この記事の続きだ。

 

 

 

前回は、ついつい萩原朔太郎の話など、柄にもないことを書いてしまった。

さて、前回も書いたが、私の関心はどちらかというと、京都市長選のほうにあった。

 

その結果は、最終的には、自公+立憲民主その他という、ほぼほぼ『オール与党体制』を築きながら、(政党としては)共産党単独支持に近い『福山和人候補』に、1万?千票差まで迫られた『松井孝治候補』(鳩山内閣の時の副官房長官、元通産官僚)がようやく当選、という結果になった。

 

ここで気になる(私だけかもしれないが)のが、『京都といえば、共産党』、『共産党といえば、シン・共産党宣言の党首公選論』ということで、このところ、『新聞、雑誌などの言論界』の応援を得ながら、『党首公選論を盛んにぶっている、松竹伸幸さん』らのグループが、今回の京都市長選に対して、どのように動いたのか?といったことである。

 

 

ただし、このことに関しては、今のところ、中心的に論じたような文章、記事を見かけていないので、マア、はっきりとはわからないというのが、率直なところである。

それで、かなり主観的かと思うが、私自身が感じていることを書いてみよう。


私は、『シン・共産党』グループは、さほど京都市長選に影響を与えていないのではなかろうか?という気がしている。
それは、何故かというと、『シン・共産党』グループの主張は、極めて『内向き』に見える。

彼らは、『党首公選論』を主張し、それを実現することが、さも『日本共産党』を民主化し、改革することにつながっているかのように主張している。


しかし、そもそも、『共産党』のなかで、『党首公選』を望んでいる人たちが、どのくらいいるのだろうか?

松竹さんらは、盛んに『党首公選』を主張し、それが『党員たちの声』であるかのように宣伝している。
また、松竹さんらのグループは、京都の共産党組織が自らの拠点であるかのように、主張している。

仮にそうであれば、今回の京都市長選のなかで、『松竹さんらのグループ』に同調する京都の共産党員たちの動きが、表面化しても良さそうなものではなかろうか?


だが、今回の京都市長選のなかで、そういう声は果たして表に出てきたのであろうか?

むしろ、現在の共産党の主流派というか指導部に同調する人たちは、京都市長選で福山氏を応援していたようである。
そして、福山氏が共産党をのぞく、ほとんどの政治勢力に担がれた松井孝治候補に対して勝利することはできなかったが、『善戦した』ことについて、彼らは満足?しているように見えてしまう。

結局、松竹さんら(特に、元京都組織の中心的存在であったと自負しているらしい鈴木元さん)というのは、共産党内のある一定の層の主張を代弁しているのに過ぎないという気がしてしまう。

つまり、『党首公選論』をとなえて、『志位氏らは執行部から退陣せよ』という要求をぶつければ、当然、彼らは共産党の大衆レベルで、相当の影響力をもっていると勘違い?してしまうが、あまり影響力はないのではなかろうかという印象を受けた。

逆にいうと、仮に松竹さんが、共産党の党員たちの(もっと)広範な支持を得たいのであれば、彼らが現にいま、政治状況と戦っているそうしたなかで、何となく、足を引っ張っているという印象をあたえかねないような、動き方をするのでなく、もっと別の『戦い方』をすべきではなかったのか。

やはり、『党首公選論』とか、『長期政権の執行部は退陣せよ』などといった、マスコミ受けしそうなことばかり書いて、そうしたマスコミ、いわゆる言論界の力を借りて、日本共産党に対して、『外から攻める』というのは、かえって『内部を固めさせてしまう』そのような効果しかもたらさなかったのではないか?


今後、松竹さんらが、何を主張して、どのような『戦い方』をしていくのかというのは、興味をひかれないことではない。

しかし、『文藝春秋』からさらに、悪質な出版物を発行している界隈に、ご自分の活動の重点を移していくとすれば、それはますます、残念な結果を産むのではなかろうか。

(この界隈の言論のレベルは、さらに滅茶苦茶な状態になりつつあると、最近さらに痛感させられている。)

松竹さんが、活動を展開していくとすれば、むしろ、世界的に起きている状況の変動を意識しながら、かつて共産党の内外にいた人たちが、世の中の変化をどのように見つめ、何を目指して、残りの人生を戦っていくのか、その指針となりうるような言論を展開することだという気がしている。

『日本共産党に関する評論家』というマーケットは、正直言って、そんなに市場規模が大きいものではないし、むしろ、ますます縮小しつつあるかもしれない。

そうでなく、『この世の中の状況をどうとらえ、どのような運動と理論を目指すべきか』といった話であれば、松竹さんらが、世の中に対して積極的な貢献をすることが出来る可能性があるかもしれない。


『日本共産党ウオッチャー』そして、『日本共産党を批判する元党員』といった領域から、一歩も二歩も踏み出さないと、『決して生産的ではない』という気がする。

また、松竹氏は、京都市政がどうあるべきかといったことに関しても、特に提言というか政策的なこともあまりなさそうな印象を受けている。
そうであるとすれば、京都市長選に対して割り込んで?、福山氏の得票に影響を与えよう?などと考えることも、かなりずれている、と思ってしまう。