この記事の続きだ。

 

 

 

ここから先は、(前にも書いたように、キチンとメモをとっていなかったせいもあって)結構、記憶が錯綜している(二日目の話と三日目の話が、入れ替わってしまっているようなところもあるかもしれない)。

 

ともかく、噂?の『船場センタービル』に行ってみた。

テレビ番組では、1号館から案内をしていたが、私たちの入っていったのは、(その反対側のドン詰まりの)10号館だった。

 

ここは、1号館から10号館まで横につながっている。なおかつそれぞれの号館で最大で地下2Fから地上4Fまである。

 

(妙な比喩になってしまうが)日ごろ、団地の管理組合の理事を(順番で)やらされていて、ネズミを駆除してくれなどというような要望にも応えなければならない身としては、まるでネズミの巣みたいな印象すら受ける。

 

ちなみに、ネズミの巣は各地で問題になっているが、場所によっては、ネズミが完全に地下に『大巣窟のネットワーク』を構築してしまっていて、とてもではないが、駆除などできそうもない地域も多いようである。

(この船場センタービルは、どことなくネズミの巣窟のネットワークのような様相を呈している。)

 

この日、当初は、宿泊して朝を迎えるのは初めての日なので、この日だけでも、ホテルの朝食を頼もうかと思っていた。

 

ところが、新年から値上げをしたようで、1回で一人2000円に近いような価格を提示されたので、外で食べることにした。

(どうせ、この船場センタービルにもモーニングを出すような喫茶店が、複数入っているのだろうと思っていた。)

 

たしか10時前後に、船場センタービルの10号館に恐る恐る立ち入ったのだと記憶する。

 

フロアによっては、店が開いていないところも多かった(それ以外に、フロアによっては、行政関係の事務所ばっかり入っているところもあった)。

やはり、行政がやるような『産業振興』とか『地域振興』とかは、うまくいかないことが多いようで、そういう場合、最後は空いたエリアを自分たち、役所関係のスペースで埋めていくようでもある。

(ここは、株式会社大阪市開発公社という第三セクターで運営しているらしい。)

 

それでも、あるところでは、手芸関係というのだろうか、関連の資材とか道具など、またボタンなども各種各様のものをそろえた店があった。

 

すると、カミさんは、ミシンなどを使って、いろんな小物などを作るのが好きだし、また時々、自宅に知り合いを呼んで、『ミシン教室』か何かみたいなことをやっていたりするので、急に眼を輝かせ始めた。

それで、いろんなこまごまとしたものを買っていた。

 

そこは、私たちよりも年齢が高い(ということは80代ということか?)男性がほとんど一人で店の管理をしている(といっても、小さな店である)ようだったが、あまり朝早くからお客が来ることはないのか、カミさんが次から次へと買っていく(彼女の話では、とにかく安いらしい)のと、どこかでカミさんが『横浜から来た』みたいな話をしたのだろう。

 

何だか、店主もうれしくなってしまったらしくて、もともと安いものを、さらにドンドン値引きしてくれたらしい。

 

こういった調子で、その後、カミさんは幾つかの店を回り、外国人が喜びそうな布の資材を購入し、それを使えば、『小物』ができそうな材料のセットをたちまち、頭のなかで膨らませていたようだった。

 

小一時間くらい、あちこちの店を回って、いろいろ購入していた。

 

結局、朝食のほうは、この船場センタービルの一角にあった、喫茶店のモーニングを食べて終わった。

 

私は、『まずまずの店』だと思ったが、実はこの辺の喫茶店は(おそらく固定客のニーズに合わせてなのだろう)喫煙が可能な店になっていた。

そのため、煙草の煙が充満しているようで、カミさんはこの日は、我慢して入ったままだったが、翌日以降は、そこにまた行きたいとは言わなかった。

 

なお、カミさんが必要と考えていた資材はあらかた見つけたようで、その日以降は、もう一度、『船場センタービル』に行くことはなかった。

私は、また行ってみたいと思ったのだが…。

 

かくして、私が、山崎豊子の小説を読んだり、あるいはこの『山崎豊子スペシャル・ガイドブック』という図書館で借りた本を見て、急に興味を持ち始めた『船場の世界』というのは、既に『記憶のなかの世界』に生きているものらしい、ということを認識し始めたのである。

 

なお、この(2015年に『新潮社』から発行された)本では、山崎豊子の記念文学館みたいなものが建てられるのかもしれないといったことが書かれている。

ただし、山崎豊子は、2013年9月に89歳で亡くなっているが、この記念館は実現していないらしい。

 

彼女が、よっぽどたくさんの資産を残していれば、可能だったのかもしれないが、何しろ彼女は、時間もお金も、体力もすべてを惜しみなくつぎ込んで、『大作の数々』を生み出したような作家だったという。

 

そのため、後世に『資産を残す』というようなことは出来なかったのかもしれない。

 

それにしても、(先ほどの『山崎豊子スペシャル・ガイドブック』によると)山崎豊子は、1924年に船場の老舗昆布屋の長女として生まれている。私の母親とほぼ同じ世代である。

 

1944年に京都女子専門学校を卒業後、毎日新聞大阪本社調査部に入社。

45年には学芸部に異動。そこで当時副部長を務めていた(後に作家となる)井上靖の指導を受けたらしい。

 

1957年には、勤務のかたわら書いた『暖簾』を発表して作家デビュー。翌年の1958年には、『花のれん』により、第三十九回直木賞を受賞し、この年には毎日新聞社を退社し、作家生活に入っている。

 

先ほど紹介した本に掲載されている『年譜』を見ると、彼女が井上靖とか週刊新潮の名物編集長の斎藤十一にかわいがられたことがうかがわれる。

 

彼らは、山崎豊子に才能と、半端のない『努力』『ド根性』の資質を見出し、それを開花させたのだろう。

 

前回の記事に書いたことでもあるが、私が見た映画『華麗なる一族』の原作である小説『華麗なる一族』が発行された1973年には、既に山崎豊子の『原点』といえる『船場』が(1970年の)『大阪万博』に向けて、埋め立てられてしまい、現実の世界からは消滅していたのだなと思うと、ちょっとやるせない気もしてしまう。

 

私は、(大阪のことを知らないもので)何となく、東京では高速道路建設によって、運河などすべて埋め立てられてしまったが、大阪にはまだ運河などが相当程度、残っているのではないかと夢想していたのだが、どうやら基本的には、大阪も東京と同様であって(むしろ、先行した部分もあったかもしれない)『再開発』という名称で、『そこのけ、そこのけ』の『文明開化?』『都市化』のブルドーザーがいろんなものをぶっ壊していくのは、共通な部分があったようである。

(そして、山崎豊子は、取材と想像力、豊かな文才とサービス精神で、読者の潜在的なニーズに応える、『もう一つの世界』を紡ぎ続けたのであろう。)