5月10日にアップした、この記事の続きである。

 

 

 

『映画オッペンハイマー』が偽物だ、などと書けば、『不愉快に感じる』人も当然いるであろう。

 

特に、『オッペンハイマー』という人の昔からファンだったというような『年配の方々』などは不愉快かもしれない。

また、これまでこの映画を何度も繰り返して見た、という人も不愉快に感じるかもしれない。

 

しかし、事実は、この映画のアメリカでの(興行的な)ヒットが、(オッペンハイマー的な見解に同調して)『原爆投下は間違っていた?』に近い意見をアメリカの中で広げているかというと、そうでもないようである。

 

 

最近、アメリカ国内において、政府高官が『日本に対する原爆投下は、正当であった』『日本に原爆を投下することで、多くのアメリカ人兵士たちの死を防ぐことができた』『日本への原爆投下は、差し引き、多くの人々の死を減少させることができたのだから、原爆が平和をもたらしたといって良い』、この種の発言を繰り返していることが報じられている。

(ある上院議員が、そのような発言を引き出すべく、質問を行ったためのようである。)

 

新聞報道によると上川外務大臣などは、『こうした発言は遺憾である』と抗議の意思を外国でも表明しているらしい。

ところが、肝心の岸田首相が、『強い抗議を行った』というような話は、全く聞かない。

 

『G7サミットの際に、首脳たちに広島の原爆資料館なども見てもらった』『もしかしたら、長崎にも訪問してもらえるかもしれない』『原爆の実相を、こうした体験を通じて、より深く知ってもらえるのではないか』というような話が、これまで繰り返されてきたが、結局は、こうしたザマである。

 

『原爆投下』に対して、G7サミットで、話題になったのは、ロシアがウクライナに侵攻するに伴って、『ウクライナに対して、核兵器の使用も検討せざるを得ない』というようなことをプーチンが言い出したことに対して、ある種、『釘を刺しておく』といった意味しかなかったのではなかろうか。

 

そもそも、彼らが、『原爆資料館』を見て回ったと報じられた時も、実際はバイデン大統領をはじめとして、『原爆資料館』の手前のエリアに滞在して、『時間つぶし』をしていた、ということが暴露されていた。

 

バイデン大統領なども、『原爆の悲惨さ』を強調するような『原爆資料館のていねいな視察』など、できっこないということは、百も承知だったのではなかろうか。

『アメリカ』においては、『原爆投下こそが、平和をもたらした』『アメリカ人兵士多数の命を救った』という神話が、全体としては、信じられているのだろう。

これは、2016年のオバマ大統領が、広島に訪問したおりの古い記事であるが、

その時点で、ロイターの記者が、米国に『原爆神話』の存在していること、また

オバマ大統領の広島訪問は、このような『アメリカにおける神話』に対して、抵触

しないような形で、訪問と演説がされるであろうと予言していた。

(これは、基本的に、この記事通りの流れで事は進んだのであろう。)

少し、間があいているのだが、このように記事は続いていた。

 

 

 

映画『オッペンハイマー』で強調されていたのも、この『原爆神話』を是が非でも受け入れさせようというようなトーンであった。

というよりも、『原爆神話』というものを再度、堂々と主張することを許したのが、この映画の(日本公開前には、伝えられなかった)もう一つの『真実』『役割』であったのだろう。

 

 

そもそも、考えてみると、この映画は、『原爆という新兵器づくりとその投下』に関連した(NHKの)『プロジェクトX』と同じような『サクセス・ストーリー』をアメリカ人みんな、そして映画を見ている人すべてで楽しもうというような、(極めて、同調性の高い)ストーリーが中心部分にはっきりと存在している。

 

原爆投下の成功によって、ロスアラモス研究所で働く人たちが、講堂のようなところに集められ、(歓喜のあまり)足を踏み鳴らして、喜んでいた場面が思い出される。

(私の人種的な偏見かもしれないが、果たして投下した対象が、日本でなくナチスドイツであった場合、

どのような反応であっただろうか?

もしかしたら、その後、『ナチスを壊滅させたのは良かったが、その背後で、多くの善良なドイツ市民を札殺戮したのは、大きな間違いだった』などといって、アメリカがどこかで、『謝罪』をしている可能性もゼロではないような気がしている。)

 

 

その後、オッペンハイマー自身が、『水爆の開発』などに対して、疑義を表明し、その結果、アメリカに対する『忠誠心』を疑われて、この映画のメインの場面であった、『オッペンハイマー聴聞会』(連邦議会が開催する公聴会のなかで、『一般公開』されないものを特に『聴聞会』と呼ぶそうである)が1954年(オッペンハイマーが50歳ころ)に開かれるに至る。

 

ストローズの働きかけによって、この『聴聞会』は開催されることになり、そこで、オッペンハイマーに対して、『共産主義者』のレッテル貼りが進む。

 

その結果、オッペンハイマーは、アイゼンハワー大統領から、一切の国家機密からの隔離、政府公職からの追放が決定する。

 

この辺の場面が、この映画の中心部分になっている。いわば、オッペンハイマーの受難者としての側面である。

 

『原子力の火』というプロメテウスの火を(人類のために?)『神(々)または、単数形のゴッド』の元から盗み出すことに成功したオッペンハイマーが、いわばそのことで、『神(々)または、単数形のゴッド』の怒りに触れて、空から落下して、地上にたたきつけられるかのような劇的な展開が行われたとも言えそうだ。

 

マンハッタン計画の遂行のためにいそしんでいた時は、オッペンハイマーは、ある種、『ハイな状態』になっていて、むしろ懐疑的な科学者たちを説得したり、場合によっては圧力をかけて、原爆完成に向けて全力をあげていた。

 

その後、『プロメテウスの火』の獲得が、どういうことを意味するのか、ようやく気が付いて?、良心の呵責になやむというのが、この映画のメインのストーリーになっている。

 

しかし、このような『態度の変遷』は、『偽善的だ』『ソ連のスパイなのではないか』『すべて、おいしい部分は自分の功績だとして、最大限の満足を感じ、その後、反省したふりをする、最も憎むべき態度ではないか』という批判を、各方面から浴びるに至る。

 

その『集中砲火』を受ける様子が、この映画のメインになっているので、とてもではないが、『オッペンハイマーの理想』を世に届けようとして創られた作品のようには、なかなか見えない。

(もっとも、クリストファー・ノーラン監督も、かなり一癖も二癖もありそうな人物のようだから、『俺は核兵器には反対だ』だが『賛成派にも喜ばれるような映画を作って、それで儲けて何が悪い』『映画を見て、核兵器の最終矛盾に関して、私と共鳴する人が少しでも出てくれば、それで良い』くらいの考え方なのかもしれない。)

 

私は、この映画の原作となっている伝記小説『オッペンハイマー』(ハヤカワ文庫で三冊で出版されている)のまだ、3分の1くらいしか読んでいない。

(しかも、率直にいうと、この小説は、翻訳がいい加減なところが、相当あるような気がしている。読んでいて意味が通らないところが随所にある。

 

また、科学の理論をストーリーの展開の軸にしているのだが、実際は翻訳者も監訳者も、こうした知識は、『皆無』である旨、自分たち自身で文庫の解説の中で書いている。

どちらにしても、映画ではもっぱら、人間同士の感情のもつれのようなことを基軸にして話が展開されているので、まあ、どの程度のレベルの翻訳であっても、特に不都合はないらしい。)

 

さらに、この映画は、ピューリッツァー賞を獲得したという『伝記小説』をさらに、もっと面白くなるように、再編集したものなので、この映画を見ただけでは、『量子力学の理論』も『原爆の作り方』もさっぱり、頭に入ってこないというのも、当然のことなのかもしれない。

 

いずれにしても、この映画では、ルイ・ストローズもオッペンハイマーもどちらもユダヤ人であることが、彼らの対立をより激化させている可能性があると感じる。

 

では、なぜ、ルイ・ストローズとオッペンハイマーがかくも、対立するに至ったのか、その辺をもう少し探っていきたい。

 

映画を、もう一回、見ないとわからないかもしれないし、あるいはもう一回、見たとしてもわからないような気さえもしている。ともかく、『アイマックス』の作品のほうはどんな感じなのか、それで、どれだけ儲けを増やしているか、そういったことにも関心があるので、次は、アイマックス版の方を見ようかと思っている。

 

いずれにしても、(最近は)かなり上映回数も、観客数も落ち込んできているようなので、今月中に見ないと、来月は全国で、数館でしか上映していないような映画になりそうな気がしている。

 

つづく