この記事の続きだ。

 

 

 

前回は、少し大上段にふりかぶって書きすぎてしまったのかもしれない。

『クドカン』こと宮藤官九郎のドラマというのは、正直言って、『当たり外れ』のふり幅が大きい。

 

特に、例えば『あまちゃん』などは、私は、12年だかたった今でも、面白いと思っているのだが、まるで『学芸会の演劇のようで、平成の時代のドラマが、いかにレベルが低かったかの証明』などと(コメント欄などで)大まじめに書いているような人もいる。

 

私は、それは、能年玲奈さんなど(今でも、『うまい』とは決して言えないが)の特異なキャラクターを使って、さまざまなドラマを、『東日本大震災と北限の海女さんのストーリー』にぶち込んだが故で、これは祖母と、母と娘の三代のそれぞれの青春が錯綜した、『味わい深いドラマ』に仕上がっていると感じていた。

 

だが、正直なことをいうと、昨年、NHKで『あまちゃん』が再放送されていたのをずっと見ていたのだが、どういうわけか、(何か他に、もっと忙しい別のことが生じたのか、はっきり記憶していないのだが)最後の1カ月くらいの部分は、録画だけはしてあるが、まだ見直していない。

 

その理由は、忘れたが、なぜか『後で見るのでもいいや』と思い出した節がある。

 

さらに、彼が手掛けた大河ドラマでは『いだてん~東京オリムピック噺』(2019年放送)というのもあったが、これなど、(私は、妙に2020東京オリンピックが、コロナ禍等で翻弄されていくのと、『連動』しているようなところもあって)面白いと思ったのだが、現実には、全話平均視聴率は、大河ドラマ史上、最低にして初の一桁の視聴率8.2%にとどまっているそうだ。

 

これなども、ネットなどでの評価は結構、高いらしいのだが、要は、『65歳以上の視聴者の視聴率』が低いらしい。

何とも不思議な現象である。

 

その原因の一つは、宮藤官九郎自身は、現在、53歳のはずだが、彼は『時代感覚』が『生理的年齢』とはかなりずれている(つまり、若い)というせいもあるのではなかろうか?と思っている。

 

もっとも、『不老不死』とか、『いつまでたっても老いることはない』ということでは全くないのだが、ともかく、1980年代とか90年代に、10代あるいは20代であった人たちのメンタリティー、時代感覚を一つの自身の『物事の捉え方』の尺度にしているようだ。

 

この時代の『青春感覚』を失わずに、『タイムトラベル』ではないが、いろんな時代にお邪魔して、その時代の青春とクロスさせながら、ドラマを作っている感がある。

 

そのため、(『いだてん』の場合でも)当時の現実の『60歳以上の視聴者』の感覚とは、相当、ズレが生じているのはやむを得なさそうな気がしている。

 

しかし、一つ言えることは、彼は(意識的に)『政治的』『党派的』ではないようにしているようだ。だから、むしろ、時に『リベラル』とか『反戦平和』をうたいながら、時には、自分たちが築いた(小ブル的な)『資産』にしがみついて、(世代というか個人の)利害を絶対に放棄しようとしない(ある種の)『60歳、70歳以上の高齢者』の価値観に対して、強烈な皮肉を浴びせる役回りを演じてしまうということになるのかもしれない。

 

そういう時に、『クドカンのドラマは孤立無援』の絶望的な視聴率の状況(ネットでの評判も含めて)に追い込まれるようだ。

 

今回の『不適切にもほどがある』が、どういう結果になるかは、まだわからない。

 

しかし、これまで(今夜放送の第5回分はまだ見ていない)の放送分だけでいうと、『令和の時代のコンプライアンス病?』に対して、『昭和の世代の真意?(そんなに差別する気なんてありません)』をぶつけてみて、『今の時代の特に、テレビ局などの対応の仕方は、矛盾しており、おかしいのではないか』という問題提起は、それなりに意義があると思う。

 

だが、それは裏返せば、(このドラマを製作、放送している)TBS内部の人たちこそが、感じている『矛盾、無力感、欺瞞性』であるのかもしれない。

この問題を、もっと広い視野、視点で考えて行けば、単に、『不適切用語』とかそれに対する扱いなどで、すますことの出来ない『問題の末広がり』が見えてくるのは間違いがないだろう。

 

そもそも、クドカンドラマにおいて、誰がこういったドラマの中心部分のアイデアを持ち込んでくるのかよくわからないが、そこには、(TBSがこれまで、テレビ朝日などと並んで)いわば、『毎日新聞』や『朝日新聞』などと親和性の高いようなテレビ局と見られてきたが故の『歪み』もあるのかもしれないという気もしている。

 

ともかく、このドラマが『何をいいたいのか』『どこに落ち着くことになるのか』をもう少し見届けてみたい。

(つづく)