南京事変の証言 報知新聞 田口記者
南京事変の証言
報知新聞 田口利介記者
聞き手 阿羅健一氏
ー(昭和12年12月13日)中山門から(南京城に)入ったのですか?
田口「そうです。中山門の内側には土嚢がぎっしり積まれていましたが、私が入った時は中山門の一部の土嚢が取り除かれていましたからここから上がりました。
城内は静かで弾の音もしませんでした。それまで相当ガンガンやってましたがねえ。
中山門から入ったところが中山東路という大きい通りで、人間は愚か猫の子一匹いないと行った様子でした。
中山東路を少し行ったところに国民政府の建物がありましてね、入って見て驚いたのは、蒋介石の生活がそのまま残っていて、蒋介石がまるでそこにいる様でした。
机の上には鉛筆や筆があって、すぐ仕事ができる様な状態でした。12月7日頃、逃げたと言いますから慌てて逃げたのでしょう。
それに浴室にビデがありましてね。最初、これを見て何かわからなくて、途中はたとビデだと気がつきました。
ビデは名前だけは知っていましたが、実際見るのは初めてでした。」
ー南京城内はどうでしたか?
田口「死体は2、3体だけでした。中国軍は下関(シャーカン)の方から逃げたと言ってましたので、一度、下関の方に行ったことがあります。
下関というのは揚子江のところの波止場で、そこは一つの町です。
下関の方に行くにもいくつかの門がありますから、どの門から入ったのかわかりませんが、行って見ると何もありませんでした。
逃げた後だったからかもしれません。」
ー他に南京で印象的なことは?
田口「ある日、紫金山の中山陵に詣でました。白い花崗岩で作った幅の広い三百余段の緩やかな階段があり、壮大なもので下が、ここだけは一発の弾も撃ち込まれていなかったので、ホット胸をなでおろした記憶があります。」
ー南京で虐殺があったと言われていますが。
田口「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」
ー第16師団の軍紀はどうでした?
田口「私が見た限り特にどういうことはありませんでした。ただ、南京い向かう途中でしたが、第16師団の曹長で、百人斬りをするんだと言ってたのがいました。
南京まで百人斬ったかどうか知りませんけど、戦友の仇を取るんだと言って、中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣兵もいたと言います。」
ー周りの人は曹長をにてどう思っていたのでしょうか?
田口「誰もいいことだと思ってないでしょう。私もそれを見て、戦争では殺すか殺されるかだと思いました。
曹長は仇を取ることに夢中でしたが、気の小さい人だと思います。」
ー南京にはいつまでいましたか?
田口「入城式までです。次の日に慰霊祭があったことは、あとで聞きました。
ー南京事件を知ったのはいつですか?
田口「最近です。前田(雄二同盟通信記者)君の本なんか読んでね。あの本には下関(シャーカン)に死体があったと書いてありましたが、私が行った時はありませんでした。
私と同じく海軍の従軍記者の岩田岩二氏が、遅れて揚子江から砲艦で南京入りしましたが、彼は、南京が近づくと無数の死体が流れてきたと言ってました。
しかし、その当時は、これが大虐殺によるものかどうか、ピンときませんでした。」
ー南京事件はすでに東京裁判で取り上げられていますが。
田口「私はその頃、シベリアに抑留されてまして、戻ってきたのは、最後の引き揚げ船で、昭和25年でした。ですから戦後5年間のことは空白です。
でも私が日本に戻ってからも南京虐殺ということは聞いたこともなく、聞くようになったのはやはりここ10年だと思います。
自分の体験から何が南京虐殺かよくわかりませんし、虐殺が誇大に取り上げられているようで、それは陸軍ファシズムへの反対のため、あるいは中共軍の宣伝というような気がします。」
(「「南京事件」日本人48人の証言」阿羅健一著)
中山陵とは、革命の父と言われている、孫文のお墓になります。
なぜ、この中山陵には一発の弾がうち込まれることがなかったのでしょうか?
南京攻略戦の総司令官であった松井石根大将は、次のような指令を部下に厳命したので、難民安全区には一発の砲弾も打ち込まれることはありませんでした。
松井大将は、南京陥落に際して、7か条の「南京城攻略要項」を参謀たちに指令しました。
その第7条には次のようにありました。
「皇軍(日本軍のこと)が外国の首都(南京のこと)に入城するは有史以来の盛事にして、
永くにたるべき実績たると世界の斉しく注目しある大事件なるに鑑み、
正々堂々将来の模範たるべき心組みをもって、各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為絶対に無からしむるを要す。」
また、南京陥落に伴い、参謀とは別に下士官たちに次のような訓令を出しました。
「特に敵軍といえども抗戦意思を失いたるもの及び一般市民に対しては寛容慈悲の態度を取り、これを愛護せよ」と。
松井大将は孫文と交流があった日本陸軍を代表する親中国派でした。蒋介石が日本に留学中の時も、下宿先の保証人になったりして、面倒を見ていました。
東京裁判で、日高参事官は次のように証言しました。
「松井大将は、南京市の地図に外国大使館などをマークしたものを多数作り、これを軍隊に配られました。
その地図には更に中山陵(孫文の墓)と、明孝陵(明の初代皇帝 朱元璋の墓)を赤い円で囲み、絶対に破壊を避けるべき地点であることが記載してありました。
この2箇所の付近では、一切大砲を使用することを禁止されたのです。」
(東京裁判「速記録」第309号)
これほどまでに、松井大将は、中国の文化財保護を重視したのです。
また、田口記者が、南京大虐殺を聞くようになったのは、ここ10年(当時、昭和61年ですので、昭和51年ごろから)であると話していました。
なぜ、戦後まもなくではなく、昭和51年以降になってから南京大虐殺が、広く話題になるようになったのでしょうか?
1958年版の中国の「中学歴史教師指導要領」の中の「中学歴史大事年表」の1937年には単に、「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」としか記載がありません。
その一方、1927年には「412大虐殺」と記載があります。
412大虐殺とは、蒋介石が共産党員やそのシンパたちを殺害した事件で、死者120人負傷者180人でした。
”南京大虐殺”という言葉が、教科書に登場するよになったのは、毛沢東が死去した、昭和51年(1976年)以降になります。
南京大学の高興祖教授が南京大虐殺のテーマで本を出版しようとしましたが、外部に出版することを禁じられました。
毛沢東は南京に20数回訪問していますが、一度も”南京大虐殺”という言葉を発言していませんでした。
また、毛沢東は、現在、中国全土に100以上ある:南京大虐殺”記念館を、一つも建設しませんでした。
その一方で、1956年に、南京太平天国歴史博物館を建設しました。
この太平天国とは、皇紀2511年(西暦1851年)1月、清王朝の反乱軍である太平天国軍が首都南京に侵攻した際、100万人以上の大虐殺を行ったという歴史的事実を展示する記念館です。
この反乱で、中国全土で2、000万人から5、000万人もの犠牲者が出たと言われています。(太平天国の乱)
ここまで徹底して、”南京大虐殺”を封印してきた毛沢東。
なぜ、毛沢東は、南京大虐殺を広く宣伝(プロパガンダ)しようとしなかったのでしょうか?
南京事変が起きた昭和12年12月当時、毛沢東は、延安の山奥に隠れていました。
日本軍との戦闘は、蒋介石の国民党軍が前面に出て繰り広げていたのです。
しかし、中国共産党は、昭和24年10月1日に建国してから毛沢東が生きていた時代、中国人民には次のように、骨の髄まで徹底的に刷り込んでいきました。
「抗日戦争を戦ったのは勇猛な八路軍や新4軍(後の人民解放軍)であり、国民党軍(蒋介石)は山に逃げ、特に蒋介石は日本敗戦の後、初めて山から降りてきて、国共内戦(毛沢東と蒋介石との内戦)を始めた。」と。
「毛沢東は神のごとく神聖で偉大であり、蒋介石は日中戦争において戦わなかった売国奴である」と。
このように中国人民に対して、宣伝(プロパガンダ)してきたので、”南京大虐殺”があったとして公開されてしまうと、毛沢東にとって非常に都合が悪いことになってしまうのです。
なぜなら、南京を首都において日本軍と戦っていたのは、実は、毛沢東ではなく蒋介石国民党軍であったと、わかってしまうからです。
よって、毛沢東は、生きている間、南京大虐殺があったという宣伝(プロパガンダ)を日本や世界に対して、一切行わなかったのです。
この宣伝が積極的に行われるようになったのは、改革開放を行なった、鄧小平が中国共産党の権力を握るようになってからです。
参考図書
「毛沢東ー日本軍と共謀した男ー」新潮社 遠藤誉著
「「南京事件」日本人48人の証言」阿羅健一著
「南京事件の総括」田中正明著
「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」水間政憲著
写真
佐藤振寿カメラマン撮影
南京陥落2日後(昭和12年12月15日)南京安全区付近にて。
中山北路の東側の安全区付近では水餃子の露店が出ていた。日本兵のお客様第一号だろうか。日本兵と南京人民は有効関係にあった。