19日の当ブログで、『岸田の乱』について書く都合上、19日の『朝日新聞』の1面を紹介した(『岸田派・安倍派が解散検討 政治資金事件 首相、不記載認める』の見出しが紙面トップを飾っていた)。

 

実は、そのすぐ下に、このような記事が掲載されていた。

 

共産党委員長に、参議院議員で党の政策委員長(副委員長も兼務)の田村智子氏(58歳)が就くという人事案が、熱海市で開催されていた共産党の党大会で決定したというニュースである。

 

これに伴って、2000年11月に不破哲三氏に代わって委員長に就任した志位和夫委員長(比例南関東ブロック選出の衆議院議員でもある、69歳)は、委員長を退任し、議長に就任したそうだ。

 

私は、日本共産党については、どういう体質なのか、永年の間に(学生時代は、広い意味で言うと『全共闘』派の学生として、また沖電気という企業で、かつて集団で解雇撤回闘争を戦っていた時は、『被解雇者同士の仲間』の多数派を支持しているいわば第一党派として)それなりに知っているつもりであるが、今回の日本共産党大会を巡っての報道の仕方については、かなり偏った観点のものが多いと感じている。

 

『朝日新聞』もそうだが、今日、『日本共産党批判』を展開しているメディアの論調は、だいたいにおいて、この松竹伸幸という人の主張や活動をもとにして、それを後押しするような形で議論を展開しているようである。

 

この人は、(2023年1月に、文春新書から発刊した)『シン・日本共産党宣言』(副題を『ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』という)ある種、スキャンダラスな書き方をした本の発刊を機に、公然と共産党批判を展開してきた。

 

私は、この人が、どういう議論を展開するのだろうか、そして彼自身の活動は、どの程度の『共産党内外の活動家』に支持をされているのだろうか、という主に二つの観点で、この人の活動を見てきた。

 

しかし、残念といっていいのか、何といっていいのか、よくわからないのだが、松竹氏自身の活動は、さほど『共産党の大衆運動』とか『党員組織』に広がりをもっていないようにも感じる。

 

たしか、松竹氏が、この本を出した時には、彼自身、かなりの影響力を党員の間にもっていて、彼が『ヒラ党員』として自ら『党首公選』に出馬すれば、(もちろん、当選するのが無理なことは、百も承知していたのだろうが)それなりの支持を党員の間から得られる(あるいは、彼を支持するような党大会代議員等の発言もありうる)ような書き方とか、発言の仕方をしていたように記憶する。

(私は、この人が一定の時点で発信を始めた、Amebaブログでの記事などを通してその主張などを知ろうとした。)

 

ところが実際には、これまでのところ、7名の(現役の党員を含む、彼を支持する人たち)の声などが『記者会見』の形で、発表された程度に過ぎなかったようだ。

(もちろん、これは『弾圧の結果』という風にとらえることもできようが…。)

 

そして、本日(22日)、松竹氏らは党大会での『除名再審査却下』の決定を受けて、改めて記者会見を行い、除名処分撤回を求めて、3月にも東京地裁に提訴する旨、訴えたようである。

(この記者会見の内容に関して、私自身はまだ見ていない。)

 

これまで、私がいろんな情報(もっとも、現在、私は共産党の近くで活動している人など誰も知らないし、接触もないのだが…)で得られた限りで判断すると、松竹氏は、そもそも、一定の時期はたしかに、『日本共産党の政策決定』の仕事の一部にかかわっていたようだが、それは、ある意味で『専門スタッフ』としての仕事であったようで、特に2016年に党本部を退職して以降は、『共産党員』としての活動は、ほとんどなかったようである。

(もっぱら、京都のかもがわ出版という出版社の編集主幹として活動していたらしい。)

 

では何をもって、彼が、『自分たちの活動に正統性や影響力がある』などと主張していたのかというと、たしかに共産党の『京都の組織』に影響力のあった鈴木元(はじめ)という人物と、松竹氏は親しかったようである。

 

この人は、(松竹氏と同じく)かもがわ出版の取締役を務めていて、(松竹氏に続いて)2023年1月20日に、かもがわ出版から『志位和夫委員長への手紙』を出版した。

 

その内容は、(私も以前、電子版で一通り読んだが、現在はよく覚えていない)『志位委員長は直ちに辞任して、党首公選を行って選ばれる新しい指導部に共産党の改革を委ねるべき』と、松竹氏の一見、柔らかそうに見える言葉遣いと比較しても、上から断定するような強い口調だったと記憶する。

 

そして、鈴木氏は、現在、79歳(らしい)と松竹氏(69歳)より、年長ではあるが、1962年ごろ、日本共産党に入党し、前後して立命館大学の一部学生党委員長に就任したという人物らしい。

 

立命館大学において活動を継続していて、一定の時期は、京都の学生部隊の大半は、自分がオルグして入党させたとか、豪語していたようである。

(これは、何に書かれていたものか、失念したが…。あるいは、週刊文春とか週刊新潮で読んだのかもしれない。)

 

だが、このような『モノの言い方』とか『力の顕示の仕方』からも見て取れる?ように、やや『古い世代』の親分、子分の関係を重視するような、『肉体派』『人情派』の党員のようにも見え、昔の党員には影響力はあっても、近年の京都の党組織にどれほど、影響力があるのかは、やや疑問符のつくような人物であるようにも(何となく)感じていた。

 

そしてこの鈴木氏は、(いろんな含みを持たせた表現を好む)松竹氏と異なり、上述したようにストレートに党中央を糾弾するような、全くトーンの異なる書物を、松竹氏と相前後して、出版した。

 

元来、いろいろ、『組織内での反乱』みたいなことを起こす人物は、『理論派で大衆的な人気のあまりない慎重派』と『親分気取りで、人情や行動を重視する直情派』という、『水と油の両タイプ』が手を組んで、どこかでそれぞれの思惑がすれ違っていって、失敗することが多いような気がしている。

(ただし、稀に一時的な成功を収める場合もある。孫文が率いたとされる、辛亥革命などは、そのような『一時的な成功』の事例かもしれない。)

 

そしてまさに、今回のケースなどそれにあたりそうである。

松竹氏の主張など、(今日では)何となく痛々しい思いがするほど、『何のためにやっているのか』『どのような効果を達成しようとしているのか』が見えてこない。

 

私は、そもそも『文春新書』などから著書を出したという判断自体が間違っていたと思う。

 

また、その著書のなかで、志位氏とか、不破哲三氏との過去のいきさつなど(特に志位氏の発言のブレなどを指摘している部分が、もっとも微妙な点であろう)をわざわざ、もちだして、『共産党の<決して誤謬をおかすことのない>神話』の誤りを蒸し返してみせたことが、『自らが引き返せない地点』に立ち至ったことにつながったのでは、と感じた。

 

もともと、仮に『共産党員としての活動』などほとんどなかったというのであれば、『日本共産党を変えようとする活動』などにエネルギーを割くのでなく、『日本共産党』と別個の組織や運動を、自ら構築し、拡大していけば良いだけの話である。

(私自身の感想をストレートに述べれば、そのような印象を受けてしまう。)

 

どうして、そういう方向にエネルギーを費やそうとしないのか、それがこの人の活動のなかで、謎として残っている部分である。

(つづく)