この記事の続きである。

 

 

 

 

 

これまで、二度ばかり、この『不適切にもほどがある』という愉快な?ドラマを見ていた。

だが、正直言って、一番、驚きを感じたのは初回か、第二回くらいまでだった。

 

今では、『不適切だから映し出してはならない?』みたいにタブーとされている『用語』とか『実際に行われていたこと』、『考え方』などが、令和のテレビ番組のなかで出てきた、そのインパクトの大きさ、ギャップの面白さを感じた時くらいだっただろう。

 

しかし、正直言って、そのインパクトは段々、薄れてくる。

というよりも、人間、徐々に慣れて行ってしまう。

 

考えてみると、私など、(東京・京橋の)『国立映画アーカイブ』で1950年代~70年代くらいまでの日本映画が(さまざまな特集形式で)再上映されるのを、特にこの4~5年、嫌となるほど見てきた。

 

そこでは、例えば『きちがい』などという言葉は、嫌となるほど出てくる。

しかし、そこでの使用のされ方を見ていると、いわゆる『精神病』(これも死語か)とか『分裂病』『統合失調症』等の患者などに対して、そのような非難の言葉が投げつけられるのでなく、たとえ、正気であっても(許すことのできないような)異常な状況、異常な対応の仕方に対する、拒否の気持ちを込めて、使用されることが多いのに気が付く。

(もちろん、もっと『軽い気持ち』で発せられる場合もあるが…。)

 

そうすると、それは必ずしも、『病気や患者』に対する差別発言というより、もっと広い意味で使用されていたことがわかる。

(このような、時代によって、人々の発する言葉、受け止める感情が異なっていることは、なかなか複雑なものがあり、一概に、どのような態度が正しいと言えるものではないという気がしている。)

 

もっとも、『国立映画アーカイブ』で見ている観客たちは、ただ『今は、言えないようなタブーとされている言葉が飛びかうのを見るのが、懐かしい』という感情で、見ている人たちもいるみたいだけど…。

 

この辺の意識のズレ、時代感覚のズレというのは、単に『タイムトラべル』すれば(実際は、出来ないが…)わかるというようなものではない。

 

それで、クドカンの『不適切にもほどがある』はそれなりに視聴率をかせいでいるようで(最近では、ネットでいろいろ取り上げられるせいか、『どういう番組か見てみよう』というノリで、見にやってくる人たちも存在しているようである)、前回より視聴率が上がってきたというようなことが報道されていた。

 

普通は、多少、こういった流入視聴者がいたとしても、なかなか視聴率も数字にまで反映しないものだが、『岸田内閣の支持率』と同様に、あまりにも、『実際に、見に来る人』(岸田内閣の場合は、『さっさと辞めてしまえ』と感じる人と同じか?)が多いせいか、反映してしまっているようである。

 

それで、私は、(もともと、『天邪鬼』的性格が強いためか)逆にこの番組は、宮藤官九郎とか、この番組の主要スタッフの人たちの『世代』のモノの見方、感じ方に左右されているという気がしている。

 

例えば、先日の番組でも、『山城新伍』の結婚、離婚の繰り返しのネタとか、あるいは『三原順子』が不良役の女優から『恥を知れ』と説教役を務める(その割には、ご本人の『わきが甘い?』のもご愛敬ではある)国会議員の先生に転進したことが、(昭和から令和に)タイムトラベルしてしまった主人公『小川市郎』(小沢一郎にも、鈴木一朗にも似ているのが、ミソであろう)に伝えられる場面が出てくる。

 

するとそれに対して、『小川市郎』こと『阿部サダヲ』は、『えっ、そうなの』と反応するのだが、(現実世界では、ご本人の『三原じゅん子参議院議員』が『x(旧ツイッター)』で直後の時間に、『ん?…私が出てきた!笑』と反応を示したという。

(まあ、政治の世界では、『三原じゅん子なんか、知らない』という選挙民ばかりで、無反応になってしまうのが、一番怖いことだろうから、こういう形で『昔の人気』が掘りおこされるのは、『有難い』ことなのであろう。)

 

これでわかることは、このドラマは、『宮藤官九郎』その他、このドラマの主要スタッフの観点(時代感覚)で作られているのだろうということである。

 

つまり、彼らなりに、『昭和』と『令和』をつなごうとしているのかもしれないが、現在50代の人たち(せいぜい、それプラス40代か)の感覚がメインなのであろうということだ。

 

映画もテレビドラマも、そういう面では同じことなのだろうけど、仮に映し出されるものが『事実』であり、『ファクト』であったとしても、必ずその解釈という情報を添えたものとして、それは編集され、意味づけられる。

 

だから、『あらゆる世代に刺さる』映像などというものはありえないし、仮にあったとしたら、それは別の意味で、対象者を切り取って解釈の情報を添付されたものになっていることだろう。

 

世の中には、『映像万能論』みたいなものがあるようだが、『世の中はますますフェイク動画が作りやすくなっている』のであり、『ドキュメンタリー映像』ほど、『手あかのついた、映像というものはない』と言えるのではないかと思うほど、すべてが『解釈』とともに発信されているのだろう。

 

だから、『山城新伍云々』『三原じゅん子云々』にしても、『わかる人にはわかる(わからない人には、何のことを言っているのか、さっぱりわからない)』ような話に過ぎないのだろう。

(三原じゅん子さんも、これで取り上げられたから、『票が増える』などというのは、あまり考えないほうが良いだろう。それよりも、『この人は神奈川の議員なの、それとも東京の議員なの』という戸惑いは、今でも選挙民の間に多いようだ。

それに、いつも『時代とちょっとずれている』ところがあるので、以前は自民党内で、『石破茂』さんに近い位置にいたこともあったのに、一体、今はどこにいるのだろう。神奈川の自民党国会議員さんなどが集まるところで、『人寄せパンダ』役を一生懸命やっている人というイメージしかない。)

 

話は、例によって脱線気味だが、この『ふてせつ』でいう『コンプライアンス至上主義』のおかしさというのは、『文春砲』とか『週刊新潮』などの『スキャンダル砲』に対して、『コンプラ』『コンプラ』などを『馬鹿の一つ覚え』のように連呼して、(一部の人たちが)一斉お辞儀(1から20くらいまでは数えているみたいだ)して『お仕舞い』という、『形式主義(様式主義)の極み』のような『一連の行事・イベントのおかしさ』をそれこそ、痛感しているであろう、テレビ界の業界人たちが、一番感じているであろうことに過ぎない?ようにも見えてしまう。

 

いずれにしても、いくら『クドカン』といっても、それがとらえうる『視野』『境界』というものには、限界があることを痛感させられるようなドラマになってしまいつつあるようだ。

 

これが、もうひと暴れして、『予定調和』をぶち壊せば、もっと面白くなるのだが…。