dumy
※Yahooからアメブロに引越して<2016年12月17日 18時04分53秒>に作成した記事の不具合を修正、加筆しての再投稿です。
 

 
明治大正
ロマノフ王朝ソビエト
大清帝国中華民国
李氏朝鮮大韓帝国日韓併合
開国-日清戦争 独立-日露戦争 密使-韓国併合 (まとめ)
 
日清戦争前後の明治27年(1894年)から同28年(1895年)にかけて、欧州では新聞、パンフレット、雑誌などのマスメディアに「黄禍(Yellow Peril)」が流布されるようになった。
 
阿片戦争アロー戦争(第二次阿片戦争)を経て、安政6年(1860年)に締結された北京条約で、イギリスや海外の商社が中国人を雇用する権利を承認させた。
 

 
黄禍論は元々海外に進出した中国人に対する脅威論であったが、日本に対する仏独露の三国干渉を正当化する論拠として使われた。
 

The Yellow Menace (1916年9月)
 
オーストラリアでは「白豪主義」とも云われ、大量に流入する中国人に仕事を奪われる労働組合が先頭に立って黄色人種排斥運動が展開され、オーストラリア植民地政府は黄禍論を出発点に外交政策を立てたため、日英同盟を結んでいたイギリス本国の外交政策とは大きな隔たりがあった。
 

 
明治28年(1895年)4月23日に仏独露による三国干渉で、帝政ロシアが満州の権益を手にしてから、対日強硬派は、更に満州のみならず朝鮮への進出を決議(韓国併合した。
 
日本資本で近代化を進めていた朝鮮半島で、大韓帝国の皇帝・高宗は鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などをロシアに売却した。
そしてロシアは大韓帝国の国家基盤を取得して朝鮮半島での影響力を増していった。
 
ニコライ・ビリリョフ
ニコライ・ビリリョフ
こうしたロシアの南進に、日本は34年前の文久元年(1861年)に対馬芋崎に無断で上陸して、兵舎の建設、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設したロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフによる「ロシア軍艦対馬占領事件」の再来を想起させ、重大な脅威と捉えた。
 
当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。元々ドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めて、明治11年(1878年)にベルリン条約を締結した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
 
ロシア帝国は不凍港を求めて、露清密約を結び、三国干渉で日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を明治31年(1898年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満州への進出を押し進めていった。
 

 
明治33年(1900年)にロシアは清で発生した義和団の乱の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。
 



「無鄰庵」部屋、洋館2階
明治36年(1903年)4月21日、京都にあった山縣有朋の別荘・無鄰菴で政友会総裁・伊藤博文、元老・山縣、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎による「無鄰庵会議」が行われた。
 
この時、桂は「満韓交換論」とも言うべき対露方針について、伊藤と山縣から「対露方針四個條」の同意をとりつけた。
  1. 露国にして、満州還付条約を履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露国に抗議すること。
     
  2. 満州問題を機として、露国と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。
     
  3. 朝鮮問題に対しては、露国をして我が優越権を認めしめ、一歩も露国に譲歩せざること。
     
  4. 満州問題に対しては、我に於て露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。
     

 
明治36年(1903年)8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという「満韓交換論」をロシア側へ提案した。
 
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。
 
当時の常識から考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった訳だ。ニコライ2世や陸軍大臣・アレクセイ・クロパトキンも主戦論に同調した。
 

開戦時の戦力比較(露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、
砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千)
 

 
一方で、日露間の緊張に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために、明治37年(1904年)2月23日、日韓議定書を締結した。
 
大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔ハ各相当ノ委任ヲ受ケ左ノ条款ヲ協定ス。
 
第一条
日韓両帝国間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル為大韓帝国政府ハ大日本ヲ確信シ施政ノ改善ニ関シ其ノ忠告ヲ容ルゝ事
第二条
大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ皇室ヲ確実ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事
第三条
大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事
第四条
第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事
第五条
両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事
第六条
本協約ニ関連スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事
 
そして明治37年(1904年)2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使・栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。
 

 
戦費調達で日本銀行副総裁・高橋是清が苦労した話は有名だが、イギリスのデーヴィッド・キャメロン前首相の高祖父は、当時の香港上海銀行ロンドン支店長であり、イギリスで多大な助力を得た。また帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街で調達した話も有名だ。
 

日露戦争の経過
 
日露戦争の戦闘は、明治37年(1904年)2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。
 
旅順口の沈船
旅順口に沈む露艦レトウヰザンとポルタワ
 
大日本帝国陸軍は、明治37年(1904年)4月30日の鴨緑江会戦で火蓋が切られ、乃木希典大将率いる第三軍の203高地で名高い旅順攻囲戦がある。
 

水師営の会見」乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した明
 
ロシア陸軍の降伏により、水師営の会見で乃木希典将軍が、 アナトーリイ・ステッセル将軍との会見で、ステッセルは乃木大将の二人の子息の戦死に対して弔意を述べ、乃木大将から帯剣のままでの降伏調印と云う礼節を受けた事に付いて深く陳謝を述べた上で、お互いの健闘を称えあった事実を考慮するに、一流の騎士道精神を重んじた軍人であったと推察される。
 

 
開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。
 
  1. 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
  2. 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
  3. 韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権、譲与若ハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ
 
明治三十七年八月二十二日 特命全権公使 林権助
光武八年八月二十二日 外部大臣署理 尹致昊
 
大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
 

妓生と両班たち(1910年)
 
一方、高宗両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。
 

 

連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎大将
 

日本海海戦での各艦の行動 Wikipedia
明治38年(1905年)5月27日のバルチック艦隊と東郷平八郎大将率いる日本海軍の連合艦隊による「日本海海戦」が行われた。
 
仮装巡洋艦信濃丸」の27日朝に送った通信文。
「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」
「敵ノ第二艦隊見ユ 203地点」
「敵ハ對州(対馬)東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ」
「敵艦隊15隻以上ヲ目撃ス」
 
連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電。
 
日本海軍は、旗艦「三笠」を先頭に、敵前大回頭、同航砲撃戦など戦術を駆使し、屈強な「バルチック艦隊」を対馬沖で向かい撃った。
 
アルゼンチン海軍大佐で日進の建造委員長だったマヌエル・ドメック・ガルシアは観戦武官として乗艦しており、その記録を「海戦記」としてまとめている。
 
 

 
明治38年(1905年)9月5日アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で「ポーツマス条約」が調印された。
 

ポーツマス講和会議のレセプション
ロシア・アメリカ・日本の関係者の集合写真で
最前列(やや右)中央の背の高い人物がウィッテ
その三つ右隣で、一際背の低い人物が小村、その右が高平。
 
アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトの立ち合いで締結した条約の骨子は以下の通り。
  1. 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  4. ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  5. ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

 
ポーツマス条約によて、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、明治38年(1905年)11月17日の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて大日本帝国の保護国となった。
 
日本國政府及韓國政府ハ兩帝國ヲ結合スル利害共通ノ主義ヲ鞏固ナラシメムコトヲ欲シ韓國ノ富強ノ實ヲ認ムル時ニ至ル迄此目的ヲ以テ左ノ條款ヲ約定セリ
  • 一條 日本國政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓國ノ外國ニ對スル關係及事務ヲ監理指揮スヘク日本國ノ外交代表者及領事ハ外國ニ於ケル韓國ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ
  • 二條 日本國政府ハ韓國ト他國トノ間ニ現存スル條約ノ實行ヲ全フスルノ任ニ當リ韓國政府ハ今後日本國政府ノ仲介ニ由ラスシテ國際的性質ヲ有スル何等ノ條約若ハ約束ヲナササルコトヲ約ス
  • 三條 日本國政府ハ其代表者トシテ韓國皇帝陛下ノ闕下ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル爲京城ニ駐在シ親シク韓國皇帝陛下ニ内謁スルノ權利ヲ有ス日本國政府ハ又韓國ノ各開港場及其他日本國政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レヂデント)ヲ置クノ權利ヲ有ス理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ從來在韓國日本領事ニ屬シタル一切ノ職權ヲ執行シ並ニ本協約ノ條款ヲ完全ニ實行スル爲必要トスヘキ一切ノ事務ヲ掌理スヘシ
  • 四條 日本國ト韓國トノ間ニ現存スル條約及約束ハ本協約ノ條款ニ抵觸セサル限總テ其效力ヲ繼續スルモノトス
  • 五條 日本國政府ハ韓國皇室ノ安寧ト尊嚴ヲ維持スルコトヲ保証ス
右証據トシテ下名ハ本國政府ヲリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ
明治三十八年十一月十七日 特命全權公使 林權助
光武九年十一月十七日 外部大臣 朴齊純
 
高宗皇帝の李完用(学部大臣)、李根沢( 軍部大臣)、権重顯(農商工部大臣)、李夏栄(法部大臣)、朴斉純(外部大臣)、李址鎔(内部大臣)、閔泳綺(度支部大臣)が、外交文書の作業を進めて、外部大臣の朴斉純が締結文書に署名した。
 
第二次日韓協約(乙巳年に締結したという意味で乙巳條約とも云う)に賛同した大韓帝国の五名の閣僚を、反対派は批判して「乙巳五賊」と呼んだ。
 

 
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主な陸戦地域
 
清国に対しては、明治38年(1905年)12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。
 
大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ均シク明治三十八年九月五日即光緒三十一年八月七日調印セラレタル日露兩國講和條約ヨリ生スル共同關係ノ事項ヲ協定セムコトヲ欲シ右ノ目的ヲ以テ條約ヲ締結スルコトニ決シ之カ爲メニ大日本國皇帝陛下ハ特派全權大使外務大臣從三位勳一等男爵小村壽太郎及特命全權公使從四位勳二等内田康哉ヲ大清國皇帝陛下ハ欽差全權大臣軍機大臣總理外務部事務和碩慶親王欽差全權大臣軍機大臣外務部尚書會辧大臣瞿鴻禨及欽差全權大臣北洋大臣太子少保直隷總督袁世凱ヲ各其ノ全權委員ニ任命セリ因テ各全權委員ハ互ニ其ノ全權委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ條項ヲ協議決定セリ
  • 一條、清國政府ハ露國カ日露講和條約第五條及第六條ニヨリ日本國ニ對シテ爲シタル一切ノ讓渡ヲ承諾ス
  • 二條、日本國政府ハ清露兩國間ニ締結セラレタル租借地竝鐵道敷設ニ關スル原條約ニ照シ努メテ遵行スヘキコトヲ承諾ス將來何等案件ノ生シタル場合ニハ隨時清國政府ト協議ノ上之ヲ定ムヘシ
  • 三條、本條約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且大日本國皇帝陛下及大淸國皇帝陛下ニ於テ之ヲ批准セラルヘシ該批准書ハ本條約調印ノ日ヨリ二箇月以内ニ成ルヘク速ニ北京ニ於テ之ヲ交換スヘシ
右證據トシテ兩國全權委員ハ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本條約ニ署名調印スルモノナリ
 
明治三十八年十二月二十二日即光緒三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
大日本帝國特派全權大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村壽太郎(記名)印
大日本帝國特命全權公使從四位勳二等 内田康哉(記名)印
大淸國欽差全權大臣軍機大臣總理外務部事務 慶親王(記名)印
大淸國欽差全權大臣軍機大臣外務部尚書會辦大臣 瞿鴻禨(記名)印
大淸國欽差全權大臣北洋大臣太子少保直隷總督 袁世凱(記名)印
 

 
(附属協約)
 
日淸兩國政府ハ滿洲ニ於テ双方共ニ關係ヲ有スル他ノ事項ヲ決定シ以テ遵守 ニ便ナラシムル爲メ左ノ條項ヲ協定セリ
 
  • 一條、淸國政府ハ日露軍隊撤退ノ後成ルヘク速ニ外國人ノ居住及貿易ノ爲ノ自ラ進ミテ滿洲ニ於ケル左ノ都市ヲ開クヘキコトヲ約ス
    盛京省 鳳凰城 遼陽 新民屯 鐵嶺 通江子 法庫門
    吉林省 長春(寛城子) 吉林 哈爾賓 寧古塔 琿春 三姓
    黒龍江省 齊齊哈爾 海拉爾 愛琿 滿洲里
  • 二條、淸國政府ハ滿洲ニ於ケル日露兩國軍隊竝ニ鐵道守備兵ノ成ルヘク速ニ撤退セラレムコトヲ切望スル旨ヲ言明シタルニ因リ日本國政府ハ淸國政府ノ希望ニ應セムコトヲ欲シ若シ露國ニ於テ其ノ鐵道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ淸露兩國間ニ別ニ適當ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本國政府モ同樣ニ照辦スヘキコトヲ承諾ス若シ滿洲地方平靖ニ歸シ外國人ノ生命財産ヲ淸國自ラ完全ニ保護シ得ルニ至リタル時ハ日本國モ亦露國ト同時ニ鐵道守備兵ヲ撤退スヘシ
  • 三條、日本國政府ハ滿洲ニ於テ撤兵ヲ了シタル地方ハ直チニ之ヲ淸國政府ニ通知スヘク淸國政府ハ日露講和條約追加約款ニ規定セル撤兵期限内ト雖既ニ上記ノ如ク撤兵完了ノ通知ヲ得タル各地方ニハ自ラ其ノ安寧秩序ヲ維持スル爲メ必要ノ軍隊ヲ派遣スルコトヲ得ルモノトス日本國軍隊ノ未タ撤退セサル地方ニ於テ若シ土匪ノ村落ヲ擾害スルコトアル時ハ淸國地方官モ亦相當ノ兵隊ヲ派遣シ之ヲ勦捕スルコトヲ得但シ日本國軍隊駐屯地界ヨリ二十淸里以内ニ進入スルコトヲ得サルモノトス
  • 四條、日本國政府ハ軍事上ノ必要ニヨリ滿洲ニ於テ占領又ハ收用セル淸國公私財産ハ撤兵ノ際悉ク淸國官民ニ還附シ又不用ニ歸スルモノハ撤兵前ト雖之ヲ還附スルコトヲ承諾ス
  • 五條、淸國政府ハ滿洲ニ於ケル日本軍戰死者ノ墳墓及忠魂碑所在地ヲ完全ニ保護スル爲メ總テ必要ノ處置ヲ執ルヘキコトヲ約ス
  • 六條、淸國政府ハ安東縣奉天間ニ敷設セル軍用鐵道ヲ日本國政府ニ於テ各國商工業ノ貨物運搬用ニ改メ引續キ經營スルコトヲ承諾ス該鐵道ハ改良工事完成ノ日ヨリ起算シ(但シ軍隊送還ノ爲メ遲延スヘキ期間十二箇月ヲ除キ二箇年ヲ以テ改良工事完成ノ期限トス)十五箇年ヲ以テ期限ト爲シ即光緒四十九年ニ至リテ止ム右期限ニ至ラハ双方ニ於テ他國ノ評價人一名ヲ選ミ該鐵道ノ各物件ヲ評價セシメテ淸國ニ賣渡スヘシ其ノ賣渡前ニ在リテ淸國政府ノ軍隊並兵器糧食ヲ輸送スル場合ニハ東淸鐵道條約ニ準據シテ取扱フヘク又該鐵道改良ノ方法ニ至テハ日本國ノ經營擔當者ニ於テ淸國ヨリ特派スル委員ト切實ニ商議スヘキモノトス該鐵道ニ關スル事務ハ東淸鐵道條約ニ準シ淸國政府ヨリ委員ヲ派シ査察經理セシムヘク又該鐵道ニ由リ淸國公私貨物ヲ運搬スル運賃ニ關シテハ別ニ詳細ナル規程ヲ設クヘキモノトス
  • 七條、日淸兩國政府ハ交通及運輸ヲ増進シ且之ヲ便易ナラシムルノ目的ヲ以テ南滿洲鐵道ト淸國各鐵道トノ接續業務ヲ規定セムカ爲メ成ルヘク速ニ別約ヲ締結スヘシ
  • 八條、淸國政府ハ南滿洲鐵道ニ要スル諸般ノ材料ニ對シ各種ノ税金及釐金ヲ免スヘキコトヲ承諾ス
  • 九條、盛京省内ニ於テ既ニ通商場ヲ開設シタル營口及通商場トナスヘク約定シアルモ未タ開カレサル安東縣並奉天府各地方ニ於テ日本居留地ヲ劃定スル方法ハ日淸兩國官吏ニ於テ別ニ協議決定スヘシ
  • 十條、淸國政府ハ日淸合同材木會社ヲ設立シ鴨緑江右岸地方ニ於テ森林截伐ニ從事スルコト其ノ地區ノ廣狭年限ノ長短及會社設立ノ方法並合同經營ニ關スル一切ノ章程ハ別ニ詳細ナル約束ヲ取極ムヘキコトヲ承諾ス日淸兩國株主ノ利權ハ均等分配ヲ期スヘシ
  • 十一條、滿韓國境貿易ニ關シテハ相互ニ最惠國ノ待遇ヲ與フヘキモノトス
  • 十二條、日淸兩國政府ハ本日調印シタル條約及附屬協約ノ各條ニ記載セル一切ノ事項ニ關シ相互ニ最優ノ待遇ヲ與フルコトヲ承諾ス
 
本協約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且本日調印ノ條約批准セラレタル時ハ本協約モ亦同時ニ批准セラレタルモノト看做スヘシ
右證據トシテ下名ハ各其本國政府ヨリ相當ノ委任ヲ受ケ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本協約ニ記名調印スルモノナリ
 
明治三十八年十二月二十二日即光緒三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
大日本帝國特派全權大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村壽太郎(記名)印
大日本帝國特派全權行使從四位勳二等 内田康哉(記名)印
大淸國欽差全權大臣軍機大臣總理外務部事務 慶親王(記名)印
大淸國欽差全權大臣軍機大臣外務部尚書會辦大臣 瞿鴻禨(記名)印
大淸國欽差全權大臣北洋大臣太子少保直隷總督 袁世凱(記名)印
 

 
目賀田種太郎
目賀田種太郎
日露戦争の結果、三国干渉で手放した南満州鉄道の権益を、再びロシアから受け継いだ。更に、大韓帝国は大日本帝国の「保護国」となった。あらかじめ日本は大韓帝国の財政状況を把握するために目賀田種太郎を大韓帝国財政顧問として派遣調査していた。
 
朝鮮半島の乱脈財政は、今に始まった訳ではなく、100年以上前から同じ繰り返しだったようだ。当時の大韓帝国は国家運営の基本さえままならなかった。
 
由来、韓国財政の如く紊乱を極めたるもの其の例少なく、ただ収斂に亞ぐに収斂を以てし、産業衰頽し、民力疲弊し、終に国力の振はざる今日の如きに至れり。
而してその原因たるや、上下官民を通じ国家に対する誠意の欠乏に在るは言を俟たずといえども、これら社会的原因を除き専ら財政制度上不備なりし主要なる原因を数ふれば
(一)貨幣の紊乱
(二)宮中および府中の混同
(三)歳出の濫発および歳入機関の不整頓
なり
 
明治37年(1904年)大韓帝国財政顧問・目賀田種太郎『韓国財政整理報告』より
 
貨幣の信用は殆んど地に落ち、物価の変動極まりなく、これがため財政および経済上に及ぼしたる影響は甚だ深酷を極む
 
明治38年(1905年)、初めて近代的な国家予算を組んでみると、大韓帝国の歳入は748万円。歳出見積は3000万円と云われていた。
結局、差額の2000万円以上は、日本から無利子、無期限の借款で賄うことになった。
 

 
福沢諭吉
福沢諭吉
韓国と中共の反日政策で、すっかり有名になった「脱亜論」は、新聞「時事新報」紙上に明治18年(1885年)3月16日に掲載された無署名の社説である。福沢研究会編『福沢研究』第6号に掲載され、筆者は福沢諭吉と言われている。
 
脱亜論では、明治時代の先人たちが当時から支那と朝鮮に苦労していた様子が伝わってくる。それにしても「悪友」とは良く云ったもの…現代の政治家や官僚に聞かせてやりたい。
 
然ルニ爰ニ不幸ナルハ近鄰ニ國アリ一ヲ支那ト云ヒ一ヲ朝鮮ト云フ
しかしここに不幸なのは隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。


鄰國ナルガ故ニトテ特別ノ會釋ニ及バズ正ニ西洋人ガ之ニ接スルノ風ニ從テ處分ス可キノミ
隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。
惡友ヲ親シ者ハ共ニ惡名ヲ免カル可ラズ我レハ心ニ於テ亞細亞東方ノ惡友ヲ謝絕スルモノナリ
悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。
 
正に言いえて妙。
 
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