23日にアップしたこの記事の続きである。

 

 

 

今回の日本共産党の人事を巡っては、どちらかというと、男性同士の『罵倒合戦』の様相を呈している。

 

というのは、日本共産党の従来型組織構造のトップ層にある志位委員長とか、小池晃書記局長などの人々が一方の側で、相当、怒っているらしいことは明白である。

 

ただし、『シン・共産党』などといっている側の松竹伸幸氏、その相棒である(京都の共産党組織をリードしてきたと自負する)鈴木元(はじめ)氏なども、立派なおじさん(ストレートに言えば、お爺さん)たちである。

 

つまり、表だっては、女性たちを『パペット』としてそれぞれの側が『利用?』しているようにも見えるが、実態は、『爺さんどものメンツ(ジェラシー)』がその裏でバチバチやっているように、私などには見えてしまう。

 

しかも、こうした構造にあることを『百も承知』でありながら、メディアの『顔』であるおじさん記者たち(こちらは、上記の二つのグループよりも、多少、年齢は若い人たちであろう)は、『シン・共産党』が『党首公選論』という正義(民主主義?)を代表しているかのような『受け止め方』をして、どこも似たような姿勢で、『日本共産党』を批判してみせている。

 

しかし、『日本共産党』というのは、一つの『思想・信条』に凝り固まった人たちの『私的な集団』(小さな政党)に過ぎず、こうしたグループにまで、『党首公選をせよ』とか、『同じ人物がいつまでも、指導部を構成しているのはおかしい』などと外から口出しをするのは、『余計なお節介』というものではなかろうか?

 

それに例えば『朝日新聞』にしても、私などはよくわかっていないが、何やら『村山家』などという創業者(社主)の影が時々、ちらついているようである。

 

そして、どこまで信頼性があるものかわからないが、最後の『社主』と呼ばれた村山美知子氏に関する次の

ような本の紹介文が、ネットに出ていた。

 

 

今、ネットで確認してみると、『村山家』というのは、『朝日新聞』を創業した村山龍平という人物の家系であって、2020年に満99歳で亡くなった村山美知子という人は、40年の長きにわたって、『朝日新聞第三代・社主』という立場にあったらしい。

(『朝日新聞』の創業者であった、『村山龍平、上野理一』の二人の貢献を顕彰して、彼らの血筋の者を、『社主』とするという制度が、朝日新聞では長く続いていたようである。)

 

もっとも、この村山美知子氏の時代に、朝日新聞は『村山家の支配』を打ち破ることに成功?したようで、村山美知子氏は、『最後の社主』といわれており、2020年の株主総会において、朝日新聞は定款を改正して、『社主制度』を廃止したというような記事が、ネットを検索すると出てくる。

 

もっともこれだけでは、何だかよくわからない。

それでも、少なくとも2020年までは『社主』という制度があって、『朝日新聞』の経営者たちはそれと戦ったり、いろいろご苦労?をしたらしきことがうかがえる。

 

こんな古い尻尾を残しているらしい朝日新聞が、日本共産党の『党首公選論』になると、にわかに張り切り、また『私どもは、そのようなドロドロした過去などとは、無縁です』などといった『顔つき?』で『ご高説を披露』したがるような態度になるのは、どうも解せない。

 

いっそ、『弊社が、<社主制度>のくびきから、いかにして脱却したのか』『今こそ、語ろう』といったノリで『朝日新聞の歴史』を語ったほうが、よっぽど、説得力がありそうな気がするのだが…。

(ともかく、私は現在、『朝日新聞の社主制度』がどのような状態にあるのか、よくわかっていないもので、かなり『的外れ』のことを書いてしまっている可能性もある。)

 

さて、今回、『シン・日本共産党宣言』という本に共感を寄せながら、共産党の指導部に突っ込みを入れようとしている人々(『文藝春秋』、各種メディア関係者、松竹氏など)が注目しているのが、新しく『委員長』に就任した田村智子氏が、党大会の最終日(1月18日)の議論のなかで、(よりによって)大会の代議員の一人であった、女性党員のとった態度について、厳しい態度で批判を浴びせていることである。

 

このような記事が、時事通信から発信されていて、Yahooのニュースなどでも流されている。

 

この記事によると、<党首公選制導入などを求める著書を出版した党員の松竹伸幸氏が昨年2月に除名されたことに関し、16日の党大会で神奈川県議が『問題は出版より除名ではないか。排除より包摂を』と異論を唱えた。これに対し、委員長選出前の田村氏が大会最終日の18日に、『発言者の姿勢に根本的な問題がある』と反論。『批判の矛先を180度間違えている』『問題の政治的本質を全く理解していない』などと激しい口調で畳み掛けた。

公開の場での非難に、党所属の地方議員らからX(旧ツイッター)で『この糾弾はハラスメントだ。謝罪と撤回が必要』などの投稿が必要。>

などと書いている。

 

私も、この記事には、『えっ、神奈川県議がこの問題で発言』したとはどういう事情なのだろうと思って、多少、調べて見た。

 

すると、このような発言を行ったのは大山奈々子県議(横浜市港北区選出、3期)らしいことが、地元の『神奈川新聞』などのニュースでわかった。

 

神奈川県でも、2023年の統一地方選挙の一環として、4月9日に県議会議員選挙の投開票が行われている。

その結果、(定員105名で)選挙前は、共産党系の議員は5議席だったところ、2議席にまで減少しているのだという。

この当選した2議席のうちの一人が大山奈々子県議である(もう一人は、『返り咲き』組みらしい)。

 

彼女は、神奈川県議団の一人として、今回の党大会の代議員としての資格を得たのではないかと思われる。

 

ところで、なぜ、彼女は(松竹氏らの)『除名問題』について、わざわざ発言したのだろうか?

わたしも、その辺についての経緯がわからず、多少、調べて見た。

 

すると、大山県議のプロフィールが出てきた。

これを見ると、大山さんは、京都生まれで、京都の高校を出て、早稲田大学を卒業(早稲田出身ということでいうと、田村さんの先輩にもあたるらしい。)し、その後、京都府立高校の教師として着任している。現在、60歳である。

 

2011年には、神奈川県議選に立候補している(その時は、落選)。

つまり、若いころは、京都で活動していたが、年月を積み重ねるに連れて、『神奈川での活動』へと、『活動の場を変えてきた』ということらしい。

 

その間、どういうことがあったのか、よくわからないが、大山県議の書かれたものでネットにアップされているものを読むと、『京都の高校で教師をした後、結婚して東京に戻り、日本語学校の教師になりました』『その後、子どもができて横浜に転居し、活動の基盤を移しました』というようなことをいろいろ書いているようだ。

 

もちろん、現在、60歳なので、彼女が京都で活動していたころからは、相当時間がたってしまっているが、恐らく、京都には知人も大勢いたりして、京都の党組織の一員であった、鈴木元氏、その盟友的な存在である松竹氏らの行動や、それに関連した党組織の動きに対しては、並々ならぬ関心があったのだろう。

 

ネットの情報などによれば、田村智子氏は、『発言者の姿勢に根本的な問題がある』『批判の矛先を180度間違えている』『問題の政治的本質を全く理解していない』などと厳しく批判しているようである。

 

その言い分を詳しく見ていくと、田村智子氏は第29回大会の『結語』というものを、その時点での『副委員長』としての立場で述べたのだが、そのなかで、次のような表現を含んでいる(全体としては、『党の前進』が大会の各方面で見られたというような『明るく、元気づけられるような、まとめ方』をしているものだ)。

 

こんな文章を長々と引用すると、普通の人はびっくりしてしまうかもしれないが、恐らく『日本共産党神奈川県議団』という資格で、この大会の代議員となりながら、『党の公式ルート』で一度も提起していないはずの『除名問題』について、抜き打ち的に、公式発言されてしまった、共産党の指導部のほうとしては、怒りは相当のものがあったのだろう。

 

(もちろん、大山さんは、『党の公式ルート』で一度でも問題提起すれば、大会代議員になどなれるはずもないということを知り尽くして、このある種、『ゲリラ』的な行動に出たのだと思われる。

 

ただし、何も京都の党員でなくとも、神奈川の党員あるいは大山さんの支持者たちの間でも、『松竹氏らの問題』をどのように考えるべきなのか、そのような声はあったのだろうし、大山さんも、そういった声を背景にしながら、発言したのだろう。自分が犠牲になっても、『共産党が変わって欲しい』という気持ちもあったのかもしれない。)

 

ただし、ここでどれだけ『大山さんの側にあったかもしれない事情』を述べてみても、あくまでも『組織のルール』を至上の原理としているかに見えてしまう、田村智子氏の言動は、一般的に言うと『怖い人』『冷たい人』というようなイメージでとらえられがちになってしまうことも事実だろう。

 

しかし、そのような(一見)『女性同士の闘い?』に見えるような現象こそ、世の『高齢男子ども』の最も好物とする『ネタ』でもある。

 

それにしても、田村智子委員長も、何とも『不運?なデビュー』の仕方をしたものである。

このままだと、田村氏が委員長に就任したことの積極的な意味など、見出そうとせずに、『女性委員長の抜擢』に対して、『おじさん目線』で否定的にとらえるような論議が、跋扈しかねない。

 

それは、とても残念だし、かえって害毒を広げるものになりかねない。

松竹氏などの側でも、そのような方向に議論というか中傷が流れることのないように、自制を求めたい。

 

もっとも、松竹氏の側も、変な風に『文春』や『新潮』などの癖のありすぎる媒体のアイドルになってしまうと、ますます彼ら流のポピュリズムに堕落しかねないことは、これまでの『共産党を批判しながら、この手のメディアで名を売った人々』が共通して陥った罠でもある。

 

さて、田村智子氏のほうは、彼女が持っている積極性を全面に押し出しての国会論戦、あるいはテレビ番組などへのデビューは、今後、いつどのような形でお目見えするのだろうか?

(あまり、きっちりと、こうした番組などは見ていないので、既に見逃してしまっているものもあるかもしれないが…。)