この記事の続きである。
前の記事には、少し大袈裟なタイトルをつけてしまった。
私は、この『偲ぶ会』で(1987年の『和解』で一応終結した)『沖電気争議』の関係者に会えるのではないかと、密かに期待していた。
しかし、私が探して範囲内では、当時の『被指名解雇者』は誰も来ていなかったようだ。
それも無理からぬことかもしれない。
第一に、当時、『被指名解雇者』の9割近くを組織していたのは、『撤回させる会』といって、(わかりやすくいうと)共産党系の活動家がその指導部を形成していたグループである。
しかし、彼らは、いわば一貫して『沖電気争議』を戦い抜いてきたという自負があるから、この間も、『和解終結』から、10年、20年、30年といった節目節目でおそらく大集会とか、何らかのイベントを開催してきたのだろう。
(だから、私のように、その後運動から引き払ってしまい、当時の『旧戦友?』みたいな立場の人と会うことができないということもなかっただろう。)
第二に、世の中の状況が今と変わっていたら、また話は違うのだろうが、現在、『共産党系』の人たちは(例の『シン・日本共産党宣言』に代表される)『分派闘争』と戦っている最中である。
それに、全体的に『共産党系』の人たちの様子をうかがっていると、権力や敵からの攻撃に抗して『陣地を防衛する』という意識が強いみたいである。
1970年代、80年代に、当時の労働運動の『気分』もあって、『薩長連合』とばかりに、(諸党派もまとめて)『沖電気争議団』を結成し、それを支援する陣形を作るという、(まあ、我々、被解雇当事者は結局、『みこしの上に担がれた存在』に近かったような気もするが)このような構想は、今や『真夏の夜の夢』に過ぎなかったような気もしている。
さらに、問題点は、沖電気争議の『終結の形』が裁判所の関与する『会社との和解交渉による決着』で終わらざるを得なかった、という点である。
その結果、『撤回させる会』の代表でもあった『沖電気争議団』の代表も職場復帰が出来なかったし、いわゆる非共産党系の解雇者の中では、(刑事弾圧を招いてしまった)八王子工場における『実力闘争』をうたう『就労闘争』の顔というべき被解雇者も『職場復帰』がかなわなかった。
このように、『共産党系』であれ、あるいは逆に『実力闘争による突破』を志向する人々であれ、どちらも、(腹の底では)納得することのできなかった『和解』の結果となってしまった。
こうした結果については、実際のところ、どちらの人々も、『彼らと一緒になって沖電気争議団などという中途半端なものを作らず、もっと自分たちの運動に純化した形で進めていれば、より良い結果が得られたのではないか』と考えている可能性がある。
そして、事実の経過からいえば、このような『和解の過程』で弁護士たちの間で『接着剤』というか、全体を取りまとめる役割を発揮していただいたのが、(ほかならぬ)宮里弁護士だったのである。
しかも、宮里弁護士のこのような労働運動における役割は、『沖電気争議』だけにとどまらなかった。
『偲ぶ会』当日のプログラムを見てもわかるように、この日の発言者は、国鉄労働運動に関係する人たちが多かった。
というのは、宮里弁護士自身が、国鉄労働組合が代表する総評労働運動の主流と密着して活動してきた経緯があるからだろう。
宮里弁護士は、<団結なくして勝利なし>という言葉が好きだったらしい。これは、同時に『国労大会』において、しばしばスローガンとして愛用された。
国鉄労働組合の闘いは、同時に組合分裂攻撃に対する戦いでもあった。
国鉄当局は、早い時期から『鉄労』(鉄道労働組合)などの『分裂組合』『御用組合』を育て上げ、各地において、こうした『分裂組合』『御用組合』との闘いが、国鉄労働組合の闘いのイメージとしてあった。
それに対して、『国労本部』はしばしば、『団結なくして勝利なし』『団結なくして解決なし』などのスローガンを掲げていた。
だが、実態としては、『総評労働運動』が曲がり角にさしかかるにつれ(また、『総評労働運動』『国鉄労働組合の運動』にも多くの矛盾が存在しており)それを突いた形で攻撃が仕掛けられてきているのも事実であっただろう。
(いわば、『団結することができなくなって、勝利も得られなくなる』というのが、現実となってしまうように事態は変化していた。)
その結果、国鉄に対して、郵便局や当時の電電公社、専売公社などと並行して、特に『分割民営化』の攻撃が加えられ、これに対して、国労の運動に影響力を持つ、政治勢力が必ずしも統一した見解や、闘争方針を提示できない状況のなかで、国鉄→JR各社への移行のなかで、旧国鉄の各社の従業員であった労働者が、『活動家』いわば『不良分子』として、JRに採用されないという事件が起こった。
この闘いは、23年間継続したというが、(少しおこがましいかもしれないが)この1047名もの労働者の不採用(JR採用差罰)は、沖電気において先行的に実施された『指名解雇』をさらにドラスティックに強行したかのように見える。
1047人という数字になる前段では、国労の組合員5037名の不採用という数字であった。1047名は、1987年以降、国鉄清算事業団の『雇用対象職員』とされた。
1990年以降は、今度は清算事業団から解雇されたのだという。
その後、彼らの解雇撤回闘争は労働委員会ですべて勝利するが、裁判所の民事裁判では敗訴するという経緯をたどり、2003年には、中労委(中央労働委員会)側の上告を棄却し、『JRは、彼らの使用者ではない』という最高裁判決が三対二の僅差で下された。
このように極めて政治的な経過をたどるなか、JRの不採用に対して戦い続けていた国鉄労働者の闘いも、最高裁での『和解』(和解金額は、組合員ひとりあたり2200万円)で終結せざるを得なかった。
この和解自体も、2009年8月の総選挙後の政権交代(民主・社民・国民新党の三党連立政権の成立)という政治状況のなかで、起こりえたもの(そのため、こうした政治的枠組みによる『制約』も当然、有している)であったらしい。
以上のような流れを見ていくと、宮里弁護士自身、総評労働運動あるいは国労の労働運動の前進期に労働弁護士としての活動をスタートさせていたのだが、彼自身がある種の『代表的な存在』となっていた時期は、既にこのような労働運動の曲がり角、あるいは後退期にあったといえよう。
そのため、あるいは宮里弁護士自身にとっても、『不本意かもしれないような結果』の『身元保証人』というような立場にならざるを得ない結果に置かれることになってしまったのではないか、という印象を持っている。
そして、先日の『偲ぶ会』がほとんどが、『弁護士関係者』『労働法関係者』が中心であって、一部、かつて労働運動の担い手であった人たちも発言したりしていたが、現場の人たちの熱気が中心であるような集会にはなっていなかった、という感覚を私は受けてしまった(はなはだ失礼な印象を与えかねない表現になってしまっているかもしれないが…)。
(つづく)





