この記事の続きだ。

 

 

 

 

この問題について、私は、作品(原作の漫画にせよ、ドラマ化されたものにせよ)の内容にこれ以上、立ち入って、『原作者=芦原妃奈子さんの自殺の責任?』を追及する気はあまりない。

 

もともと、私自身に漫画の内容、あるいはドラマの内容について評価する基準が備わっていないと思っているからだ(もちろん、好き嫌いくらいは言えるが)。

 

しかし、いつも感じるのだが、何か事件が起こって、それが『週刊誌』や『テレビ』で取り上げられて、ある種、スキャンダラスな扱いを受ける。

 

そして、特に『野党議員』などがこうした事件が大きく取り上げられた、『週刊誌』を片手にかざしながら、『どうなっているのだ?』などと騒ぎ立てる。

そして『政府の責任』を追及する。

 

だが、大抵、それだけで終わってしまうことが多いようだ。

それは追及する議員の側に『政策という受け皿』あるいは『NPO組織などによる問題解決のステップとしての組織・運動の方針』といったものがないということが、大きいように思う。

 

今回の問題で言えば、私は、『原作の漫画家の権利が侵害されている』と思う。原作の漫画家には、こういうストーリーとか、アイデア、キャラクターを自分自身が無から生み出したことに伴う権利があるはずだ。

(仮に、作品のアイデアやストーリーは別の人が考え出したとかいうのであれば、話はもう少しややこしくなってしまうが…。)

 

そして、このような権利を持った人であれば、その権利をタテにして、自分の作品を原則として勝手に利用させるわけにはいかないと、『ドラマ化』ということで『二次利用』しようとすることに対して、『拒否権』あるいは『不当な契約を締結しない』と主張することができるはずである。

 

ところが日本では、『正式な契約書をかわす』といった行為そのものに対して、敬遠するというか、(慣習に従おうよ、悪いようにはしないから)などと無言の圧力が伴うものらしい。

 

そのため、なかなか『契約に同意しようとしない』者などが現れると、『皆に迷惑をかける』『協調性がない』などといって同調圧力をかけてしまうことが多い。

 

 

本来は、こうした問題について信頼のおける『プロフェッショナルの交渉人』(弁理士とか弁護士とか)を育てていき、『原作者の権利』について皆が認識を高めていくようにすれば、よいだけの話だと思うのだが…。

 

ところが、専門の『弁護士』や『弁理士』などの専門家(資格だけでなく、経験が豊富な人)は少ないし、また、原作者である漫画家に対して、漫画家の団体が『このようなガイドラインで考えている』とか、『こうした交渉の可能性がある』などとアドバイスを行うことも少ないようだ。

 

挙句の果ては、いろんな外野の声が飛んできて、『協調性のない人間だ』とか『皆、我慢しているんだ』とか、『もうこんなに会社側は金を使ってしまっているのだ』などと圧力、脅しをかけて、最終的には、原作者を『死に追いやってしまう』、これは本来、『文明国』で行うべきことではない。

 

日本が、『法律なんて、くそくらえの国』だと自称しているのであれば、それはそれで筋が通るところもあるのかもしれない。しかし、日本は『法治国家だ』と(中国などに対しても)繰り返しているだけでない。

 

さらに、『漫画大国・アニメ大国だ』などと自称し、『手塚治虫先生を生み出したのも日本だぞ!』などと言いながら、いつまでもこうした法整備にうとく、ソフトによる保護のネットワークも生み出すことができないままであるのであれば、そのような自称は、一切、辞めてしまえば良い。

(どこか、原爆の話について私が書いたことと似たようなことになってしまっている。)

 

国会議員などでも、こうした問題を取り上げる人もいるようだが、そうであれば、ぜひ、『超党派』で良いから、『問題を解決していくための、法制度、そして組織的バックアップ、ガイドライン、被害に遭っている人をサポートする体制』を一日も早く作り上げるための仕組みを考えてほしい。

 

何やら、政府を追及するための材料として利用するだけというのなら、それでは(国会議員などは)法律などを生み出して、具体的解決を図っていくのが仕事だという、その根幹の部分で、自分がやるべき『任務』を怠っていることになるだろう。

『騒ぎ屋』でしかないと、自覚して、国会議員の座は他の人に譲ったほうが良いだろう。

 

今回の事件で、いろんな人たちが声を挙げているようだが、しかし、『○〇協会』などという名称を付けていても、そうした活動の実績はないものも多いようである。

 

ならば、そうしたものを作っていけば良いのであって、いつまでもそうしたものを作ろうとせず、ただ、目先の『自分たちの仕事』が順調に進むように、『弱い立場の者』に対して、圧力をかけることだけが得意?というのであれば、そうした人々は、徐々に現場からいなくなってもらうしかないだろう。

 

今回、この『セクシー田中さん』という具体的な作品にも切り込んでみたい(漫画の方もドラマの方にも)とも思ったが、何せ、私自身『能力』も『費やせる時間』もあまりないので、こんなブログを書いていたりするので、いろんな物事に興味、関心だけはわいてきてしまう。

 

特に、2月~3月などは、『(アメリカの)アカデミー賞』と『日本アカデミー賞』両方の授賞式などがあって、特に今年は、(原水爆の開発と科学者の責任をテーマの一つとしているはずの)映画『オッペンハイマー』なども作品賞など多数の部門でノミネートされていて、私の関心も(昨年、長崎に出掛けたこともあって)さらに拡散気味である。

(特に、年齢が高くなると、残された時間の少なさを感じて、余計焦りを覚えるものらしい。)

 

だから、今回、『セクシー田中さん』という話題作と、原作者芦原妃奈子さんの痛ましい『自殺』という結果をもたらした、この問題について、これ以上、突っ込んだことを書く余裕はあまりない。

 

ともかく、日本のテレビ局とか、出版社、映画会社なども、『ただ儲かれば良い』とか、『後はどうなろうと、知ったこっちゃない』という態度でいれば、何とか事態を乗り切れるというような『時代は終わりつつある』と思う。

 

今後、さらなる『仕組みづくり』と、『知的財産権』が産業を生み出し、文化を保護していくという体制を、日本自身が考えていくという『国・社会としての構え』に転換していかなければ、それこそ、『日本の漫画やアニメ』に対する信頼も、いつか侮蔑へと転換しかねない分岐点にあるのでは、という気さえしている。