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【上野特別展『植物』】植物は、動く必要がない? 前篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国 (ameblo.jp)
13日に、上野の東京科学博物館で開催されている、『特別展・植物 ~地球を支える仲間たち』を見に行って来た。
前回、書いたようにこの展示会場にいたのは、1時間足らず。
かなり大勢の人が来ていて、しかも台湾などとは違って、狭い会場にびっしりといろんなものが展示されているのに、ややうんざりしてしまった。
『植物展なんて、人はあまり来ないぞ』とこの展示の『公式ガイドブック』(事前に、通販で取り寄せていた)には書いてあったのに、意外と来場者が多く、行列をなしているのに驚いたのも一因だ。
(そもそも、『公式ガイドブック』にあのように書いてあったのも、わざと『自虐的?』な書き方をすれば、大勢人が集まるのではないか…という線を狙ったのかもしれない。
植物学者も、政治家たちと同様に、『マーケティング』『集客効果』にばかり気を配るようになってしまっているのかもしれない。)
その展示内容(前回、紹介したものはのぞく)はこんなものだった。
これらは、順番に、
アフリカのナミブ砂漠にはえるキソウテンガイ(奇想天外、ウェルウィッチア・ミラビラス)という名の葉は、数百年も生き続けるというもの
(生きている限り、毎日、0.4ミリずつ葉を作り続けるという)
毒を持つ食物として有名で、推理小説などにも登場するハナトリカブトと、毒成分(アコニチン)を多く持つ根っこ
さらには、ライオンゴロシと呼ばれる、狂暴なとげをもつ果実(南アフリカの乾燥地の砂地に生息する)
などである。
一般に、植物というと、光合成で自ら栄養成分を生み出す、『平和な生き物』というイメージがあるが、
どうしてどうして、こんなに狂暴?なものも存在している。
植物というのは、『平和な生き物』ではないのか?
それとも、『平和』を維持するためには、このような『兵器』で武装される必要もあるということか?
自ら栄養を作り出すはずの、植物が、『動物を殺すこと』を前提にするような生き方をするのは、なぜなのだろうか?
いろいろ不思議なことがたくさんある。
このほか、『光合成の仕組み』の説明などもあったが、こういう話は意外と難しい。
実をいうと、今、孫娘二人が、それぞれ中学と高校に今年進学していて、彼女ら二人とも、母親(いわゆる『リケジョ』だった)の素質を受け継いで、『理系志望』で理科も好きらしい。
それで、高校時代、まるっきり(数学や物理、化学などの)『理系科目』が理解できずはなから勉強することをあきらめてしまったという過去を持つ、私としては(逆に)『理系科目』に対する(ほのかな)憧れももっている。
(なお、私が『理系科目』が出来なくなったのは、『超進学校』であった高校の教師の教え方が、『出来ない奴は、相手にしない』という『わからない奴ら』に興味を持たせて、教えようという気持ちのかけらもない、『けしからん教授法』であったことに大いに責任がある。
と、自分の不勉強を全く顧みる気のない、『なまけ生徒の成れの果て』である私は思っている。)
それで、孫娘二人が、中学や高校に進学したことを機に、彼らの使う『理科の教科書』あるいは『生物の教科書』なども、入手したりしたのだが、これが中学生の使うものをみただけでもかなり難しい。
これが、中学1年生と2年生の『理科の教科書』と、そのなかで私が比較的興味のある、植物に関する記述部分。
それが高校生になると、こんなことを習うようで、これはもはや現時点の私の『理解の範囲』を超えているみたいだ。
だから、『光合成』については、相当、難しいらしい。
実際、今回の展示では、こんなパネルが展示されていた。
私は、自分自身がそのうち、『高校で教えている内容』の一部でも理解できるようになれば良かろう(生きているうちに、本当に理解できるようになりそうもないが…。何しろ、こちらは、年々、脳細胞が劣化していくのを感じてつつある…)というくらいしか、思っていない。
今回、購入した『公式ガイドブック』には、こんなことも書いてあった。
<アリストテレスは「植物は逆立ちした人間である」とし、「植物」の根が頭部であり、その口で地面から食物を取り。また人間では
下半身にある生殖器官が花にあたるとした。>
これまでは、何となく、動物は、植物よりも偉く、その動物のなかで最も偉いのが人間であるという『序列付け』の発想が根強かった
という気がするが、そろそろ異なる発想も必要なのかもしれない。
ただし、非『西洋』では、もともと『動物が植物より、上である』という意識があまりなさそうな気もしているが…。
もっとも、<非『西洋』>といっても、いろんなのがあるから、そんなに簡単にひとくくりに出来るものでもないのだろう。