※Yahooからアメブロに引越して<2016年12月19日 21時02分46秒>に作成した記事の不具合を修正、加筆しての再投稿です。
 

 
明治大正
ロマノフ王朝ソビエト
大清帝国中華民国
李氏朝鮮大韓帝国日韓併合
開国-日清戦争 独立-日露戦争 密使-韓国併合 (まとめ)
 
今回、改めて李氏朝鮮の開国から、韓国併合までの道程を振り返って、韓国人は国内の派閥抗争に、諸外国を巻き込むことに長けていたことが改めて理解できた。
 
調べていくに従って、何が何でも「侵略」にしたい人の「横槍」が随所に加えられていることも目に付いた。また「為にする議論」や「資料の黙殺」も散見された。
 
国家間の条約など公文書や経緯と検証された当時の資料を読むだけでも脈絡が伝わって来るのだが、万端「侵略」に結びつけようとする「横槍」には、筋の通らぬ一貫性の乏しさだけが残り、故に「木を見て森を見ず」と感じた次第だ。
 
日本と朝鮮半島の序章

日本の軍艦を砲撃した江華島事件を切っ掛けに、守旧派(事大党)の興宣大院君(第26代王・高宗の実父)と開化派(独立党)の閔妃(高宗の妃、明成皇后)との20年に及ぶ抗争が激化し、開化派の閔妃日朝修好条規を締結して開国となった。
 
鎖国を主張していた興宣大院君の煽動を受けて、朝鮮の漢城で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員を殺害して、日本公使館を襲撃する壬午事変が発生する。
 
清国は大院君を捕らえ漢城城内で事変関係者の拘束を直接行った。この事件において行われた清国による数々の内政干渉は、開化派(独立党)の反発を深化させ、一層日本に接近させる結果となったが、日本はしばらく傍観の構えを見せた。
 
興宣大院君
興宣大院君
高宗
高宗
閔妃
閔妃(未確定)
金玉均
金玉均
伊藤博文
伊藤博文
 
金玉均朴泳孝徐載弼らの開化派(独立党)は、日本に渡航して近代化を学んで、帰国してから、甲申政変を起こす。
それまで開化派だった閔妃は、手のひらを返して清国に密使を送り、高宗閔妃の救出を要請した。それを受けた、袁世凱が率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人に攻め寄った。
 
国王高宗による甲午改革が行われたが、閔妃巫堂(シャーマニズム)に国費を浪費していたので、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士ら怒りを買い、乙未事変で暗殺された。
 
日清戦争

乙未事変の後も、属領と称し派兵を行った清国と、改革勢力による駐兵要求があると日本軍は、両国とも朝鮮半島に駐留を続けた。
朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐって、自主独立を推進する日本と、属領を保ちたい清国による日清戦争へと突入した。
 
光緒帝
光緒帝
李鴻章
李鴻章
大山巌
大山巌
山縣有朋
山縣有朋
明治天皇
明治天皇
 
結果は清国が敗れて日清両国講和条約が締結され、朝鮮国の自主独立を定められたが、満州鉄道の権益を持つ帝政ロシアが三国干渉で朝鮮半島の権益に手を伸ばした。
高宗は皇帝に即位し、独立して国号を「大韓帝国」と改めた。
 
国干渉に屈服し遼東還付条約を締結後、露清密約で旅順港、大連湾を租借にして、鉄道を敷設した。
 
日本を後ろ盾とする改革派と親露保守派が対立したが、高宗は皇帝専制による近代化を志向し、「光武改革」を打ち出した。
しかし、近代化に向けた国論の統一が奏功しなかったことや、国外からの干渉などから、大韓帝国が独自に近代化を進めることが困難を極めた。
 
仏独露の三国干渉を正当化する論拠とした黄禍論の高まりもあって、帝政ロシアは満州の権益に飽き足らず、大日本帝国が独立を保とうとする朝鮮半島への権益拡大を露骨に図ることになった。
 
日本資本で近代化を進めていた朝鮮半島で、大韓帝国の皇帝・高宗は鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などをロシアに売却した。
そしてロシアは大韓帝国の国家基盤を取得して朝鮮半島での影響力を増していった。
 
ロシアの南進に、日本は34年前に対馬芋崎に無断で上陸して、兵舎の建設、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設した「ロシア軍艦対馬占領事件」の再来を想起させて、日本としては重大な脅威と捉えた。
 
日露戦争

日本は「満韓交換論」などの外交努力で衝突を避けようとしたが、当時の常識から考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無く、ニコライ2世も主戦論に同調した。
 
日露間の緊張に「局外中立宣言」をした大韓帝国で、日本が軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結した。
 
旅順口攻撃の海軍戦で始まった日露戦争は、日本側戦没者88,429人、ロシア側戦死者25,331人を数え、20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず、各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。
 
開戦前に局外中立宣言を行った大韓帝国だが、開戦後、親日派知識人と親日派両班に加えて、清国の袁世凱は配下の北洋軍閥を用い諜報や馬賊隊編成などで日本に協力、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣した。
 
ニコライ2世
ニコライ2世
クロパトキン
アレクセイ・クロパトキン
袁世凱
袁世凱
東郷平八郎
東郷平八郎
乃木希典
乃木希典
 
一方、皇帝高宗をはじめとする支配者階級と親露派・独立派知識人と、満州の張作霖など一部の馬賊がロシア軍に協力していた。
 
日本は戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」を申し入れた。
アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトの立ち合いでポーツマス条約を締結し、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認された。
 
更にロシアは鉄道警備隊を除いて満州から撤退、樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡することになった。
多大な戦費を外債発行で調達した日本は、小村壽太郎全権大使が賠償金を取らなっかことに、耐乏生活を強いられてきた国民が怒り日比谷焼打事件などの暴動を起こした。
 
ポーツマス条約以降

ポーツマス条約に基づき、第二次日韓協約韓国統監府が設けられ、大韓帝国は大日本帝国の「保護国」となり、外交権は日本に移管した。
 
セルゲイ・ウィッテ
セルゲイ・ウィッテ
セオドア・ルーズベルト
セオドア・ルーズベルト
高平小五郎
高平小五郎
小村寿太郎
小村寿太郎
桂太郎
桂太郎
 
近年、伊藤博文の「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述のメモが発見され「保護国は韓国の国力がつくまで」と考えていたことが明らかになった。
 
第二次日韓協約に反発して、締結に当たった李完用学部大臣、李根沢軍部大臣、権重顯農商工部大臣、李夏栄法部大臣、朴斉純外部大臣、李址鎔内部大臣、閔泳綺度支部大臣を、大韓帝国内の抗日派が「乙巳五賊(実際には7人)」と呼んだ。
 
前軍部大臣の閔泳煥(閔妃の甥)を中心として乙巳五賊暗殺団を組織して、一方で第2回万国平和会議ハーグ密使を派遣した。
 
李完用らが上疏した「五大臣上疏文」では、締結交渉自体を拒否しようとした強硬派大臣たちに対し、高宗自らこれを戒め「交渉妥協」を導いた様子が報告され、かつ高宗は少しでも大韓帝国に有利になるように協約文の修正を行うこととし、李らの修正提案を積極的に評価している。
大日本帝国側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求を全て受け入れ協約の修正を行った。
 
これに対して第二次日韓協約の有効性を認めたくない側は、皇帝高宗は委任状を論拠に「密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みた」とも言われているが、この署名や印について、李儁烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事と古岩篆刻芸術院院長は「偽造された可能性が高い」と指摘している。
 
密使3人は、会議議長を務めるロシア帝国主席代表ネリドフ伯を訪問するが、面会を拒絶される。その後、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国代表を訪ね、更に会議開催国のオランダ外務大臣に面会を求めるが、すべて拒絶された。
またオランダ国立文書保管所の担当者によると「記録はまったく存在していない」と語っており、高宗による委任状の存在は確認されていない。
 
このハーグ密使事件をうけて、大韓帝国議会は高宗を退位させ、長男の純宗に皇位を譲位した。純宗は第2代大韓帝国皇帝に即位した。
 
純宗と日本で韓国統監の権限を強化する第三次日韓協約が締結され、大韓帝国は外交権に加えて内政権も日本が担うことになった。
 
韓国併合

宮廷での権力闘争に幻滅し、韓国の近代化を目指す開化派の宋秉畯、独立協会系の李容九、尹始炳が中心となって「一進会」が設立された。
 
一進会は「韓日合邦建議書」を皇帝純宗、第二代韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送り要請した。
 
純宗
純宗
宋秉畯
宋秉畯
李容九
李容九
李完用
李完用
寺内正毅
寺内正毅
 
こうした日韓の世論に後押しされて、明治43年(1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」を調印。両国皇帝の裁可をもって条約は発効して大韓帝国は滅亡し、日本の朝鮮総督府の統治下に入った。
 
これによってインフラへの莫大な投資を行い、台湾はいち早く単独経営に成功したにも関わらず、朝鮮半島は第二次大戦終戦時まで自力で独立できなかったようだ。
 
結論

清国は、冊封国として華夷秩序に組み込んでいたため、朝鮮半島との関わり方を熟知していたようで、宗主国として適度に関与していたのだろう。
 
一方、日本人は頼られると相手の身になって考えすぎるために、徐々に深みに入って行ったようだ。
加えて、日本人特有の曖昧さで時々を対応すると、後々つけいられて禍根を残す事も、身に染みて理解ができた。
 
一世紀以上前に起こった出来事なのに、現在でも未だに同じ方程式を感じるのは、各々の国民性に大きな変化はない…と云うことなのかもしれない。
 
韓国併合までの大まかな流れは、下記年表参照
 

1867(慶応03)年01月17日 香港在住、八戸順叔による「征韓論」を華字「中外新聞」掲載
1875(明治08)年09月20日 朝鮮国が大小砲で日本軍艦の端艇に砲撃した江華島事件発生
1876(明治09)年02月26日 日本と李氏朝鮮との間で日朝修好条規を締結
1882(明治15)年07月23日 政府高官と日本公使館を襲撃・殺害された壬午事変の締結
1882(明治15)年08月30日 日本軍による日本公使館の警備を約束した済物浦条約の締結
1884(明治17)年12月04日 近代化を進める開化派(独立党)による甲申政変が発生
1894(明治27)年07月10日 李氏朝鮮で行われた急進的な近代化改革、甲午改革の発布
1894(明治27)年07月25日 朝鮮半島をめぐる日本と大清国による日清戦争の開戦
1895(明治28)年10月08日 朝鮮親衛隊、警務使、日本軍らの閔妃を暗殺した乙未事変発生
1895(明治28)年11月30日 日清戦争一時的な休戦で合意が成立
1895(明治28)年04月17日 朝鮮の独立自主を清国が承認した日清両国講和条約の締結
1895(明治28)年04月23日 フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による三国干渉
1897(明治30)年10月12日 冊封国「李氏朝鮮」は 清国から独立して国号を大韓帝国成立
1903(明治36)年04月21日 山縣、伊藤、桂、小村による満韓交換論を詰めた無鄰庵会議
1904(明治37)年02月08日 旅順口攻撃日露戦争の開戦
1904(明治37)年02月23日 大韓帝国での軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結
1905(明治38)年09月04日 日本全権小村とロシア全権ウィッテでポーツマス条約を締結
1905(明治38)年09月05日 ポーツマス条約の締結で日露戦争が終戦
1905(明治38)年09月05日 講和条約に反対する国民集会で発生した日比谷焼打事件発生
1905(明治38)年11月17日 排他的指導権が列強に承認され第二次日韓協約で保護国化
1905(明治38)年12月21日 大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が韓国統監府を設置
1905(明治38)年12月22日 日清による南満州鉄道や関東州の租借権など満州善後条約締結
1907(明治40)年04月21日 第2回万国平和会議で抗日派により起されたハーグ密使事件
1907(明治40)年07月18日 ハーグ密使事件をうけて、大韓帝国議会は高宗の退位を決定
1907(明治40)年07月20日 第2代大韓帝国皇帝に皇太子であった純宗が即位
1907(明治40)年07月24日 高級官吏任免の一部権限を韓国統監が持つなど第三次日韓協約
1909(明治42)年12月04日 大韓帝国の親日「一進会」が韓日合邦建議書で対等合併を要望
1909(明治42)年10月26日 ハルビン駅で暗殺者「安重根」による伊藤博文暗殺事件
1910(明治43)年08月22日 両皇帝の統治権を日本に譲与する韓国併合ニ関スル条約を締結
1910(明治43)年09月30日 大日本帝国領となった朝鮮を統治するため朝鮮総督府を設置
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