5月9日、映画『オッペンハイマー』の二度目の鑑賞?をした。

 

映画は映画館で見るのがベストという考え方なもので、今回も家から結構、時間のかかる(JR横浜線鴨居駅の近くにある)ショッピングモール『ららぽーと横浜』まで出かけ、そこの『TOHOシネマズ・ららぽーと』で見た。

 

前回は、4月9日に、二子玉川の『109シネマズ二子玉川』でカミさんと一緒に見た。

その時は、寝不足で(原作も一部しか読んでおらず)、どういう映画なのかという把握がほとんど出来ていないままに見てしまった。

 

そのため、映画の展開の仕方がよく飲み込めていなかった(途中で、うとうとしてしまったことが、何度かあった)というのが正直なところである。

 

 

 

このブログに、見た直後に感想などをアップしたが、(正直言って)混乱した内容しか書いていない。

(また、写真とか画像など、アップしないままの状態、つまり未完成の状態でそのまま放置してあるので、今後、少しそれをキレイにして、皆さんにも『見る気が起こる』ようなレベルにまでしていきたいと思っている。)

 

それで、この時は、映画の評価について(自身の認識と把握が)『不明確なまま』だったのだが、今回は、はっきりしたことが書ける。

 

この映画は、(ズバリ言って)『ニセモノ』である。

 

日本市場向けのプロモーションとして、(原爆製造の)『マンハッタン計画』を推し進めた(物理学者)オッペンハイマー(原爆を完成させ、その後、原水爆に対する批判派に転じた、とされている)を描き、彼の『苦悩』を描写した映画であるというような宣伝がなされている。

 

 

しかし、それは物事の『一面』にしか過ぎない。

 

この映画(監督自身は、イギリス人のクリストファー・ノーラン監督だが)がアメリカ市場などでも興行的にヒットし、さらに、(3月11日の)第95回アカデミー賞授賞式において、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞(など)7部門で賞をさらって話題をふりまいたのは、この映画が『オッペンハイマー』をいわば、『道化師』として描いており、彼をコケにしているためである。

 

 

当初、伝えられた『映画に対する評価』で『この映画は、日本での公開は無理だろう』と言われたのは、『映画が何を描いているか』『どうして、アメリカ市場においても、この映画がヒットしたのか』その点を、きちんと(というか)普通に観ていたからだろう。

(こんな『原爆投下』礼賛の映画が、『被爆国日本』で温かく迎えられると考えるほうがどうかしている。)

しかし、世の中には、『智恵者』がいるようで、この映画を『原水爆に対して疑問を呈した、悲劇の科学者オッペンハイマー』を真正面から描いた映画?という風に宣伝すれば、日本市場でも『売れそうだ』と思ったようである。

 

それで、日本では、記者たちやジャーナリスト等に対する事前の『試写会』などほとんどしないままに、この映画は3月29日から一般公開されたようである。

 

この映画において、真の主人公は、『オッペンハイマー』自身ではなく、むしろ、彼の批判者である(アメリカ原子力委員会の委員長を務めた)ルイス・ストローズである。

 

 

この役を演じた俳優、ロバート・ダウニー・Jrがアカデミー賞の助演男優賞を獲得している。しかし、内容的には、(主役のオッペンハイマーを演じた)キリアン・マーフィーよりも、むしろ評価は高いくらいだと言ってもよいだろう。

 

もう一人、この映画では、オッペンハイマーの二番目の妻(この映画では、多数の『オッペンハイマーと関連した女性』が登場しており、なかには、風貌が似ている人までいたので、ややこしかったが…)キティことキャサリン・オッペンハイマー(エミリー・ブランドが演じている)が、激しくオッペンハイマーを批判していた。

 

それは、彼が、ルイス・ストローズのような人間たちと徹底的に戦わず、妥協的にふるまったりしたことに対する批判だった。

 

ルイス・ストローズは、オッペンハイマーが、アメリカの共産党とか、ソ連のスパイなどに連なる人々を、次々と『マンハッタン計画』に引き入れた、また、『マンハッタン計画の成功』以降、それを強化拡大するのでなく、『縮小・閉鎖』しようとしたことに対して、(『利敵行為』であり、オッペンハイマー自身、共産党やソ連に通じているのではないかと)批判した。

 

だが、オッペンハイマーはたしかに、『水爆の開発』に対しては反対したが、彼は同時に、『原爆の開発者としての成功』も手放したくない(1963年に、原子力委員会から『フェルミ賞』を授与されることに対して、反対・辞退などせず、それを受け取っている)という(ある意味で)矛盾?した態度を示している。

 

この両方から見て、『あいまいな対応』について、前門の狼、後門の虎ではないが、ルイス・ストローズも、(ストローズなどとは、一時的にであったとしても、『握手など絶対にすべきではない』と考える)オッペンハイマー夫人も、どちらもオッペンハイマーを批判しているのである。

 

こうした批判に対して、『それは歴史的な限界である』とか、『オッペンハイマーの生涯全体を描いた映画ではない』『オッペンハイマーの全生涯を見て判断すべき』などという声もあるかもしれない。

(しかし、現実問題としては、彼は生涯の終わりに近い1960年=67年に62歳で死去=に、日本を訪問しているが、なぜか、広島にも長崎にも立ち寄らなかった。訪れたのは、東京と大阪だけだったらしい、

なんとも、『中途半端な対応』という気がしてならない。)

 

こうしたオッペンハイマーの生き方に対しては、『それはオッペンハイマーがそれだけ苦悩していたからだ』という解釈もできよう。

また、ある人物の行動に対して、『時代状況』とか『その時の歴史の時点』を無視して、好き勝手なことをいうことは許されないのかもしれない。

 

しかし、この映画自身は、その歴史を一部だけ、切り取っている。

そして、ある場面では、オッペンハイマーの主観をもっぱら描き、また他の場面では、(オッペンハイマーの知ることができなかったはずの)ストローズなどの対応を、『神の目?』からの視点で描いている。

 

つまり、(これは映画の一つの特徴だろうが)視点を好き勝手に変えて、観客に対してある種の『感情を抱かせる?』ことに成功している。

その感情の中身こそが問題だろう。