この記事の続きである。
宮里弁護士は、『沖電気指名解雇裁判』の和解交渉の過程でも見られたように、幾つかの思想的なグループ(露骨にいうと、『共産党系』と『向坂協会(社会主義協会)』のグループと、私自身が分類されるであろう『新左翼系を含むその他のグループ』である)を何となく『調停する』ような位置に立たされてしまっていた。
そのことについて、私自身が直接、関係する話なので、もう一度、そのことに関するインタビューの結果を掲載した、この本を読み直してみた。
この本の27~29ページにおいて、宮里氏の証言がある。
もう一度、それを読み直して感じたのは、このインタビューの相手(というか、聞き手)が高井晃(全国ユニオン元事務局長)氏であるということ。
さらに、学者等が、重要な政治家に対して『聞き取り』を行う際には、(恐らく)何を聞くのか、事前に調整するだろうし、『聞き手』あるいは事務局的位置づけを務めるスタッフが、資料を整備したりして、事実関係に間違いがないか、チェックしながら進めるだろうと思う。
しかし、このインタビューで聞き手は単に聞いているだけ?という感じで、事実関係もその場で、宮里弁護士がその時の記憶に基づいて話しているだけであった(ようだ)。
その結果、次のような話になった。
(沖電気の被解雇者たちはいろいろ各派の活動家たちがまじった集団で、それぞれ独自にビラを撒いたりしていたので)
『だから、弁護団もそれぞれ別々。なぜか私のところには――僕は社会党系の弁護士だと思われていたし、そっちの事件が多かったものだから、協会系が頼みに来るかと思ったら、頼みに来なかった(苦笑)。
協会系を一生懸命やっている某先生がおられて、その先生が担当された。
その他のグループ、それが10人ぐらいいたかな。その人たちは、共産党系の人たちに「一緒にやろうよ」と言ったら拒否されてしまいました。協会系にも拒否された。
行くところが無くなって、当時総評の岩井章事務局長のところにそのグループが会いに行った。国労出身ということもあり、面識のあった岩井さんが「宮里君なら党派にかかわらずやってくれる」と僕を紹介してくれました。僕はだからその他のグループの事件をやるようになった。
僕の立ち位置は、どちらかと言うと、総評弁護団という、みんなと付き合っている立場なので、共産党系の人もよく知っているし、いろいろ知っているわけで、僕が仲介の音頭を取るような形になって、三弁護団の会議というのができて、三者の連絡会議もでき、和解に統一した対応で臨み、和解が成立をするということになりました。
(職場復帰する)半分を選ぶ時には、それぞれの派から半分を選ぶということになって。誰が残るかというのはいろいろ問題があったのですが、半分を選別して使用者にリストを出して、戻ったというわけです。戻った後、ほとんどの人たちは定年まで頑張ったはずです。』
このように宮里氏は語っている。
もう一度、この本を読み直したら、この程度しか、話されていなかった。
ここで話されていることは、宮里氏としてもかなり気を使いながら話されているはずである。
『社会主義協会(向坂協会)派』系の被解雇者を担当した弁護士の名前も、当然、実際のインタビューの場では、お名前を出されていたはずである。しかし、本のなかでは、名前を伏せられている。
この沖電気争議についても、宮里弁護士のほうから『1970年代の争議でどうしても言っておきたい事件があります』と争議名を自ら出されたという形になっている。
やはり、宮里氏としても、自分の労働弁護士としての体験を語る上で、挙げておきたい事件だったのかもしれない。
何となく、私のほうで、自分が『職場復帰組』に入りながら、自分が沖電気の職場で『いじめ』にあったりして、いわばそれまでの『戦い』を裏切るような形になってしまったので、やや被害妄想的?な思いもあって、宮里弁護士が私たちのグループに対して、『辛辣な表現』をしているように誤解もしてしまっていたのだが、それは違っていたようだ。
(宮里弁護士には、他意はないのだろう。ただ、記憶されているままに語っている。)
しかし、今となって考えると、これは宮里弁護士にとっても気の毒な事であったかもしれないが、沖電気争議の和解交渉によって、宮里氏は、『裁判所主導の和解交渉で、争議を解決する路線』に踏み込んでしまったようにも見えてしまう。
もちろん、『裁判所主導の和解交渉』であったとしても、全体の力関係が当方に有利な状況にあれば、もっと(労働者側にとって)有利な結果を引き出しえたのかもしれない。
しかし、こと『沖電気指名解雇撤回闘争』においては、そうではなかった。
そして、不幸なことに『国鉄JRにおける指名解雇』というべき、『国鉄の分割民営化』に際しての活動家の『不採用事件』においても、(細かい状況を知らない私の眼から見ると)同様に、全体的な力関係が有利でない状況において、さまざまな思想的なグループを含む、『不採用の活動家たち』を『JRが不採用を主張し続けて、それが結果的にまかり通ってしまう』というような『(国家権力によって)後押しされた裁判所の主導での和解交渉』が行われてしまったようである。
この『国労あるいは国鉄労働者の運動』にとって転換点となった『和解』においても、もともと『国労本部』との付き合いが深く、また『総評弁護団』(後に日本労働弁護団と名称変更)の中心的存在であった(らしい)宮里弁護士は、『和解を推進し、解決を進める』中心的な存在とならざるを得なかった(ようである)。
これは、宮里弁護士にとっても、かなり苦しいことだったのではなかろうか?
振り返ってみると、7月1日の『偲ぶ会』には、自分自身で『解雇撤回闘争』を戦ったというような、かつての争議団の人たちの姿は、ほとんどなかったようだ。(これは、いわゆる『共産党系』であろうがなかろうが、その場に来ていなかったような気がしている。しかし、昨今の政治状況も関係しているのかもしれない)。
恐らく、ここに私自身が解雇撤回闘争を戦っていた、1970年代、80年代から40年以上が経過してしまったという『時代状況の変化』が存在しているようにも感じた。
7月1日の偲ぶ会で、私は、宮里弁護士の晩年の日々についても、報告を聞いていた。
宮里弁護士は、自身が相模原市に住んでいたこともあって、地元のあの甘利明議員(当時は前経済再生担当大臣、その後、税制調査会長、また一カ月の期間に過ぎなかったが、自民党の幹事長も務めた)に対して、(千葉県白井市の建設会社から多額の現金や接待を受けていたとして)都市再生機構(UR都市機構)に対する『あっせん利得処罰法違反』の疑いで2016年に告発している。
これ以降、甘利氏は、長期間にわたり『睡眠障害』を理由にして国会を欠席していたが、このような『巨悪を眠らせない』ような戦い方こそ、宮里弁護士の本領であったのかもしれない。
労働者派遣法が定着してしまって以降、日本の労働者の労働条件がますます個別分断され、いわば『集団的な労使関係が破壊され、個別的な労働問題ばかりになってしまう』そのような状況を憂いながら、労働法の基本についての講演活動なども続けられていたようである。
また、自身の趣味でもあった、クラシック音楽と労働者性の関係では、オペラ合唱団員の労働組合法上の労働者性を争う『新国立劇場運営財団事件』において、これを認める最高裁判決(2011年4月21日判決)を引き出している。
私自身も、実は、マルクス主義等の『左翼運動』については、『それ自体のなかに矛盾を抱えていた』と思うし、ある意味では、その『破綻』については、『やむなし』と思っている。
しかし、『労働運動』とか『労働組合』なども含めて、清算してしまおうという雰囲気に
対しては、解せないものを感じている。
日本には、会社などとは別個の共同体意識、労働組合や(本来の)NPO法人などが担うような自主的自立的な運動がもっともっと広がって欲しいという気がしている。
7月1日当日のプログラムで、印象的だった写真などを幾つかアップしよう。
これは、NHKの『クローズアップ現代』で労働者の状況について語る宮里弁護士。
また労働関係の現場での戦いについて、さまざまな観点から語る、元幹部や学者たちの発言であった。
国労の委員長であったかたなど、幾つになっても、いかにも労働組合らしい話し方をされていた。また、『生コン支部』に対する刑事弾圧の異常性について報告する、全日本建設運輸連帯労組・小谷野毅書記長の発言など(私は、この人が今のような白髪でなく、黒髪で頭部が覆われていたころを記憶しているが)『闘争の現場の緊迫性』を訴えるものがあった。
そして、(順番は逆になるが)非常に印象に残ったのが、『じいじからから贈ってもらったテナー・サックスの演奏を聞いてください』と語りながら、当日、楽器の演奏をされたお孫さんたちの姿だった。良き『じいじ』が多くの人に追悼されて送られる姿を、お孫さんたちに見せることができたのは、幸せだったのではないかと思う。
(より徹底した、『格好よさ』を追求したい宮里弁護士であったから、おそらく、晩年の難病からの攻撃に対しては、苦痛を感じることも多かったのだろうと思うが…。)








