一般的に、be動詞の後ろには他の単語がつづく。

I am a student. 

この場合で言えば、"a student"がbe動詞である"am"のあとに続いている。

しかし、be動詞だけでも「存在する」という意味で使われる。
そもそも上の文も「私は生徒として存在する」となり、「私は生徒で在(あ)る」と解釈できる。

"Human being"は「人間としての存在」というので「人類」と訳される単語である。

他にも、Cogito ergo sumの対語として"I think. Therefore i am."というあyフレーズがある。

哲学者のルネ・デカルトが「この世でホントに存在するものなんか一つもないんだけど、そういう風に疑っている自分っていうのは存在してるんだなぁ」と思いながら放った一言である。

このとき、"am"が「存在する」という意味のbe動詞として使われている。
従って、その訳は「我思う。故に我在り」である。

もうひとつ例をあげる。

聖書の「創世記」5:24からの引用である。
"And Enoch walked with God: and he was not; for God took him."

これは否定形で使われて「存在しない」という意味で用いられている。

「エノクは神とともに歩み、いなくなった。というのも神が彼をとられたから。」

be動詞が単体でつかわれるケースは特別なものではないことが分かる。
そしてそれは「存在する」という意味で使われることが条件である。

ここから理解しづらいbe to用法と呼ばれる文法事項を取り上げてみる。
be to用法の意味として挙げられるのは、義務・予定・運命・可能・意思がある。

しかしここではそのような細かい話は置いておいて、be動詞の本質からこの文法を読み解いてみたい。

そのまえにto不定詞のイメージを固定しておきたい。それは「到着点を指し示すto」である。
例えば、I went to the bookstore.のなかに使われているtoは「本屋(まで)」と「到着点を指し示すto」として使われている。

I came home to find my house had been broken into.
このときのtoも「到着点(結果)を示す」機能を果たしている。

「家に帰ってきたが、その結果、家が空き巣被害に遭っていたことがわかった」と訳される。

be to用法のtoもこの形であると固定して考えてみよう。

You are to clean your room.

この時のbe動詞を「存在する」という意味で考えてみる。
まず、You areで「お前は存在する」という意味である。

では何に対して存在しているのか。それを表しているのが「到着点を指し示すto」以降に書かれている。

「お前の部屋を掃除する」ということに向かって(それを到着点として)、と訳してみよう。
つまりこの文章の訳語は「お前は、お前の部屋を掃除するということに向かって存在しているのだ!」となり、自然な日本語にすれば「お前、自分の部屋そうじしろよ」となる。

これは「義務」のカテゴリーにいれられている使い方だ。他には予定・運命・可能・意思があり、それぞれに対応した例文を下に記す。be 「存在する」、toの使い方に注意されたい。

予定
I was to see my girlfriend next day.

運命
A shadow was soon to fall upon her.

可能
The result is yet to be seen.

意思
If you are to pay by yourself, you have to start working tomorrow.

単語の本質から、文法における煩わしい暗記事項を省くこともできる例といえるかもしれない。
salad
sausage
うえの単語の意味は、「サラダ」、「ソーセージ」であるのは、明らかである。
一見、お互いには関連がないように思われるが、その語源は同じものである。

ラテン語で「塩」をあらわす'sal'から来た単語であるからだ。
サラダには塩が不可欠であるし、ソーセージは塩を振られた肉が使われる。

塩というものは人間が生きてくのになくてはならないものであり、古代の文明は川のちかくで塩が採取できるところで発達したのはいうまでもない。

ラテン時代の兵士たちは、給料をもらって従軍していたのであるが、その給料の主な使い道は塩の購入に充てられていた。

したがって、給料をあらわす単語である'salary'にも、ラテン語の'sal'が入っているのである。
ノドにある骨のことをのど仏というが、これはその骨の形状が座禅をしている仏様のようにみえることに由来している。

英語ではこれを 'Adam's Apple'(アダムのりんご) と呼ぶ。
アダムは聖書によれば最初の人類である。最初の女性はイブとなっている。

エデンでイブはアダムにりんごを渡して食べるようにいった。
しかしアダムはりんごを初めて食べたのでうまく飲み込めず、その一部がのどに詰まってしまった。
これでのどが膨らみ、のど仏となった。一方イブは上手く飲み込めた。したがって女性ののど仏は概して男性のそれより小さいとされる。

しかしこれは単なる後付けであって、事実は聖書の語訳にあるということである。
聖書の原点はヘブライ語である。そして'Adam's Apple'の箇所は元来'Bump of Man'と書かれていた。

Manはヘブライ語でAdam、Bumpは「ふくらみ」という意味であるが、これを訳するときに誤ってAppleとしてしまった。Bumpのヘブライ語は「ふくらみ」という意味があると同時に「りんご」の意味もあったからである。

Bump of Adamとされるべきものが、Apple of Adamとされてしまったのである。
したがってのど仏がAdam's Appleと呼ばれるにいたったわけである。