(この記事は、昨日=3月1日=書きかけたのですが、途中でアップするのを断念していたものです。今となっては、『状況遅れ』の感を免れません。

しかしながら、この段階で指摘しておきたいこともあるもので、最小限の補正を加えたものを改めてアップします。)

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2月29日にアップしたこの記事の続きである。

 

 

 

 

29日と1日、二日連続して開催された衆議院の『政治倫理審査会』なるものの中継を見ていた。

ただし、本日(1日)は、いよいよ西村氏と松野氏が出席し、彼らなりの陳述を行ったところで、今朝の新聞記事での『予告』にもあったように、並行して開会されている衆議院予算委員会で、小野寺五典委員長が、職権で予算案の採決を実施した。

 

これで、委員長の不信任決議案等の緊急動議が、衆議院本会議に提出されたため、『審査会』の(ある意味で)のんびりした『おしゃべり』は吹っ飛んでしまった。

 

 

 

ただ、ここで少し付言しておきたい。

 

いろいろ、理屈を言ってみても、『日本が米軍の占領下において』、GHQの(ある勢力たちの)強い影響下において、『日本国憲法』が制定されたものであることは、間違いがない。そのため、現在の『国際状況』あるいは、『軍事的空白のもとで、隣国の善意にゆだねて、国際平和を構想することなどは、基本的に幻想でしかない』といった現実を考慮すると、『非武装平和』を基本とする現在の憲法は、『現実との間に』大きな乖離を有してしまっている。

 

一定の世代が、自分たちの『時代の夢の記念のため?』にこうした憲法を維持したいという心情を持つというのは、『理解できなくもない』。

 

しかし、『憲法第9条』に限らず、『憲法の書きっぷり』と『現実社会の状況』が大きく遊離してしまっている問題は、いくらでもある。

このような状況を放置しておいて、法律の解釈等で、すきまを埋めていこうとするような『小細工を重ねていく状況』は、全くもって『好ましくない』と思う。

 

ここでまた、『奇妙な話』を突然、書いてしまっているが、このようなことをしたのは、私が(いわゆる)憲法審査会で何が行われているか、これまでほとんど気にしていなかったことを、『言い訳』するための『前書き』のようなものである。

 

私はこれまで『憲法審査会』というものが、特に衆議院において開催されているらしいということを聞いていたが、あえて、そこでの論議に関心を持とうとは、してこなかった。

 

しかし、今回開催されている『政治倫理審査会』というものと、『憲法審査会』というものとが、共に『審査会』という名称がつけられていることから、同様のもの(共通点のあるもの)であると仮定すると、『憲法審査会』で『憲法改正』へ向けた議論が高まっていくに違いないと期待する人々が、『もやもや』と『いらいら』をしょっちゅう募らせている?のも無理はないという気がした。

 

なぜなら、どうやら『審査会』という仕組みは、これに出席する人々が、『善良で紳士的な人々である』ことを前提にして、延々と議論を続けることを、期待する仕組みであるらしいと感じたからである。

今回の政治倫理審査会の論議を見ていて、委員長が、『声を荒げてはいけない』『ヤジを飛ばしてはいけない』、などときれいごとを並べるのを聞いていると、『この仕組みは一体、何なんだ』という気がしてしまう。

 

しかし、さすがに、一日半が経過した時点で見ても、『岸田首相が、今回の政倫審開会で期待したかもしれないこと』は無残にもくだかれ散ってしまっている。

 

これまで、岸田首相(呼んでもいないのに出てきた、いわば『及びでない』という状況で登場したご仁?である)、武田良太元総務大臣(二階派の事務総長という立場で出てきたようだ)(以上、1日目)、西村康稔前経済産業相、松野博一前官房長官、塩谷立元文科相、高木毅前自民党・国対委員長(以上、2日目)の合計6人が、この『舞台の上』にやってきた。

 

だが、彼らの証言は、あまりにも『浮世離れ』した話、あるいは明らかな『嘘を必死に防衛しようとする、同じセリフの繰り返しだらけ』の話ばかりである。

 

私は、前回の記事を書いた時点では、岸田文雄はそれなり(いい意味でも悪い意味でも)の『リーダーシップ』を果たして、今回の審査会への出席とそれのフルオープン化を推進したのかとも思ったが、どうやらそれは『買いかぶり』であったらしい。

 

岸田首相は、もともと『ギャンブル的な行動』が好きな人物のように見えるところもあったが、実際、『思い付き』と『何とかなるのではないか』という気分で、今回の政治倫理審査会に臨んだようだった。ところが、『何ともならなかった』というのが現実だ。

 

今回、特に悲惨(で『嘘つき間違いなし』)な印象を与えたのが、(2日目の)『舞台』に登場した西村康稔前経済産業相である。

 

この人は、時には剽軽(ひょうきん)な印象を(テレビ中継のなかで)与えることもあったが、以前から『政治部記者』の評価を聞く(『週刊誌』などにさんざん書かれている)と、根暗で他人(特に部下たち)のミスを容赦しない、『非常に細かく、他人のミス、失敗を容赦しない』などと書かれていたと記憶する。ご自分は『記憶力』が抜群によくて、『大変、頭が良い』と自己自身を評価しているような方である。

 

ところが、今回の『政倫審』における『役割』を演じ切るためには、この『頭が切れる』という『評価』がその『演技の手足をしばってしまう』という結果に結びついた。

 

彼は、上記のような『弁明』をし、その後、各党の代表者との質疑にのぞんだ。

立憲民主党は、(ここで党の浮沈の運命がかかっていると判断したのか、結局、前代表の)枝野幸男氏が登場し、(いかにも彼らしい)『細かく、ネチネチした質問』を繰り出した。

(もっとも、この男も、『自分は利口だぞ』というオーラを発しまくるので、相手を『油断させることが出来ない』という致命的?かもしれない欠点を有している。)

 

 

こうした質疑で明らかになったのは、普段は、何でも細かい資料を自分で直接確認しないではおられない(そして、そうした資料をすさまじいスピードで『解読』してしまう)と言われる西村氏が、<ほとんど政府内で仕事をしていたので派閥の運営には関わっていなかった。今の時点まで派閥の帳簿、通帳、収支報告書などを見たことがない>などと言い張る『異常さ』である。

 

しかもそれだけなら、シラを切ることもあるいは可能だったかもしれないが、22年4月には、安倍晋三元首相から西村氏らが呼ばれて、『現金還流はまずいのではないか』と『見直し、取りやめ』の意向が表明されたという。

さらに、一旦はそれに従うという話もあったのだが、安倍氏の側の躊躇、そして2022年7月の安倍氏の『銃弾による突然の死』もあって、この話はうやむやになってしまったようである。

 

こうした重要な場に、西村氏は立場上、同席して重要な発言を行っていたのは、ほぼ間違いがないにかかわらず、自分の役割についてはほとんど伏せたままである。

 

その証拠に何を聞かれても、全く同じことしか言わない。

それは、少しでも違った表現をすれば、そこから『ほころび』が生じてしまうことを百も承知しているからだろう。

日ごろ、『切れる』『頭が良い』などと周囲からも言われて、自分自身でもそう思っているらしいから、その『ギャップ』に自ら苦しんでいることが、ありありとわかる。

 

まあ、この西村氏の『舞台の上での演技ぶり』が一つの例であるが、日ごろ、自民党内のボスであると見られている彼らは、全く不自然な『弁明』と『発言』に終始していた。

 

結局、今回は、岸田首相の『大博打』は見るも『哀れ』なくらいに、失敗してしまっている。

自民党は、『どんな悪さ、法律違反』をしても、『野党が弱すぎる』から『政権を失うことはありえない』と信じ込んでいるようであるが、今の選挙制度のもとでは、『国民の間での風向き』が変われば、一挙に自民党が選挙において、ボロ負けをしてしまい、(たとえ、一時期であれ)『政権を手放さざるを得ない事態』が起こりうる可能性は、いくらでもあると言えよう。

 

その怖さというものを、彼ら『政治家という名の、失業者予備軍』は嫌というほど思い知らされることになるだろう。

その前に、『将来、首相になる可能性が抹殺されてしまう』という『重大危機』をひとりひとりがどのように回避するのか、そのことばかりが彼らの頭を、現在、ハッキングしてしまっている状態なのではないか。