4日前(7日)にアップした、この記事の続きである。

 

 

(かなり、長文なので、ご注意願いたい。)

 

 

この本をもう一度、読み直してみた。

(といっても、全体のまだ一部でしかない。)

 

というのは、最近、『朝日新聞』や『毎日新聞』などが社説でこの本の主張を肯定しているようで、それに対して、日本共産党が反論をしているという、『悪循環?』に陥っているようなので、前回の記事で書いた、私の『読み方』『感想』には重大な『読み間違え』があったのかもしれないという気も少ししていたからだ。

 

 

ちなみにこれらが、『朝日』(8日)と『毎日』(10日)の社説である。

 

『朝日』の社説では、『党勢回復に向け、党首公選を訴えた党員を、なぜ除名しなければいけないのか』として、除名された松竹氏について、『開かれた党首選を行うことで、「異論を許さない怖い政党」という国民の見方が変わり、共産党を含む野党共闘への不安感も和らぐのではないかと指摘』などと紹介しているが、しかし、これは(ある種)ご都合主義的な『切り口』である。

 

私は、松竹氏の著書を、前回読んだときに、引っかかった部分をもう一度、読み直すことで、いよいよ、松竹氏は何をしたいのか?という疑問を強めた。

 

その点について、具体的な箇所を挙げながら、論じてみたい。

 

私が疑問に感じているのは、次の2点である。

第一に、松竹氏は、仮に共産党の党首公選(それが実現したとしても)に出たとしても、全く、『当選の見込みがない』ばかりか、彼が本の中で指摘している、『外交・安全保障政策』に関する、党中央への批判は、(多く党員の気持ちと)全く逆方向?からのものであり、到底、支持を得られそうにないものであることを自覚しているようである(本書の110~110ページの記述)。

(それなら、なぜ、『党首公選』などということを主張するのか?)

 

第二に、たしかに、松竹氏は、これまで党の各種機関に対して『質問権』を行使したり、といった党員として認められている権利の行使に対しては、比較的『無関心』だったようである。

 

それなのに、今回、このような本を『文春新書』から出版して、『党首公選を求め、立候補する』という、あたかも『シングル・イッシュー』での出馬論者あるかのような装いをこらして、世間の注目を集めようとしている。

それは、なぜなのか?ということである。

 

この本で書かれている内容で印象に残るのは、どちらかというと、『私は、外交・安保政策について非常に詳しい』『共産党員というよりも、かもがわ出版編集主幹という顔を利用して、世間つまり党外で幅広く活動してきたから、私のほうが(共産党の大幹部たちよりも)知識は上である』

という強烈な自負である。

 

さらに、『日本共産党は、これまでどのようにジグザグを繰り返してきたのか?』『志位氏、不破氏、小池氏などの相互の間でも、いかに意見対立が存在し、内部矛盾が存在してきたか』あるいは『党中央での決定と、現場の党員の間での矛盾が存在したのか』について、微に入り、細に入り、記している。

 

その例を挙げると、例えば2004年の綱領改定によって、中国が『社会主義をめざす国』と認定されてしまったことなど、中国評価のジグザグについて指摘している。

 

しかも、2009年の時点においても、『東京のある共産党地区委員会』の『共産党後援会ニュース』には、『中国社会主義ではない』というスローガンが書かれていたという。

 

これは、『党本部から応援に来ている人』が、これでいいと説明して、このようなスローガンを掲載していたのだという(本書33ページ)。都合の悪い党中央の方針は、現場では時には無視していたという現状の暴露である。

 

このようなことは単なる一例に過ぎない。

この本の34~37ページでは、2001年の(北朝鮮の不審船問題対応するための)海上保安庁法の改正案に対して、『国会対策委員会と志位氏は反対し、政策委員会と不破氏は賛成した』と内情を暴露している。

 

このようなことを書けるのは、当時、松竹氏が党本部にある『政策委員会』のスタッフの一人であって、情報を知りうる立場にあったからである。

 

1997年の『日本銀行法』の改正案(日銀の独立性を確保するためのもの)に対しても、そもそも『日銀の独立性』とは何かについて、党内の幹部の意見は対立したという。

 

松竹氏が所属していた『政策委員会』も含めて、この法案に対してどこからも異論が出ることなく、『あえて委員長の判断を仰ぐ必要もないということで、賛成することに決まっていた』そうだ。

 

ところが、いざ、衆議院本会議でこの改正案の賛否を採決する段になって、(当時、現職の衆議院議員であった)不破委員長は、『本会議場で初めて法案と党の審査文書に目を通し、この改正には反対すべきだとその場で判断する』、その結果として、共産党の議員団は、『衆議院で賛成した法案に参議院では反対するという、史上初めての混乱した対応をすることになった』と書いている。

 

その他、フィリピンとの『自由貿易協定の締結』(2006年、共産党は『賛成』することをほぼ決めていた)に関しては、不破氏が、『それでいいのか』と問題提起をしたのだという。

 

ただし、『常任幹部会の場では、小池政策委員長など多数が反対すべきだと表明し、不破氏も「本当にそれでいいのだね」と念押ししつつ、最終的には自説には固執しなかったそうだ』などと書いている(本書43ページ)。

 

その他、最近の事例では、2021年の総選挙で共産党が掲げた児童ポルノ規制の政策に関する党内の矛盾についても書かれている。

 

こうした記述を見て行くと(なお、これらは、本書の『第一章』に書かれている事柄であるが)『第二章 私には立候補する資格がある』などになると、いかにして松竹氏自身が、『党内の異論』を代表?するような人物であったか、あるいはその後、党内での活動よりも党員としての資格は残したままで、『安保・自衛隊問題』で党の外部の知識人やそれらの問題の専門家との交流を深めていったので、『自分が、いかによく知っているか』みたいな(半分)自慢話がたくさん出てくる。

 

これまで引用しきてきた内容を見てもわかるように、松竹氏はこの著書のなかで、『いかに共産党の大幹部たちは、物事についての知識・経験の幅が狭く、(ある意味で)自信を持てないでいる状態なのか』を微に入り、細に入り指摘している。

 

しかも、その書き方は、(普通に考えて)書かれた人々が『相当、嫌がるであろう』という書き方である。

 

こうした内容を読んでいくと、とてもではないが、松竹氏が、『党首公選制』を実現することで、それをきっかけにして、『共産党を良くしていこう』というような『善意』でこの本を書いているとは、なかなか、思いにくいのである。

(松竹氏が、『文春新書』の編集部に相当、騙されてしまっているのなら別の話だが…。)

 

このような欠陥がチラチラしている本を、ヨイショするような社説を書いているように見えてしまう『朝日新聞』や『毎日新聞』は何を考えているのだろうか?

そのような疑問も感じてしまう。