南京事変の証言 東京朝日新聞 橋本喜三郎氏 | 誇りが育つ日本の歴史

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南京事変の証言 東京朝日新聞 橋本喜三郎氏

 

南京事変の証言

東京朝日新聞(現在の朝日新聞)橋本登美三郎上海支局次長

聞き手 阿羅健一氏

 

橋本登美三郎氏は佐藤栄作内閣で官房長官、田中角栄内閣で幹事長を歴任したかたです。

 

ー南京攻略戦以前に南京にいらしたので、南京のことは詳しいと思いますが。

 

橋本「私は支那事変が勃発したとき、南京支局長をやっていてね、当時、支局長は日本大使館とは離れた街の中にありました。

 

同僚に東亜同文書院を卒業して中国語に堪能な人がいたので、街の中の方が生の情報が入って便利だった。」

 

ー同僚とは山本治記者ですか?

 

橋本「そうです。私は中国語ができなかったから、彼が中国人とのことは全てやってくれた。」

 

ー南京は反日の空気のために、支局長の奥様も危険だった、とその頃の記事に出てますが。

 

橋本「そんなことがあったのか。うちのは、ずっと南京にいたのではなく、ちょっと会いに来ただけだと思う。その時、そんな体験をしたのだろう。

 

上海に飛び火したので急遽、南京支局を閉鎖して一旦東京に戻り、その後上海支局に行った。

 

上海ではデスクとして、取材はしないが記者の原稿をまとめる役だった。

 

南京攻略戦の時も同じ役目で、第一線にいる記者の書いた原稿は私のところに集まった。

 

各社競争だったから、どの部隊についていった方が一番乗りできるか、情報を集めて指示したりする」

 

ーどの師団についていったのですか?

 

橋本「私は京都師団(第16師団)司令部と一緒で、中島今朝吾師団長が怪我をした時も一緒にいた」

 

ーいつも師団長と一緒でしたか?

 

橋本「いや。その時はたまたまそばにいて、私も砂を被ったということです。師団長もけがといっても大したことはなかった」

 

ー中島師団長をよく知ってますか?

 

橋本「その頃の師団長といえば相当偉く、師団長を直接知るような機会はなかった。

 

そんなに偉い人とはね。京都師団長の司令部と一緒に進んだということだ」

 

ー朝日新聞全体ではなん人くらい従軍してましたか?

 

橋本「朝日新聞からは50人近く参加したと記憶している。従軍記者が15人くらい、連絡員はそれ以上いた。

 

私が全体の指揮をとっていた。」

 

ー南京では大虐殺があったと言われていますが、南京の様子はどうでした?

 

橋本「南京での事件ねえ。私は全然聞いてない。もしあれば、記者の間で話に出てるはずだ。

 

記者は、少しでも話題になりそうなことは話をするし、それが仕事だからね

 

噂として聞いたこともない。朝日新聞では現地で座談会もやっていたが、あったのなら露骨でないにしても、抵抗があったとかそんな話が出るはずだ。

 

南京事件はなかったのだろう」

 

ー一緒に従軍した今井正剛記者とか守山義雄記者をご存知ですか?

 

橋本「彼らとはあまり話した記憶はないな。守山義雄君の印象はあまりないな。

 

同じ守山でも森山君なら先輩でいたけど、守山君は政治部出身で、南京に特派員として東京から来たのじゃないかな。」

 

ー今井記者は「南京城内の大量殺人」という見聞記を書いて、2万人の虐殺があったいっています。

 

また、守山記者は、本人が書いたわけではないのですが、守山記者から虐殺の話を聞いたという人がいます。

 

橋本「二人から直接話を聞いたことはないから真偽の程はわからない。二人とも、特別左でも右でもない人だよ。

 

ただ、人間は曖昧な発言をすることがあるので、そんなのかもしれないな」

 

ー今井記者の原稿について何か記憶がありませんか?今井記者は取材をしないで原稿を書くという人もいます。

 

橋本「今井君の原稿?原稿は取材した人がそれぞれ書くものだ」

 

ー入城式の原稿を、見ないで書いたと言われています。予定稿だったらしいですが。

 

橋本「入城式の原稿が予定稿だった?入城式なんて満州事変の時もなかったし、誰も体験してないから予定稿は書けなかったはずだ。

 

僕が今井君に書けと言った記憶はないな。もし予定稿だったら前もって軍司令部に取材に行って、予定を聞いて書いたということになるね。

 

入城式といっても華やかなイメージはないしねえ。今井君は形容詞の使い方が上手だから、それなりに書いたのかもしれないな。

 

戦争は、異常な出来事だ。震災の時同様、噂程度のことが記事になっているのじゃないかな」

 

ーいつまで南京にいましたか?

 

橋本「はっきり覚えてないな。しばらくして仮主任を置いて上海に戻っている」

 

ー当時の報道規制をどう感じましたか?

 

橋本「”何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことは喋れたし、書いてたよ”」

(「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著)

 

当時の日本人には、南京で日本軍による大虐殺があったという話を聞いた人はいませんでした。

 

日本人が初めて知ったのは、戦後始まった東京裁判と、昭和20年12月9日から放送された、NHKラジオ「真相はこうだ」という番組でです。

 

(昭和21年2月17日から「真相箱」「質問箱」として、昭和23年1月4日まで放送されました。)

 

この番組では、この非人道的な壮絶な状況をこれでもかと言わんばかりに鳴り物入りで放送し、新聞はこれを掻き立てて行きました。

 

東京裁判では、南京城内には「累々たる死体の山」で、横町も大通りも死体で埋まり、「道路には二条の血の川が流れ」「流血は膝を没し」「死体を積み上げ、その上を自動車が走っていた」など、

 

凄惨な状況が次々に証言されて行きました。東京裁判で連日述べられるこのような恐ろしい陳述に対して、日本国民は身も凍るような思いで、これを聞いた。

(「南京事件の総括」田中正明著)

 

南京虐殺は、昭和12年12月13日から昭和13年2月までの6、7週間の間で起きた事件とされていますが、終戦の昭和20年8月まで日本人が知らなかったのは、軍部が報道規制していたからである、と主張する方もいます。

 

しかし、当時の南京で、”朝日新聞”の従軍記者たちを取りまとめていた、橋本喜三郎氏は、「”何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてたよ”」

 

と答えてました。

 

つまり、軍部からの報道規制は何もなかったということになります。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

「南京事件の総括」田中正明著

 

写真

『アサヒグラフ』(昭和13年1月19日号)

『アサヒグラフ』(昭和13年1月12日号)