ちょっと、いつも話題のネタを追いかけているばかりではないか?

と叱られそうなのだけど(まあ、本質的にいうと『その通り』であるが…)。

 

~この記事、思わぬ長文になってしまったので、ご注意願いたい~

 

昨日(1日)、武蔵小杉に出掛けたおりに、『セクシー田中さん』という漫画(全7巻で打ち切りのはず)の1巻、2巻そして6巻を、武蔵小杉の東急スクエアに入っている『有隣堂書店』で買ってきた。

 

というのは、この漫画、これまで7巻まで刊行されているのであるが、最寄りの有隣堂書店たまプラーザ店には在庫がなく、『有隣堂書店』の在庫検索システム(外部からでも簡単に利用できる)で調べると、武蔵小杉の店舗のほうに置いてあることがわかったからだ。

(武蔵小杉には大して用事があるわけではなかったが、この漫画を買うのと、それから近くの中原図書館で本を借りることを目的として、昨日、武蔵小杉まで出掛けたのだった。

ここには、『川崎市民アカデミー』というNPOが駅の近くにあり、この何か月間は、週のうち、二、三回はそこの講義とかWS(ワークショップ)に出るために出掛けていたので、比較的なじみのある場所だった。)

 

そして、同時に、(以前から時々、入会したり、『退会』というか『利用休止』をしていた『Hulu』というテレビのドラマなどを見ることのできるサービスに、再度、『サービス継続』の手続きをした。

(これは、毎月、1000円ちょっとで、動画が見放題である。もっとも別料金で一本、いくらというのもあるのかもしれない。)

 

昨年10月22日からスタートし、既に12月の放送回で終了した『セクシー田中さん』という連続ドラマ(日本テレビで毎日曜、10時半から放送)があるのだが、それの原作者の漫画家の芦原妃名子(あしはら・ひなこ)さん(50歳)が、12月28日に行方不明になり、29日には、『自殺』と見られる遺体が発見されて、大騒ぎになっていることにショックを覚えたからだ。

 

もっとも、極めて、冷酷?な表現をすれば、世の中には毎年自殺をする人がたくさんいるが、それらの人たちの死に対して、すべて私が反応しているわけではない。

 

ところが、これは(本日=2日の)『東京新聞』夕刊記事にも書かれているように、漫画本を原作としたドラマを製作する際に、しょっちゅう、生じている問題ともからんでいるようだった。

 

 

私の知り合いの一人に、長く出版社に勤務していた人物がいる。そこは、社員数がさほどいないけど、割合、手堅い経営をしていて、最盛時はかなり利益を出していたのを、社員の給料、手当はそれなりのものをみんなでもらって、『比較的いい思い』をすることのできた出版社の一つであるようだった。

 

ところで、私の知り合いとは(ときどき、『飲み会』をやるもので、そこでの議論の模様を多少、誇張してここで書いてしまうこともある。苦情が出たら、書くのをやめようかと思っているのだが、今のところ、『書くな』という圧力は来ていない)たまに顔を合わせることがある。

 

彼は、昔から映画が好きで、(日本映画はあまり見ないようだが)欧米の映画とか韓国映画とかいろいろ見ている。

今では、もっぱらWOWOWが配信するものを録画して、それを自分の好みのプログラムに再編集して、ホームビデオといった感じで見ているらしい。

 

 

ある時、日本の最近のテレビドラマで、『漫画』を原作とするものが、『あきれる』ほど多いということについて話していたら、彼は、『そもそも、漫画を原作として、実写ドラマを作るというのが、流行るということ自体、おかしいことだ』と言い出した。

 

彼によると、『漫画』も『映画』も、どちらも(小説と異なり)『絵』とか『映像』の要素からなる、(音楽等を含めた)ある種の総合芸術である。

 

小説を映画化するというのならわかるが、『漫画』を『映画化』するというのは極めて不自然だ、どこかで問題が生じるはずだ、というようなことを前から言っていた。

 

私は、『漫画はいろんなテーマで、素材、ストーリーを作り上げ、しかも通常、漫画の連載の方が先だから、どの程度の読者需要などがあるかも把握できる。だから、今の<製作委員会方式>が主流となりつつある、日本映画界としては、<ネタ探し>の対象としては、格好の取材対象?なのだろう』みたいなことを言って、何となく、日本映画あるいは日本のテレビドラマの現状を(暗黙の裡に)肯定し、擁護するかのような発言をしてしまった。

 

しかし、今から考えると、彼は、『著作権を考えると、そこにはかなり多くの問題を含んでいること』を言いたかったのかもしれない。

(そのうち、また、会うかもしれないので、真意は確認はできるだろうけど…。)

 

今回の事件?について、原作者が亡くなる前に、ネットで吐露していた悩み(今はすべて削除されてしまったらしいが、しかし『魚拓』とも言われるが、その記録を手元に残している人が多いので、その主張というか、何に不満を抱いていたのかは、かなり明確に判明しているようである。

 

 

さて、私は、このように『セクシー田中さん』の漫画本を入手し、また配信されている『ドラマ』の方も、全10話のうち、とりあえず最初の2回分くらいは見始めた。

 

しかし、いきなり、2話分くらい見ただけでも、『原作漫画』と『ドラマ』の作品の質は全く異なっていることに、容易に気が付くことはできた。

 

原作本のほうは、昼は、かたくなに人との接触を拒否する(税理士資格を有する)経理部のスーパー事務員の仕事に没頭しながら、夜になると、『ベリーダンス』を踊る人に変身する魅力にとりつからてしまった、『経理部の田中さん、40歳』と、そんな彼女を追い掛ける(ストーカーみたいに)ことに生きがいを見出してしまった、同僚の倉橋朱里(あかり)、23歳(これまでは、『かわいこちゃん』の役を人生のなかで演じ続けて、摩擦を避けてきた女性)を二人がまるで、鏡の両面であるかのような繊細なタッチの描き方で綴っていく。

 

ところが、ドラマのほうでは、むしろ、この二人が『独立し合って、対立しあう』ような全然別個の存在として描かれている。

これを見ただけで、これらは全く別の世界観に基づく、作品だということがすぐわかってしまう。

 

なお、ドラマでは、田中さんを演じているのは、木南晴香(きなみ・はるか)さん、私としては、2023年の(1月~3月放送の)冬ドラ・『ブラッシュアップライフ』でほとんど初めて、存在をはっきりと意識するようになった女優さんである。

 

それに対して、ドラマで倉橋朱里(あかり)を演じているのは、生見愛瑠(ぬくみ・みる)という女優さん。

正直、こんな人、いたっけという感じで、あまり特徴がないという印象。

(多少、失礼な感想になってしまうが、それが正直なところだ。)

 

たしかに、『ドラマ』の方で採用された人物の振り分け方(いい人、チャライみたいな)人をしたほうが、俳優たちが演じやすいであろうし、ストーリーを視聴者が把握しやすいであろうことは了解が出来る。

 

しかし、これでは、原作本の繊細な世界は全く失われてしまうであろうことも了解できる。

どうしてこんなことになったのか、また、それぞれの作品はどこが似ていて、どこがどのように違うのだろうか?

(一体、脚本家や、演出家たちは、原作に対してどのような改変を加えたのだろうかと、漫画を少し読み、ドラマを少し見た後に、しばし考えこんでいたら、それだけで昨日は終わってしまった。)

 

今回の問題は、一つは、連載漫画がまだその終末を迎えていない時点で、製作会社である『日本テレビ』が、(漫画の発行元の)小学館の編集部経由で、作者の芦原妃奈子さんに対して、『ドラマ化』の許諾をとったらしいということである。

 

しかし、このような場合の『契約条件』というのは、極めてあいまいなままに、ドラマ製作のための準備進行は驚くべき勢いで進んでいくものらしい。

 

誰が出演するか、どういうコンセプトの脚本になるか、ロケ地探し、その他スポンサー集め等々、みじかい期間のあいだに、一挙に進行してしまうらしいので、これまで、『自作のドラマ化』といった体験は(これまでもあっただろうが)必ずしも多くなかったらしい、芦原さんにとっては、『大変な日々』だったようだ。

 

それで、私が、単に原作の1、2回分そしてドラマの1、2回分を軽く見ただけでも、先ほど少し書いたように、『原作漫画』と『実写ドラマの世界』は全く別の空気感というか世界観を感じさせるものになってしまっていた。

 

ということで、まだロクに見ても、読んでもいないような作品の話を書いているのだが、とりあえず、これが前篇である。

(つづく)