昨日(3月16日)、今日(3月17日)と時々、国会中継を見ている。

もっとも、『大相撲中継』を見たり、国会中継がつまらないとウタタ寝したりしているので、そんなに真面目に見ているわけでもない。

 

明らかに、高市サンは、答弁の仕方(というか態度)がこのところ変わってきたようだ。

 

 

自民党が馬鹿勝ちしたので、自信満々かというとそうでもない。

何となく、びくびく(というかオドオド?というか)とした感じで、何かに怯えているようである。

 

恐らく、それは、『電撃的な解散-総選挙』で自民が勝つには勝ったものの、『反高市』という地金の人たちも含めて、与党の数があまりにも多くなってしまったことにとまどっているのだろう。

 

 

『反高市』が地金というのは、何も、『石破さん』に近い人たちという意味には限らない。

『麻生さん』にしたって、『小泉進次郎君』にしたって、ただ、『高市という神輿』をみんなでかついているふりをしているだけかもしれない。

 

それは、(高市サンが一番頼りにしているのかもしれない)『片山さつき財務大臣』にしても、最後の最後まで高市サンと付き合う(守り切る?)かどうかといえば、『かなり疑問』な気がする。

(01)片山さつき

 

そして、高市サンが最近元気がないというのは、恐らく『トランプ大統領のやりたい放題によって拡大しつつある、国際的なカオス』のなかで、今のような自民党や与党の状況では、『何か、うまくいかないことが、トランプとの会談その他』で日本に押し付けられる(日本がイエスと言わざるを得ない)ような状況になったら、日本国民は『すべて、自分(高市早苗)のせいにするのだろうな』、そんな気がしているせいではなかろうか?

 

結局、『馬鹿みたいに支持率が高かった』そんな『ブーム』がいつまでも続くはずはない、とご本人も思い、『ブームがはじじけたら、一体、どうなってしまうのだろう』と、実際は、かなり『びくびく』しているそんな気がしてならない。

 

 

また、ここで言っておきたいことは、現在、高市サンが国際的にもトランプ大統領と、イタリアのメローニ首相(これも女性。しかし、高市サンと比較すると、『女マフィア』みたいな、凄腕の政治家のようだ)を含めて、他国のしたたかな政治家たちとの間で、板挟み的な状態になっているように見えること。

(02)トランプ大統領

 

そうしたなかで、高市サンはせいぜい『内弁慶』でなおかつ、『強そうな口ぶりだけ学んだ』といった程度の、まだまだ政治家としては、『未熟な人』のように見えて仕方がないということである。

(03)メローニ首相

 

最近の答弁ぶりで言うと、例えば、共産党の議員の質問、その他『立憲民主党』とか、『中道改革連合』、『社民党』(ほとんど出番はないが…)、『共産党』など『落ち目?』の政党に対しては、『ケンもほろろ』というか、極めて、ぞんざいな答弁しかしていない。

 

いかにも、『答弁するのも、面倒くさい』という感じで、『私が答弁して、手間をかけてやるのを有難く思え』といわんばかりの態度である。

 

ただし、『公明党』などに対しては、かなり気を使った答弁の仕方をしている。

いかにも、『公明党は、今後、取り込んでいく対象』『本当は嫌いだけど、大事にしたふりをして、野党の分断をはからなければ…』という計算がミエミエである。

 

こんな調子だから、ときどき、『中道改革連合』が抜けた『立憲民主党』の数少ない、小選挙区当選議員として、(今や、『中道改革連合』の2代目の代表というつらい役を務めざるを得なくなった)小川淳也さん(衆議院の『香川1区』から奇跡的に当選。ただし、『当選』してよかったかどうかは、評価のわかれるところだろう)が、国会(予算委員会を含めて)で質問しているのを、見かける。

(04)小川淳也さん

 

しかし、小川さんは、ドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』(故・大島渚監督の次男?である、大島新=あらた=監督の作品。ただし、大島渚の息子らしくて、かなり、『癖のある作品』。小川さんも、この『映画』シリーズがヒットしたことにより、ある意味では、『運命を変えられた』可能性がある)に出演したことにより、『自民党内の安倍元首相の勢力』などに、『怨念の対象である敵』との認定を受けてしまった可能性がある。

 

彼の質問の仕方は、どちらかというと、石破茂前首相とも似ているところがあり、いささか、『昭和の弁士』の演説のようで、私などは、『なかなか面白い』と感じるような語り口調である。

 

しかし、今や、『中道改革連合』の二代目代表に祭り上げられてしまった(まあ、本人が引き受けたのではあるが)ので、『立場上』また『その実質勢力の少なさ』から言って、なかなかつらい立場にあるようだ。

(こういう相手に対しては、高市サンは、さっぱり『遠慮』はしない。つめたく、『アンタ、敗残兵の勢力の代表に過ぎないでしょ』といった感じで、いささか『居丈高』、『偉そう』にふるまう。

 

ところが、今日、テレビ中継を見ていて、面白かったのは、『参政党代表』の神谷宗幣さんに対しては、極めて親し気に答弁をし、お互いに『エール』を送り合っているので、びっくりしたものである。

(まるで、『お友達同士』といった雰囲気まで感じられた。)

(05)参政党・神谷代表

 

そこで、なぜ、そうなるのかなど、次回では見ていきたい。

また、いわゆる『リベラル』の人たちが、『高市サンの失脚』とか『失政』とかに、期待を抱いているとしたら、『そう簡単には、いかないぞ』と感じるので、その辺も書いておきたい気がしている。

(続く)

 

 

 

 

 

本日(3月15日)は、大相撲春場所(於:大阪府立体育会館)の8日目だが、昨日(3月14日)までの結果をもとに書いていく。

 

相撲については、テレビ観戦が中心で、(例によって)技術的なことは、ほとんどわからない。

(自分自身が、もともと運動音痴のせいもあるのだろう。)

 

ただ感じるのは、今場所における『大の里』『安青錦』(裏のスター?としての)『元照ノ富士(伊勢ケ浜親方)』の扱いの矛盾というか、『興行(もうけ)最大限重視』『外国人使い捨て政策(ないし体質)』の醜悪さみたいなものである。

 

それぞれ、全く別の話で、全部まとめて語るのは乱暴だと思う人ももちろん、いるだろう。

(だが、ここは、私の『主観』というか、一方的な『偏見』『妄想?』をもとに書いてゆきたい。)

 

一番、最近の話で言うと、昨日の取り組みが終わった時点で大関・安青錦(ウクライナ出身)は小結・熱海富士に(熱戦の末)上手投げで破れ、3勝4敗となった。

(01)安青錦の画像

 

 

今場所での『綱取り』の夢は、あえなく潰えたといえそうだ。

 

つい、この間まで、安青錦について、『神がかり?』というか『西洋から、大和魂を体現した力士が、突如、やってきた』といった『タイムマシン』と『場所転換?』の合わせ技のような、『神話が現代によみがえった』かのような扱いをしていたのだが、やはり、そうは『問屋が卸さない』ということのようだ。

(なお、こういう扱いは、『相撲協会』とNHKなど、『相撲業界関係者』が意識、無意識に『結託』して形成される。

よく、『オールドメディア』とか『ニューメディア』的な対立が云々されるが、こうした『テーマ・問題』については『オールド』も『ニュー』も関係ない。)

 

安青錦については、『外国人(特に白人)力士らしくない』『腰の体勢が低い』『下から攻め続けるのが良い』、ついでにいうと、『余分なことをしゃべらず、昔からの日本人力士のように、<一日一番>を繰り返すのが良い』などと言われてきたものだ。

 

しかし、今場所のように、連続して敗北し、しかも、安青錦の弱点を認識した各力士たちが、その弱点に向けて集中的に攻撃をしてきていることがわかると、『インタビューに一切応じない』という彼の姿勢は、単に、『逃げの姿勢』に過ぎなかったのか(それも、ある意味で、わかるが…)ということが露呈されてくる。

 

本人がどれだけ自覚していたのか、わからないが、ここでボロというか弱点が露呈して、変に『綱獲り』などできなかったのは、むしろ、『良かったのではないのか』という気さえする。

 

ちなみに、つい先日まで、『強い、強い』と評判だった横綱・大の里は、(ご承知のかたも多いかと思うが)今場所は、初日から『4連敗』で休場に追い込まれた。

(02)大の里画像

 

何やら、『相撲の取り方』を忘れてしまったかのような、『心技体』が全くバラバラの『自滅相撲』ばかりだった。

 

これでは、今後、休場明けで出てきても、(きちんと『立て直し』が出来ていなければ)昔の稀勢の里(現在は、年寄・二所ノ関ということで、田子の浦部屋付きの親方という身分らしい)みたいに、『混迷したまま』での引退に追い込まれてしまうのではなかろうかという気がする。

 

稀勢の里は、もともと他人を指導できるだけの力量や経験を積んでいないのではないかと感じる。

(03)稀勢の里画像

(これも、『稀勢の里』嫌いの書く偏見と受け止めてください。)

 

それに対して、面白いのは、ついこの間まで、『究極の悪役』というレッテルでも張り付けられて、『相撲界から永久追放』の汚名すら覚悟をしないとならないのではないかと案じられた元『照ノ富士』で、現在の伊勢ケ濱親方(杉野森・正山という日本名を持っている、34歳)に対する世間の見方である。

 

弟子の幕内・伯の富士(はくのふじ)に対する暴行事件が報じられた際は、『血迷ったか』とか、下手をすると、昔の琴光喜(愛子さまが、ファンだったとつたえられていた人気力士)みたいに、『永久抹消』さかのぼって、『すべての経歴抹消』『相撲界から永久追放』という扱いにされかねない、風のスキャンダラスな報道の仕方だった。

 

しかし、考えてみると、そもそも、ことさらのように『白鵬』と『照ノ富士』の対立をあおり、『モンゴル勢』を根絶したいというような、『外国人追放』の風潮をも感じてしまう。

 

その後、報道されていることを見ると、伯の富士ももともと酒癖が悪くて、誰か知らないが、有力支援者(たにまちという存在?)の連れの女性に対して、嫌がらせをしたりしていたという報道もある。

 

また、照ノ富士が注意をしてもやめずに、執拗に繰り返していたともいう。

なおかつ、照ノ富士は、『部屋のビルの改築』などがうまく進行せず、『資金繰り問題』などで心労が重なる状態だったともういう。

 

そうしたなかであれば、『ある程度』の暴力(多くの親方にとって、そういう場合の『手だしによる指導』というのは、『理性的なストップが困難』な状態にあるのではなかろうか?

 

そうであれば、『裁判』ではないが、状況は、極めて慎重かつ冷静、中立的に判断されるべきであって、いやしくも、これに乗じて、『自らの勢力争い』に利用しようなどという卑しい策動は、控えるべきではなかろうか?

 

しかし、『相撲協会』ならびに、その関連業界である、『メディア』とか『記者たち』『ネット関係者たち』の動向を見ている限りでは、そこには、『右』とか『左』とか関係なしに、『利害関係者』の大きな渦のようなものがあって、それらが、実に『不透明な動き』『大きな振幅でもって、右往左往している』という感が否めない。

 

そうした感覚を常に受けているので、私は、『照ノ富士』に対して同情的である。

そして、日ごろは、『玉鷲を筆頭とするモンゴル力士たちの奮闘』によって、場所の盛り上げに尽力をしてもらい、いわば『お世話になっている』のに、機会あらば『モンゴル勢は全員、母国に戻れ』とか、『もうモンゴルはいらない』などと勝手なことを、平気でうそぶく、『日本』と『日本人』の身勝手さに、愕然とする思いがする。

(これは、『日本』も『日本人』も平気で嘘をつく、『ちゃぶ台返し』をする、『ゴールポストを一方的に移動させる』という『日本人らしさ』を自ら覆す暴挙にほかならないという気がしてならない。)

 

そうしたなかでは、熱海富士などの動きが、『素直なもの』のように見える。

彼は、『照ノ富士』の指導に応えて、愚直に相撲を取り続け、ようやく、『旭富士』や『照ノ富士』の指摘した悪癖を修正して、『強い相撲』がとれるようになってきた(らしい)。

 

さて、今場所は誰が優勝するのだろうか?

また、他の業界の人たちは、誰が誰を応援しているのか、そうしたことを知ると、なかなか面白いところもある。

 

例えば、阪神タイガースの岡田彰布オーナー付顧問がNHKの7日目のゲスト解説者として登場し(その一部しか見ていないが)、なかなか興味深い解説をしていたようだった。

 

一昨日(12日)、近所のノジマ(神奈川中心の家電・PC等のチェーン店)で、液晶テレビを購入した。

 

これは、13日に『日本アカデミー賞』の授賞式があり、それが地上波(日本テレビ系)でも中継放送されることを知っていたので、あわてて?買ったものだ。

(最近、歳のせいか、こういう突発的な行動=しくじりに結び付くことが多い=が多くなってきているので、カミさんもあきれているし、むしろ、自分自身でも、『厄介な年ごろになってきたものだ』『果たして、どんな終活を迎えることになるものやら』といささか、不安=居直りの気分に襲われる今日このごろである。)

 

今回も、やはり『しくじり』をたくさん含んでいる。

まず、第一に、ギリギリになって購入したもので、自分の部屋の大きさも、いつの間にか忘れていて、24インチという大きすぎるテレビを買ってしまったこと。

 

これまで持っていたものは、せいぜい16インチのタイプなので、明らかに大きい。

(もともとは、前のものより小さいものを買うつもりだった。)

 

それから、もともと機械というか、メカ、機器(ソフト込みのもの含めて)に弱いところがあるのだが、それが、高齢と共に、『早期認知症』みたいなものがミックスしてきて、ときどき、どうしようもないところがある。

 

今回のケースで言えば、何とか気合?と、ユーチューブなどの動画を見て、この新テレビ(ハイセンスのA4Rシリーズの24Vという液晶型テレビ)を一応、翌日の夜9時からの『日本アカデミー賞授賞式』を視聴するのに、間に合うように出来た、と思った。

 

ただし、これまたどういうわけか、日本テレビの『日本アカデミー賞!!No1映画&俳優を発表 世界が称賛200億円超国宝は何冠とるのか?』『吉沢亮&横浜&渡辺謙』『高畑&寺島は着物姿で』『北川景子vs長澤vs倍賞vs広瀬すずvs松たか子』『松村北斗快挙W受賞へ』『鬼滅コナン…名作対決』『8番出口歩く男も笑顔』(これは、『読売新聞』朝刊のテレビ欄からそのまま写したもの、日本テレビと読売新聞の関係から、かなり力を入れた応援ぶりである)という、煽りに煽りまくっている『テレビ欄』の紹介記事からもわかるように、『興行熱』が冷め切らない状態である。

 

本当は、この『国宝』という映画は、『朝日新聞』に連載した作家吉田修一の新聞小説『国宝』が原作で、単行本化されたときも、『朝日新聞出版』『朝日文庫』から出されたのだというが、映画『国宝』製作委員会は、アニマプレックスとMIRIAGON STUDIOを幹事とし、アミューズ、東宝、ローソン、CREDEUSで構成されているのだという。

 

それで、いかにも『商売下手な朝日新聞』らしくて、『朝日と国宝って、何にか関係あるの?』ということになってしまったのだという。

 

『朝日新聞』は、むしろ、映画『宝島』のほうにもからんでいて、『宝島』のほうを推しているという空気も社内にはあった?というような話を聞いたこともある。

(あるいは、別の映画だったのかもしれない。)

 

ただし、『宝島』のほうも、『沖縄現地』の熱気とか感情を伝えきるような映画にはなっていなかった(そのなかで、『沖縄を返せ』というような『祖国復帰運動のころのデモのシーン』みたいなのも出てくるが、どうも、『きちんと描けていない』『見たこともないような、無気力なデモのシーンだ』と感じたものだった。なぜか、妙にすれ違いを感じさせる映画だった)。

 

というわけで(どういう訳?)で、13日の『日本アカデミー賞授賞式』は、映画国宝が、10冠を獲得するという、『国宝の嵐』のような状態になっていた。

獲ったのは『最優秀作品賞』『最優秀監督賞(李相日)』『最優秀脚本賞(奥寺佐渡子)』『最優秀主演男優賞(吉沢亮)』などであり、いわゆるスタッフの職人タイプの人?が受賞する、各賞はかなりの高率で獲っているが、『花形の賞』はそうでもない。

 

これは、不思議な現象でもあるような気がするが、しかし、『日本アカデミー賞授賞式』としてはこのほうが、面白かった。

 

特に面白いと感じたのは、『最優秀助演男優賞』を獲った佐藤二朗の反応である。

彼は、『過去において、日本映画をあまり見ていない時期があった』『それは、知っている俳優たちがどんどん賞を獲って、嫉妬を感じる時期があったからだ』『それで外国映画ばかり見ていた』しかし映画『あんのこと』で初めて『優秀主演男優賞』を受賞した、前回の授賞式で『日本映画を作り上げている人たちの熱意と、みんなで日本映画を盛り上げていこうという空気』を感じた。

 

それで、『自分は、なんてケツの穴の小さい男だったか』と反省し、それからは、『日本映画を熱心に見るようになった』と語った。

さらに、『号泣』と共にこれを語り、しかも、共演の俳優・山田裕貴が(このひとは、もともとかなり変な人だが…)佐藤二朗の受賞を知って、佐藤以上に、『興奮・号泣』しているのが、妙に印象的だった。

 

私も、最近の日本映画は、(もちろん、作品によってはどうしようもないのも、たくさん作られているが…)監督とか、俳優(特に女性が輝いているのが多い)などで、『びっくりさせられる』ようなパワーのあふれた作品が結構、出てきているなという印象を持っていた。

 

こういうのは、『お互いに共鳴し合うようになること』が案外とあるようで、こんにちは、『日本映画が元気な時代』なのかもしれないとも思っている。

 

ただし、映画館に行くと、年配の人が多く(特に一般の映画館では、女性の姿が多いようだ)、『若い人が少ないな』と思っていたのだが、どうやら、『国宝』のヒットなどがきっかけになって、『若い男子』など(高校生等も)がグループで行くという光景も見かけるようになってきた。

 

これまで、『若い人たち』は『映画館で映画を見る』などはしないものだろうか?とも思ってきたが、そうでもないようである。

 

こうしたことで、『映画が変わる』『映画館が変わる』きっかけになれば面白いな、という気もしている。

この辺は、例によって、『期待過剰』というか『思い込み』で書いているような気もするが、最近、『国立映画アーカイブ』とか、私が良く出かけるような映画館でも、そういう傾向もみられるような気もしている。

 

 

この話、既にどこかの記事の枕か何かで書いたかもしれないが…。

 

いわゆる団地に住んでいる我が家で、今月(3月)から購読紙を変更した。

 

これまでは、読売新聞と東京新聞の両方をとっていたのを、読売だけにしたのである。

(01)『読売新聞』

 

なぜ、そうしたのか?

新聞料金が高いというのが、一つの理由。

もう一つが、玄関の新聞受けに、新聞の厚さ(ボリューム)がありすぎて、なかなか取り出しにくいこと。

 

何よりも、新聞を二紙をもとっているところがほかにないようで、どうも目立って仕方がなく、居心地が悪いというのが、もっと大きな理由である。

 

それに、これは新聞のボリューム(分厚さ)が大きすぎる別の理由(原因)だが、毎日のようにチラシが大量に挟み込まれている。

(二紙とっていると、同じチラシが大量にある。つまり、毎日、毎日、朝はチラシの整理に追われるという、馬鹿げた作業がルーチンになってしまっていた。)

しかも、同じ新聞販売店?からどちらもとっているにも、かかわらずである。

 

(02)大量のチラシ類

 

さらに、この膨大なチラシ(新聞自体も、今年に入ってから、『高市の突発選挙』などもあり、やたらとページが多かった。しかも、読売新聞のほうがひどいが、紙面の半分近くは、広告または、広告まがいの記事ばかりである)は、『紙ゴミ』になってしまい、=『資源回収』で出そうとはしているが、とんでもなく量が多い=は、毎月毎月、『ゴミ出し作業』あるいは『資源回収に出す作業』へとつながっている。

 

といった次第なので、とりあえず、『東京新聞』の購読をやめることにした。

(03)東京新聞

 

ところが、早速、『読売』だけにしたら、トランプ大統領のイランに対する『大作戦』が開始された。

(04)イラン大量爆撃

 

『読売』は、『高市寄り』であり、政府に都合の良い記事が基調である。さらに、『新聞発行部数世界一?』にこだわっていて、やたらに、『スポーツ』『芸能』等の記事のボリュームを増やして、ある種、『コントロール不能』な状態に陥りつつある。

 

さすがに、トランプ大統領の作戦に同調的な記事ばかり、増えてきたら、(一部には、『反高市』『サヨク新聞』呼ばわりされている、まあ、偏っている?事は間違いないが…。しかし、新聞とはそもそも、何らかの『偏り?』があるのが、当たり前の話だろう。)、『東京新聞』の記事がなつかしくなってしまった。

 

それで、このところ、毎日のようにコンビニで、『東京新聞』も購入している。

(実をいうと、『日経新聞』なども購入することが多い。日本経済、世界経済がどうなっていくのか、さっぱりわからないので…。

 

『日経新聞』は、『私の履歴書』など、文化面なども結構、面白い。経済についても、実際は、多様な側面があることが、紙面を通してもわかる。

『日経新聞』はもともと、『株式欄』の新聞であり、『投資』で金儲けがしたいという人向きの新聞であることは間違いないが、傘下に入れた、『フィナンシャル・タイムズ』関連の記事、紙面が、多様な情報を載せているので、そんなに馬鹿にしたものでもない。)

 

ということで、今月から、自宅での定期購読は、『読売新聞』だけにしたものの、家の中の『古新聞』『紙ゴミ』は相変わらず多い。(チラシは、おかげさまで、少なくなったが…。)

 

そればかりでなく、『紙ゴミ』を減らしたいということもあり、幾つかの新聞は、今盛んに、『ネット購読』をすれば、『特別割引』などということをやっている。

 

これは、ある種の『二重価格』というか『三重価格』というか、『いくつもの価格相場』というものが、実際にはできていて、『新聞記事』というものの、『市場価格』はどんどん下がっているということなのだろうけど…。

そのせいでもないだろうけど、最近の新聞というのは、『記事の訂正おわび』だらけである。

 

どうやら、記者もただ『記者クラブ』経由で流されてきた情報を『記事化』しているだけのようである。

どもその内容を理解しないまま、あるいは誤解したまま、記事にしているようで、記者の入力した原稿に間違いが非常に多い。

 

いちおう、デスクという存在(ある種の上司?)がそれをチェックすることになっているようだが、こちらも、『やる気』も、『能力』も失われつつあるようで、『見逃し』『見落とし』が信じられないほど多い。

(その結果、日々の新聞の『おわび・訂正』はやたらに多くなっている。目立たないように散らばせて、『おわび・訂正』を載せているので、これまた気が付きにくいようになっている。)

 

 

まあ、そういった事情はいろいろあろうが、私としては、『情報は欲しい』『紙ゴミやチラシのゴミはもういらない』『団地内でこれ以上、目立つのは避けたい』(前に団地の管理組合の理事を順番でやっていた時に、勝手な発言をいくつも行って、ある種の顰蹙をかってしまったこともあるので…。もっとも、それを機に、皆さん、『団地の建物や設備の劣化の状況』について、公然と指摘をするようになってきたので、それは『いい傾向ではないか』とひそかに思っているが……)

ということで、こんなことになっている。

 

それにしても、今は、『スマホで情報を入手する』『新聞を読むのはダサい』という風潮なので、(周りのことを気にせざるを得ない、『日本』の風習、文化の状況下では)新聞の購読者は、ドラスティックに減少しつつあるようだ。

 

恐らく、『最近の傾向数値』だけでいえば、全世帯の20%あるいは10%台またはそれ以下、しか新聞を購読(定期購読含む)しないという時代がさしせまっているのではなかろうか?

 

本来は、『本』など、(紙でなくともいい人もいるかもしれないが、紙に慣れ親しんできた世代としては、『紙の本』はなくしたくないものである)こういう時代だからこそ、もっと読まれるべきなのだろうけど(別に、『社会科学』とか『人文科学』が大事というわけでなく、私は、最近、『文学の価値』を再評価しつつあるが…。)

 

人間が皆、トランプ大統領閣下?のように、本質的に『馬鹿』な人間ばかりになってしまったら、それこそ、『人類』というものの、役割は不要ということになってしまうのだろうけど…(AIが支配する社会が、そのうち、登場するかもしれない)。

 

例によって、風呂敷を広げ過ぎたら、話がどんどん肥大化してしまった。

(新聞の購読状況についての話でした。)

 

 

 

毎日毎日、嫌になるようなニュースばかり飛び込んでくる。

筆頭は、トランプ大統領閣下の『乱心ぶり』である。

 

もともと、『視野が狭く』『コンプレックスだらけ』のしようもない人物らしいとはわかっていたが、それにしても『程がある』のかと思いきや、正真正銘の『狂人ぶり』である。

 

『中間選挙が近い』ので、よけい、焦りまくっているというのが、もっぱらの評判である(なお、私は、前の投稿記事で、『中間選挙は来年』と勘違いしていたが、今年の11月3日にあるとのこと。失礼しました)。

 

『相互関税』で『タックスマン』の成功ぶりを顕示しようとしたが、連邦最高裁では『敗訴』するし、ロクなことはない。

(01)連邦最高裁の敗訴

(私は、トランプというのは、関税とか国際経済の仕組みがわかっていないだけでなく、『半導体』とか『レアアース』などについても、あまりわかっていないような気がしている。)

 

それで頭にきて、今度は、ベネズエラに引き続き、イランに対して、イスラエルとともに、『爆撃を集中させ』、なんとイランの最高指導部の大半を、『ぶっ殺してしまった』。

(02)イラン指導部を皆殺し?

 

これでは、(べネスエラのように)『後継の支配層』を決めることもできず、イランは、今後、どのようになるのかはわからない状況のようだ。

 

 

戦後の日本のことを考えても、当時のアメリカは、『昭和天皇』や『吉田内閣』等を利用して、日本への支配(間接支配、しかし実際は、占領期間中は、『GHQの指示』がこまごまとした部分にまで及んでいたという)を通じて、日本を『目下の同盟相手』にまで育てていった。

(03)マッカーサー

 

これは、『昭和天皇』の『政治的利用』が大きな効果を発揮していたのであり、もし、早々と昭和天皇を処刑してしまっていたら、日本や日本人も、『ギブミーチョコレート』『アメリカ人大好き』にはならなかったことだろう。

(いくら、日本人が、『調子が良い』『長いものに巻かれろ』主義だとはいえ、それでは、『戦争で亡くなった人たちが浮かばれない』という思いがあったはずだ…。)

 

にも、かかわらず、今回、トランプ大統領閣下がなされたことは、大国イランの最高指導部をほとんど全員、皆殺しにしてしまうという暴挙だけである。

 

これでは、イランで残された指導階層の面々にしても、『面子まるつぶれ』であり、『こぶしを降ろす』大義というものが、生じようがない。

(下手をすると、アメリカに情報を流した『裏切者の一味』とうたがわれるのが、せきのやまである。)

 

(04)

こんなことが出来るのも、トランプというのは、(もともと、戦略的に物事を考えるのは苦手、つまり、『馬鹿に近い人物』なのだろうが)どんどん老化してきて、しかも、『何でもいうことを聞く部下たち』ばかり、自分の周りに置いているので、結局、『何もわからないリア王?』みたいな状態になってしまっているようだ。

(私自身、後期高齢者になっているので、『年老いた人間、特にジジイの場合、いかにやばい状態になりうるか』は自分の実感と反省を含めて、ある程度は、シミジミわかっている気がしている。)

 

アメリカというのは、もともと、『相手の情報を盗んだり、敵にスパイを送り込んだりして、敵の指導部を皆殺し』にするような作戦は、得意なのであろう。

だが、『皆殺し』にしてしまってどうするのだ。

 

これでは、日本ならば『国会議事堂』とか『総理官邸その他』に集中爆撃するようなもので、国会議員も(衆議院、参議院とか与野党を問わず)『皆殺し』にできるだろう。

だが、『皆殺し』にしてしまったら、『戦争(ではないのだろうけど)の終結』を調印しまうことの出来る『相手』も存在しえない。

 

このままだと、アメリカは、地上にも姿を見せ続けねばならず、『トランプが以前、米国の国民に約束していたこと』と真逆の状態になりかねない。

(トランプは、もしかしたら、誰かに『騙された』のではなかろうか?)

 

トランプが怒り狂うはずである。

また、こんなことをやられては、『高市サン』も自分がやると言っていたことが、ほとんどすべて、『ご破算』になりかねない。

(高市サンが、ものすごく、困った顔をしているのも、ある意味で、『当然』であろう。

しかし、どういうわけか、『高市サン』は空前の議席を国民からプレゼントされてしまったし、不思議なことに、『支持率は全く下がらないという信じられない状態』にある。)

 

高市サンは、一体、どうしたらいいのだろう。

相当、困り切っているのではなかろうか?

 

高市サンには、(ある意味で)同情もするが、彼女は今後、『憲法改正を実現する』といった『大きな夢』でも掲げなければ、どこかで、『失速する』のは、免れないだろう。

こうした状況のなかで、『高市ドリーム』を継続するためには、『憲法改正の実現の目途をつける』そんなことくらいしか、『レイムダック現象』をまぬかれる方策はなさそうな気がする。

 

しかし、こういう状況下で、何やら『表面的に』『憲法改正』をやってみたとしても、それは、『歴史的なレガシー』を残ためのアリバイ的なものにすぎず、『憲法改正』されたとしても、『日本経済と社会のやばい状況』を脱することはできず、『その後、厳しい現実』が、日本と『大勢翼賛会』的な巨大与党と(それを支持したはずの)日本国民に待ち受けているのではなかろうかという気がして、どうも気分が良くない。

(そもそも、日本国憲法は、『解釈改憲』ばかりをいろんな部分で繰り返しているもので、わけのわからない『法体系』になってしまっているという気がする。)

 

正直言って、『憲法改正』は遅すぎたのであろう。

自民党などは、要するに、『憲法前文』が気に入らないのであろうが、あそこに書かれている内容は、トウの昔に『実質的に無効化してしまっている』事柄だらけである。

(だから、そこだけどう変えてみても、それで直ちに、『日本が素晴らしくなる』はずがない。)

 

この間、電車のなかで、『お役所からの天下りか出向組の人』らしき、おっさんが、『アルコールの勢い』を借りて、『高市サンは、雰囲気が以前とは、すっかり変わってしまった』『何か重大な病気にかかっていて、本当は、先が短いのではなかろうか?』と面白半分?に言っているのが、耳に入ってきた。

 

まあ、そういう風に受け止めている人も、一定数はいるのだろうという気もする。

(私も、高市サンの最近の『表情や雰囲気』はただごとではない、という気がしている。)

 

『狂人らしきトランプ』も、『イエーイ』だけではすまなくなってしまった高市サンも、今後どうするのか…。

無責任で、無知な『一般人』としては、ただ『野次馬気分』で事態を『注視する』ことしかできないのだが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トランプ大統領は、これまで、『やりたい放題』の(下手をすれば)『天衣無縫』『天真爛漫』などと(肯定的に)受け止められかねない、ふるまいで『世の中』を騒がせてきた。

 

しかし、ひょっとすると、今後、『あの時が、ターニングポイントだったんだね』『たしかに、得意の絶頂だった』と振り返られることになるかもしれない、『アメリカ連邦最高裁』による、『IEEPA(国際緊急経済権限法)』に基づく、『相互関税、中国やカナダ、メキシコへの追加関税』について、『大統領に発動権限はなく、違法』とする『判決』を下したのだという。

(01)読売新聞など

 

しかも、連邦最高裁の判事9人中、6人が『判決』を支持し、3人が反対するという結果だった。

 

連邦最高裁の判事は、9人中6人は、『トランプ大統領が任命した保守派』とされていたが、今回は、そうした『保守派の判事』も3人が『判決支持』に回っている。

そして、リベラル派とされていた判事3人と合わせて、6対3という多数派を形成して、『判決』を成立させた。

 

早速、トランプ大統領は、『保守派』の判事、特に1期目に自身が指名した『ニール・ゴーサッチ』氏と『エイミー・バレット』氏について、『彼らの判断はひどかった』と『裏切者』呼ばわりしている。

 

他方、『判決に反対した3人』については、『大きな誇りだ』と賛辞を贈ったという。

いかにも、『トランプらしい、わかりやすい反応』であるが、彼は、自身の『関税によるディール手法』が否定されたことに、動揺が隠せないようである。

 

しかし、他方では、このような『判決』が出される可能性がこれまでの裁判の進行からわかっていたのであろう。(そもそも、予定されていた『判決』がなかなか下されず、『延期表明』も何度かされていたように、記憶する。)

 

トランプ大統領は、今度は、『IEEPA(国際緊急権限法)』ではなく、『通商法第122条』や『通商法第301条』に基づいて、『新たな関税』を発動するとしている。

 

しかし、こうした『新しい関税』(特に『通商法第301条』がそうらしい)を発動するには、『不公正な取引慣行』の存在、また、それによって『被害が生じていることの調査結果』などの『事実の収集・証明』が求められるようであり、簡単に、『右から左へ』と出来るものでもないらしい。

 

しかも、『通商法第122条』による関税の発動は、『議会の承認がない場合、最長150日間のみ適用』といろいろ『不都合』『不便な点』もあるようだ。

 

トランプ大統領は、『追い込まれれば、決して<敗北>を認めることなく、悪あがきを続ける』というのが、『信条』であり『行動様式』であるらしいが、しかし、それにしても、『次から次へと、新たな関税を発動すれば、関税額の計算等、面倒な事務手続きに終われる』ことは間違いないだろう。

 

それに、『場合によっては、払い過ぎた関税の返還』を外国取引の業者に求められることもあるだろうし、何よりも、『みっともない』し、『トランプを支持していた人々』の間では、『やっぱり駄目だったのか』という『敗戦モード』『厭戦モード』も広がりかねない。

(これは、来年の『中間選挙』を前に控えて、『トランプ陣営』としては、最も避けたい状況であろう。)

 

トランプのことだから、こういう風に追い込まれると、『イラン』とか『パレスチナ』の関係で、『戦争状態』を意図的に激化させて、『愛国主義』『アメリカファースト』の熱狂を醸成することをたくらむだろうが、それがうまくいくかどうかわからないし、かえって、『トランプは、新たな戦争は起こさない』と言ったではないか、と『公約違反』に対する反発を呼び起こす危険性もある。

 

また、『トランプの経済政策(関税が全てを解決するという妄想的な政策)』に対する反発や、あるいは『エプスタイン文書』を巡って、『トランプは、まっとうな宗教心を持った政治家ではない』『果たして彼は、<福音派><エヴァジェリスト>なのか』といった疑問が呈されているのも事実のようだ。

 

『エプスタイン文書の処理』を間違えば、それこそ、多くの『キリスト教徒』から、彼は、『まるで悪魔の使徒』にように見られて、『総反発されてしまう可能性』もなしとは言えない。

 

たしかに、トランプ大統領は、難しい岐路に立たされていると言えよう。

これまでは、彼に従ってきた『閣僚』たちが今後とも、『絶対服従』を貫くのか、それとも、『違った動きをし始める人たち』が出てくるのかどうか、これも注目ポイントであろう。

 

なお、こうした問題は、ほかならぬ(来月には、トランプ大統領との会見を予定している)『高市首相』にとっても、『他人事』ではないだろう。

 

ある程度、『独自の判断を示す』ような動きを見せるのか、それとも、『トランプのペット、チアガール』みたいな動きのまま、変わらないのか、そこは、『あまりにも人気が高く、支持率が下がるきっかけが見えない』という現状だからこそ、『かえって、判断が難しい』ようにも思える。

 

しかし、『高すぎる支持率』は、『何をきっかけにして、ピークを打つのか』、『逆に、高市サンは、自分の高すぎる支持率が、<不安の要因>になり始めているのではなかろうか』、そんな気も(最近では)し始めている。

 

 

 

 

 

昨日(2月21日)アップした記事の続きだ。

(忘れないうちに、続きを書いておこう。)

 

今回の受賞作品『カフェーの帰り道』というのは、単行本としても、装丁の感じが良く、家の中の装飾品としても価値を発揮しそうな作りになっている。

(こういうものならば、『電子書籍』でなく、『実物の本』で手元に置きたいというニーズもかなりあるのではなかろうか? 『紙の本』『紙の新聞』などが馬鹿にされる時代における、『一つの在り方』だと思う。

実際、結構、売れているという印象も受ける。)

(1)本の画像

 

前回、作品のほうの感じの良さについては、記したが(なお、この連作短編集は、『悪いやつ』が出てこないし、その癖、登場人物それぞれ相当、『個性的な人々』ばかりなので、先が『読めない』というのが、『面白さ』『ドキドキ感』の根拠の一つになっている)、今回は、著者そのものの、『面白さ』『不思議さ』について、記してみたい。

 

(02)著者の嶋津輝さん

 

ご本人の話によると(もちろん、作家だから、『嘘ばっかり』書いている可能性もある。『嘘』といっても、ある種の『誇張』と『省略』によって、『人間の人生』なんて、どのように、まとめることも可能だろう)、彼女は、『さまよえる三十代』を過ごしたのだという。

 

 

『四回転職し、苗字は二回変わっている』(『三十代はまず離婚から幕を開けた』)、三十代半ばで『資格を取得した』それも、『税理士資格』だというのだから、大したものだ。これで、『一生、生活していけますね』と普通なら、思うところだ。

 

ところが、どうやら、『税理士の仕事』というのは、彼女には向いていないようだった。

特に、『国際規模のファームに属する税理士法人』での仕事は、彼女に向いていなかったようだ。

 

『仕事が難しいのだ。試験をパスしているのだから基本的な知識は頭に入っているはずだが、さっぱり応用が利かない』『自分のダメさ加減がよくわかった』

 

 

実は私自身も、一時期、『中小企業診断士』の資格などとって、『コンサルタント』を目指していると称していた時期もあったが、『自分にそうしたことは、多分、向いていなかった』という自覚があった。

(そこで、あれこれ、転身を模索して、『診断士の仕事』はそのものは、何年かして、やめてしまった。)

 

彼女は、『英語』もこなすことが求められ、『一度だけ行った一週間の海外出張では、ほぼ何も聴き取ることなく平然と帰国するという金字塔を打ち立てた』(国際的な企業の海外の『クライアント』の経営状況の調査という仕事だったのだろうか?)

 

ここは、『ジョークのような書き方』をしているが、そもそも彼女は、相当、潜在的なプライド(自分自身に課す『やるべき水準』)が高いようなので、ここは、本人は、かなり『傷ついていた』のではと思う。

 

 

その後、(あまり詳しくは書いてないが)転職をし、仕事が暇になったというようなことも書いている。

(『税理士』資格のほうは、どの程度、どのような形で生かしていたのかはわからない。)

 

 

41歳になって(つまり、『公私ともにまことに忙しいもの』であった三十代を何とか、乗り越えて)『何となく、自分は文章が書ける気がした』、また『小説家という職業にぼんやりといいイメージを持っていたから』『小説教室』に入ったのだという。

 

『教室に入れば何をどう書けばいいか教えてもらえると思った』と書いている。

『書きたいことがない人は家族のことを書いてみるように』という講師のアドバイスをもらった。

 

それで、『劣悪な性格だった祖母のことを書いたものが、初めての小説らしき雑文である』。

(これで、下手に何か『受賞』したり、『話題になっていれば、祖母との関係、あるいは家族、親戚との関係がぐちゃぐちゃになっていただろうと私は思う。

そうならなくて良かった。)

 

これは『そこそこ褒めてもらえた』、また二作目は、『かなり褒められた』『クラスの人に<面白かったです>と声を掛けられ、最寄り駅まで一緒に帰った』のだという。

 

『教室に通い始めて丸一年が経つころ、初めて原稿用紙百枚を超えるものが書けた』、『授業後の飲み会で友達が、<今日の嶋津さんの作品、新人賞に応募してみればいいと思いません?>と講師に投げかけ』たことがきっかけに、枚数が合い、締め切りの近かった文学界新人賞に応募したところ、『最終選考に残った』という連絡を受けて、彼女は有頂天になったようである。

 

その日の帰りは、『地下鉄のホームの真ん中を歩いた』のだという。『大事な身体なのだから、もし線路にでも落ちたら大変だ』と思ったらしい。

 

この時は、『落選』となったが、『最終選考に残った経験が、確実に私の支えになっていた』と彼女は書いている。

 

その後、彼女は、『応募先を純文学から娯楽小説の賞に変え、2016年に<姉といもうと>という短編でオール読物新人賞を受賞した』そうだ。

 

しかし、そこから先は大変だったらしい。

 

『オール読物新人賞を獲っても作家デビューしたことにならない』純文学の世界とは異なり、『娯楽小説の世界では、単著を出すまではデビューしたとはみなされない』のだという。

 

この壁を乗り越えるために、相当、苦労したらしい。

(また、『私のようなトウの立った、ずいぶんゆっくりと書き進める新人を、けして見捨てることなく、ときおり進捗状況をたしかめ、ときにさりげなく急かしてくれた』担当編集者に恵まれたことも、彼女が、途中で『脱落』『沈没』することなく、ここまでたどり着けた要因の一つであるようだ。)

 

 

それにも増して、今回の『選考委員たち』の『講評』を読むと、彼女は、自分自身で、『書き方』『書く内容』その他、思い切って変身しながら、今回の『受賞』を達成したことが読み取れる。

 

彼女は、『文学界新人賞の最終選考に残ったとき』『オール読物新人賞を獲ったとき』『前回=第170回直木賞=で候補となったとき』など、何度も試練を経て、その都度、自分自身を変身させて、さなぎから、蝶の脱皮するがごとく、今回、ようやく『第174回直木賞受賞』に至ったという、大きなストーリーがあったということがわかる。

 

そしてそれには、これまでの『挫折』や『失敗』の体験をうまく生かしながら、この作品が誕生している。

 

 

今回の作品は、場合によっては、ある種の『逆張り』をはっただけ(つまり、『怪物』『モンスター』ばかりを登場させる流行のさなかに、あえて『良い人』ばかりを登場させる作品を生み出した)と『誤解』されかねないが、しかし、実際は、それ以上に、さまざまな工夫がほどこされている小説だと思う。

 

そして、特に、『オール読物』に転載されている『稲子のカフェー』と『出戻りセイ』だけでは満足できず、それ以外の『3つの短編』も絶対に読んでみたいと思わせ、なおかつ、『稲子のカフェー』と『出戻りセイ』を含めて、すべての5つの短編をもう一度、全部、読み直すと、『不思議な共鳴の音』が聞こえてくる。

 

彼女と(同じく興味深い登場人物である)男たちの『大正から昭和にかけての戦前、戦中、戦後、そして新たな戦前?』の長編ストーリーと『大河小説』のような『時間の流れ』『未来への光』がほのかに見えてくるのが、この『カフェーの帰り道』のだいご味ではないかと思う。

 

そして、このような作品を生み出し得たのは、嶋津さん自身のこれまでの、『挫折多き人生』『曲がりくねって生きてきた道』だという気がする。

 

そういう意味では、彼女には、もっともっとたくさんの『小説のネタ』を持っているようだし、おどろくほどたくさんの『作品』や『興味深い登場人物』をこれから、世に出してもらいたいと思うばかりだ。

 

(ただし、『注文が殺到する今』が、一番、『どう乗り切るかが大変な時期』なのかもしれないが…。)

 

 

 

 

このブログの記事、しばしアップが出来なかった。

実は、その間でも、いくつか書いたものがあるのだが、(操作ミスで)アップが出来ず。

 

元の原稿を復元するのが面倒くさくなって、妙な形になってしまったものもあった。

(だいたいが、『芥川賞受賞』の作品の感想とか、その他の小説関連の書き込みだった。)

 

とはいうものの、順番というか、細かな経過はわすれたものの、今回の第174回直木賞を受賞した『カフェーの帰り道』が面白そうということで、早速、東京創元社から刊行の単行本(1700円+税)を買い求めて読んだ。

(01)本の画像

 

これがとっても、『読後感』のよい小説なのだ。

だいたい、どういうわけか、最近の小説は、人間の『汚さ』というか『癖の強さ』『病的な状態』を表すような主人公なり、登場人物が多く、そのあくどさでもって、『注目を集め』、『売ってやろう』というような計算がちらほらしているものが、たくさん、書店の棚に並んでいるので、ややうんざり気味だった。

 

ところが、この『カフェーの帰り道』というのは、上野の片隅にある、『カフェー西行』というあまり流行っていないカフェーに大正から昭和にかけて、女給として働いていた女性たち(興味深い男たちも登場)を描いた連作短編集である。

 

『稲子のカフェー』から始まり、『幾子のお土産』で終わる5つの短編小説を収録しているのだが、これがどれもどれも、一つ一つが面白く、良い味わいのある作品ばかりだ。

 

 

しかも、全体を通して、お互いに響き合っているようなところがあり、『女性史』でもあり『生活史』でもあるような構成になっている。

さらに、登場する女性の一人一人は、どれも、『興味深く』、『嘘をつく』のが好きだったり、欠点とか個性はそれぞれあるのだが、『悪意を抱いたり意地の悪いことをする者はいない』(林真理子選考委員の評より)。

 

そして、全体を通して読むと、そこはかとない『連帯感』というか、『駅伝のバトンタッチ』のような『思いやり』『仲間意識』が浮き彫りになってくる。

 

 

『オール読物』の『3・4月号』(選考委員全員の講評が載っている)も読んだが、このように『読後感』の良い本作品には、全員、感心しているらしいのだ。

(普段、『悪意』をまき散らす作品を評価したり、あるいはご自身でもそういうものを書いている人が、『まいった』というか『お手上げ』というか、素直に感心している。)

 

しかも、それ以上に面白いと思ったのは、作者(嶋津輝=女性だが、ちなみに56歳らしい=さん)自身の生き方である。

(02)作者の映像

 

彼女が小説を書き始めたのは、41歳の時。しかも、『教室に入れば何をどう書けばいいか教えてくれる』と思って、『小説教室』に入ったのだという。

 

こんなものに入れば、どうせロクなことにならないというのが、これまで『文学賞』などをネタにした小説(筒井康隆の『大いなる助走』1989年、映画化されたもののタイトルは、『文学賞殺人事件 大いなる助走』となっている)で繰り返し、指摘されたことである。

(03)『大いなる助走』の画像

 

なお、同じ系列の最近の作品としては、村山由佳の『PRIZE(プライズ)』がある。

これは、現在、『本屋大賞』の候補作10作品の一つにノミネートされている。

(04)『PRIZE』の画像

 

(文藝春秋社から刊行されている本で、『直木賞』受賞をめざして、女性作家『天羽(あもう)カイン』が悪戦苦闘、策を弄し続けるさまを、描いている。ある種の『業界モノ』『お仕事小説』であり、これを読むと、『賞獲得のノウハウ』を得られると思わせるような作りになっている。

 

出版している側は、『パロディ小説』というか、『プロレス小説?』みたいなつもりなのだろうが、読者がどういう読み方をするかは、わからない。)

 

まあ、こんなことを書いているとまた長々となってしまうのだが、嶋津さん自身が、書かれた『自伝エッセイ』とか、(選考委員の)角田光代さんとの『受賞記念対談』によれば、彼女自身の『生き方』あるいは『今回の直木賞受賞までの道のり』は、なかなか個性的であり、それ自体が、『つまらぬ小説よりも面白い』中身になっていた。

 

もちろん、作家というのは、『嘘をつくのが商売』というような存在=そういう意味では、『政治家』とも似ている=なので、作家の書くこと、しゃべることを、そのまま信じすぎるのは、『ナイーブ過ぎる』だろうが…。

 

(ここは、話が長くなってしまうし、またもや、『操作ミス』により、記事の原稿が、どこかに消えてしまうリスクが存在しているので、ここまでで、『アップ』をしたい。)

『文藝春秋』の3月号が、一昨日(10日)発売になったので、(少し苦労して)『新百合ヶ丘』の書店で早速購入した。

(01)文藝春秋3月号表紙

 

というのは、この号に、第174回(令和7年下半期)芥川賞を受賞した二作品(『時の家』と『叫び』)が掲載されることを知っていたからだ。

(02)同誌の目次から

 

芥川賞は、前回、『該当作品なし』で終わり、同時に直木賞のほうも『該当作品なし』であったために、『書店業界』や『出版業界』から、『出版不況でもあり、書店もどんどん倒産していく時代に、何ということをしてくれるのだ』と両賞の運営元である『日本文学振興会』(『文藝春秋社』が菊池寛の指示により、ずっと興行元的な役割を果たしていることは、『公然の秘密』のようだ。

 

もっとも、『賞の選考』は選考委員に任されているので、両賞が、ともに『該当作品なし』になってしまったのは、『ある種の偶然?』によるものかもしれない(この辺は、いろいろ論議があったり、時には、『賞の選考過程そのもの』が、『小説のテーマ・素材』になったりすることがあるくらいである)。

 

ともかく、『今回は、何とか両賞とも該当作品ナシは絶対に避けたい』という機運は、高まっていた可能性がある。

 

 

実は私は、若いころは、『小説の真似事みたいなもの』も書いたりしていたような人間だが、あいにく、『芥川賞の受賞取れたての作品』を『文藝春秋で読む』などということは、ほとんどしたことがなかった(皆無ではないが)。

 

何しろ、『文藝春秋』での発表の場合(いくら、芥川賞というのは、『短編というか中編というか』そのくらいの『短い作品が対象』というルールがあっても)、ぎっしり、文字を詰め込んで、2段にわたって掲載するという、『小説を読むには、あまりふさわしくない』状態で読むことになってしまう。

 

それが嫌なせいもあって、ほとんど、『文藝春秋の発表号で読む』ということはなかったのだが、今回は、たまたま、(武蔵小杉を中心に活動を展開している)『かわさき市民アカデミー』というところの、『講座』や『ワークショップ』を受講しており、最近では、特に、『文学関係に重点的に、時間とエネルギーを注いでいる』状態のために、『芥川賞とりたて』の作品を『文藝春秋の3月号』で読んでみようと思い立ったのである。

(03)川崎市民アカデミーの建物

 

それで、今回、鳥山まこと氏の『時の家』と畠山丑雄氏の『叫び』が受賞し、掲載されていたのだが、まず、『叫び』のほうを読んでみた。

(この文章では、その素朴な感想を書いてみたい。)

 

この小説を読むことにしたのは、作品のなかに、『関西弁のやりとり』などがあって、読むやすそうだと思ったこと。

 

 

また、『二度の万博』(1940年の『紀元2600年記念万博』だが、日中戦争の激化にともなって『中止』となったものと、昨=2025=年に開催された『大阪・関西万博』)が対比されるように、小説の舞台となるらしいということも、『読みやすそうだな』と思った理由の一つだった。

 

ところが、実際に読み進めてみると、意外と『ハードな内容』が盛り込まれている。

(芥川賞というのは、やはり、それらしき『テーマ性』とか『屁理屈』を盛り込まないと、いけないようだ。)

(続く)

今度の『衆院選』、時間がたてばたつほど、トンでもない結果になったものだと改めて思う。

 

『高市台風』が吹き荒れたのは、2つの要因があると思う。

第一は、『高市首相』にこんなに人気があって、しかも、その『人気が直接、選挙での投票に結び付く』とは誰も思わなかったということだろう。

 

今回は、明らかに『立憲民主党』と『公明党』による『一時しのぎ』の『中道改革連合』が徹底的に嫌われ、『軽蔑』に近いような『嫌悪の対象』とされたこと。

(その『嫌われる力?』というか、『選挙民を逆なでする鈍感力』『厚かましさ』は驚くべきものがあったといって良い。)

(01)嫌われた中道改革連合

 

 

第二は、(第一と裏腹の関係にあるのだが)『高市首相に対する国民の期待』というか、『何かしてくれるのではないか』『これまでの政治家とは異なっている』突破力に対する『期待』がこれほどあったのか、ということである。

 

(それは、第一との関係でいうと)『これまでの政治家や首相という存在』はこんなに嫌われていたのか、『うんざり感』で見られていたのか、ということを示すものでもある。

 

 

率直に言って、私が仮に、『女性であったとしたら、高市さんに裏切られてもいいから、一度は、期待してみてもいいかもしれない』と思った可能性があるような気がしている。

(02)『女性政治家に対する期待』

 

 

なぜなら、日本では、『女性政治家』を単なる『お飾り』としてしか見ていないようで、『女性が権力を握りうることがある』などと真剣に考えている有力政治家などほとんどいないに等しいと思えるからだ(それは、『自民も立憲民主党も同じだし、何なら、共産党あたりも意外と変わらないのではないだろうか』という気がするほどだ)。

(03)共産党の内実

 

 

こうしたなかで、『高市をお飾りとしてジジイの有力者たちで担いでいる』と思っていたら、いつの間にか、『お飾りだったはずの高市サン』が『国民人気=権力=を手中にしていて、ジジイどもをキリキリ舞いさせている』というストーリーは、胸がすっきりして、『ざまを見ろ』『舐めるんじゃないよ』という痛快感があるに違いない。

(04)痛快感の対象

 

 

 今回、『中道改革連合』がたまたま、『暴風』で吹き飛ばされたが、それは、実は同時に、『自民党等』の『爺さん政治家たちの談合体質』を吹き飛ばすエネルギーとも共通するものでもあったのだろう。

 

(ただ、『中道改革連合』に寄り集まった『立憲民主党』や『公明党』の爺さんたちは、たまたま『高市サンの政権の野党』で、『投票で支持を示してほしい』という対象でなかったために、露骨に、なぎ倒されたというだけのことだろう。)

 

 

そもそも、『中道改革連合』でも特に『立憲民主党』のほうが印象が悪かっただろう。

(特に、『安住淳』『野田佳彦』『枝野幸男』『岡田克也』あたりが『嫌われ力トップクラス』と言えるのかもしれない。まあ、今回の『嫌われ貢献トップ』はイメージ的には、『安住淳』氏が『横綱クラス』という印象を受けているが…。)

(05)安住淳

 

どこが嫌われるかといえば、『自分は頭がいい』『しゃべる力もトップレベル』である。したがって、今回の『中道改革連合』のような無理筋の『一時しのぎのつもりで、全く、一時しのぎにもならなかった愚策』であっても、いくらでも『正当化するおしゃべりができる』。

 

だから、(今後、党のリーダーとしてますます売り出していかねばならないので)『全国に応援の弁士として活躍しなければならない』という姿勢で、また、(余計なことに)森下千里氏に対して、『たかが、タレントあがりのくせに…』という蔑視の視線を露骨に感じさせるコメントを、『つじ立ちクイーン』と呼ばれるほど、『石巻に溶け込もうと、必死に街頭活動、こまめな地上戦を繰り返してきた』女性候補に対して、浴びせたことであろう。

(06)森下千里氏

 

『上を上をと目指して』、腰高になってしまっていた安住氏、

 

おまけに最近、『おしゃれな眼鏡』を新調したりしていた。

こういう男は、『女性であれば、もしかしたら、自身の陣営内部でも、眉をひそめている人たち』がかなりいたのではないかという気がする。

 

 

最後のほうになって、あわてて、『選挙区内を必死で飛び回る姿勢』をアピールしていたが、そんな『にわか戦術』で、『懲らしめる意味でも、落とすべし』というレッテルの貼られた安住氏に同情票が集まるはずがない。

 

(案の定、森下氏には、大差をつけられて選挙区で敗北し、『惜敗率』も悪すぎて、『比例区での復活』も『夢のまた夢』の状態だった。)

 

 

もちろん、今回、『高市サンが驚異の大勝利』を果たしたとはいえ、それで、『早苗ファンたち』が期待したような、結果を『高市首相』が実現できるとは、全く限らない。

 

今回、(候補者が足りなくなってしまうような)大勝利を高市サンは、実現したが、そのこと自体、『高市サン本人ですら予想できないような大勝利』であったことを示している。

(07)反高市も復活当選の皮肉

 

また、自民党の名簿に載っていた人たちですら、本来的には、『反高市』というか、むしろ『旧来の自民党政治をぶっとばしてしまうのではないか』と不安を抱いている、自民党議員(その他与党の議員も)は多いことであろう。

 

むしろ、今回の大量当選を契機に、『旧派閥の復活』が見られるのではないか(新しい、『政策勉強会』とか『派閥横断的な研究会』などもできるであろうが…)。

 

それに、『国際的な政治・経済環境』が難しいなかで、どのように今後の『政治・経済運営』をやっていくのかは、『外交・安全保障問題』以上に困難なことだろう。

 

 

今回、ほとんど初めて、『選挙に前向きに取り組んで、高市推しの投票』をした人たちも多いことだろう。

 

彼ら、彼女らは、『政治の仕組み』というものをあまり知らないだろうから、いくら、『自民党議員たちが増えた』としても、それが『高市の夢の実現』(もともと、彼女は、どういう政策志向なのか、不明確なところがある)と直結しないことを理解できないかもしれない。

 

そういう意味では、『自分がもらえると思っていた議席数』を大きく超えて、『超特大の大勝利』をプレゼントされてしまった高市総理は、『今後、何をどういう順番で進めていけばよいのか』については、『慎重にならざるを得ない』ような気がする。

 

 

だが、いずれにしても、『立憲民主党』を中心とした『旧民主党』に所属していた政治家たちは、(多くが落選しているが)『今後、どのようにして、どのようなビジョン・理念・政策、スタイルをもった政党を目指していくのか』について、もっと長い目で見、長い目で考える、そしてもっと率直に語る、そのような『政党らしい政党』をもう一度、作り直していくこと、そのような『意欲』がなければ、今後、10年たっても、『事態が良くなっている』という保証は、ない(その前に、高齢の人たちは、『政治家寿命』が尽きてしまっていることだろう)と考えるべきだと思っている。

 

それに、『高市サンに期待して、その後、失望させられた』有権者が大量に出るようになれば、それはそれで、日本社会を『前向きに』『明るくする』ような兆候であろうとは、なかなか言いにくいところもある。

 

あまり長く書きすぎてもいけないので、今日のところは、こんなところで終わりとしたい。