このブログ、かなり長い間、更新できなかった。

いろいろ理由はあるが、つい最近の(言い訳の)理由は、パソコンを故障させてしまったことだ。

 

この間、パソコンの作業中に、キーボードにコーヒーをこぼしてしまった。

前から、その傾向はあるのだが、今回は、『水』でなく『コーヒー』、しかも、その後の処理が悪かった。

 

完全に『コーヒー』を出し切ったという確信がないままに、電源を入れようとしてしまったので、それで、その後、複合的におかしくなってしまった可能性がある。

 

 

それで、現在は、カミさんのパソコンを借りて、それでアクセスしている次第だ。

(カミさんの怒ること、たしかに、比較的最近、購入したばかりの結構、『いい値段』をしてパソコンを使っていて、こんな状態にしてしまったので、なかなか『言い訳』が通用しない。

『高齢のため』『少々、ボケているのだ』『文句あるか…』という逆切れ、セリフでとりあえず、『居直った』ものの、(こんな調子だと)『今後、自分がどうなっていくのか…』とやや不安ではある。

 

 

さて、最近の出来事について、まとめてコメント。まずは、『政治関連の話』。

『トランプ爺さん』は相変わらず、『バカげた芝居?』を続演中である。

 

トランプ大統領に対しては、『バカのふり』をしているが、実は、『素晴らしい政治家である』という賛辞を送りたがる、人たちが絶えず、発生するようだ。

 

しかし、『普通の判断力』で考えると、『バカげたディールごっこ』しか得意分野のない、『哀れな爺さん』でついに米国内でも(中間選挙に向けて)支持率が激減中で、『焦りまくっている』ようにしか見えてこない。

(それだと、『株取引』などやっている人たちにとっては、都合が悪いので、絶えず『実は、これまでにない素晴らしい政治家』という珍説が、間欠泉のように噴き出している。そのようにしか見えない。)

 

最近のその種の論者でいうと、(名前をちょっと忘れてしまったが)NHKのニュース報道番組によく登場する、若手の小柄な感じのその男が、『米イラン2週間停戦』という『合意』が発表された直後の時点で、『トランプの全面勝利』『日本は、高市とトランプの良い関係を活用して、この成果を十分、享受すべし』などとインタビューで答えているのを(NHKの番組で)流しているのを見た。

 

さすがに、『ちょっと頭がおかしいのではないか』『酔っぱらってコメントでもしているのか』(あるいは、どういうところからの『インタビュー要請』なのか、勘違いしてしまったのかもしれない? どこか、『お得意さん』からのインタビュー要請だったのか)などと不審に思ったものだ。

(01)この男の顔写真があったらここに入れる

 

 

すると、さすがに、そんなことを言ったのは、その時だけで、その後、『薄氷のような、停戦合意』が発表されるにつれ、この人のいうことは、『常識的なもの』に戻ってしまっているようだ。

(それにしても、コイツは、『アルコール?』に弱いのか? それとも、『イスラエルメディア』か何かの依頼に応えて、インタビューしていると勘違いしたのか? いずれにしても、ひどく『二面性』のある男だなと、あきれ果てたものである。)

 

 

この男の例が、一番わかりやすいが、どうも日本では、『株価を上げたいという思惑のなせるわざか』なぜなのか、どうもよくわからないが、このタイミングで、『トランプは、実は素晴らしい政治家なのだ』という最後の『デマ』が流されているようだ。

 

(02)その他、トランプ褒め上げの論調

 

 

私は、別に、(逆に)『イラン』のほうをほめそやす気も、さらさらないが、この戦争では、『ネタニヤフ首相の率いるイスラエル』が一番厄介な存在で、彼らの『停戦妨害』『戦争をやめさせない謀略的行為』をいかに、『おしとどめること』ができるかどうかが、『ポイント』だという気がしている。

それは、以前に、『ネタニヤフ調書 ~汚職と戦争~』というドキュメンタリー映画を見た、その影響が大きいと思っている。

(03)映画『ネタニヤフ調書』

 

 

ところが、『米イラン合意』『二週間の停戦』が大々的に宣伝されたその時点では、『イスラエル・ファクター』というのは、意図的に無視ないし、軽視されていたと思う。

(実際、その後、ネタニヤフは、とりあえず『イランに対してではなく、その同盟軍である、レバノンのヒズボラに対して、2024年のポケベル攻撃以降、最大規模の攻撃』を加えたという。)

 

ネタニヤフにとって、『自国をとりまく戦争』を『絶対に終わらせないこと』が、自分自身が、汚職などの容疑で、『刑務所に送りこまれない』ための『絶対条件』になっているようである。

 

この問題を、考慮に入れない、『停戦合意』なるものは、『薄氷の合意』に過ぎず、『何らかの意図をもって、とりあえず、時間稼ぎ』をするためのものに過ぎない(米国の中間選挙に向けて、あるいは『米中首脳会談』に向けてなどの意図を持った)と思っている。

 

 

ところが、現状の日本の『報道』では、『桜の満開情報』とか、『大谷のアメリカのメジャーリーグでの活躍』報道、そして、『ホルムズ海峡封鎖の日本経済や、物価への影響』といった限られた視点のなかでの、『中東問題の報道』しかなされていないので、とりあえず、『日本人の生活への影響』が大したことでなさそうであれば、ほとんど、『イラン』とか『イスラエル』に対して関心を持っている人は、いなさそうである。

(もっとも、これは、『世界的な傾向』なので、何も『日本人だけ』が『島国根性』であるというのは、当たらないかもしれない。)

 

どちらにしても、最近、『外国人』がかつてなく、日本社会に入り込んできているので(日本保守党、参政党などの)『排外主義勢力』にとっては、『お気の毒な話』だが、もはや、『外国人観光客』とか、『外国人労働力』なしで、日本が『自力』で生き延びることは、むしろ考えにくく、既に、こういう人たちとどのように『共存できるのか』を必死で考えるしか、『日本社会の生き延びる道』は残されていないような気がしている。

つまり、『日本保守党』や『参政党』などの言っていることは、『もっとずっと前から、問題意識をもって、対処法を考えているべきだった』という繰り言に過ぎない。

 

文句があったら、『今は亡き、安倍晋三元首相』に対してでも、ぶつけるしかないだろう。

『アベノミクス』がぐちゃぐちゃであって、安倍首相が『生きている間』に明確な問題提起をしなかったからこそ、現状の『日本』があるのであろう。

(そういう意味では、『高市首相』というのも、『矛盾に満ちた、存在』でしかない。

 

このあと、『高市さん』についても、もっとコメントしようかと思ったが、長くなるのでやめておく。

また、『政治以外のこと』に関しては、別の記事でアップすることにしたい。