南京事変の証言 東京日日新聞(毎日新聞)佐藤振寿カメラマン
南京事変の証言
東京日日新聞(毎日新聞) 佐藤振寿カメラマン
聞き手 阿羅健一氏
ー白瓜口のあと南京に向かうのですね
佐藤「ええ。私はもともと第百一師団の従軍記者で、白瓜口から戻った時、第百一師団は上海にいたし、台湾部隊の敵前上陸にも従軍したので、これで休めると思っていたところに蘇州に行けと言われましてね、11月20日だったと思います。そこで嵐山まで車でいき、そこから線路に沿って蘇州にいきました。
蘇州に着いた時は雨で、師団司令部に行きましたが、東京日日新聞の従軍記者がどこにいるかわからず、もう夜ですから社旗も見えない、そこで寒い蘇州の街の中を大声で叫んで、ようやく探し当てました。」
ーそのあと、どういうコースでしたか?
佐藤「蘇州から脇坂(次郎大佐)部隊長に着いて行きましたが、鈴木二郎(東京日日新聞記者)と一緒だったと思います。
この時、廃水用の溝で膝を捻挫して、それが今でも痛み、寝返りが打てない時があります。
常州では百人斬りの向井少尉と野田少尉の二人の写真をとりました。
煙草を持っていないかという話になって、私は上海を出る時、ルビークインを100箱ほど買ってリュックのあちこちに入れてましたので、これを数個やったら喜んで、話が弾み、あとは浅海記者が色々聞いていました。
私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数えると言っていました。
よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。
向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです。
戦後、浅海にばったり会ったら、東京裁判で、中国の検事から百人斬りの証言を求められている。
佐藤もそのうちに呼び出しが来るぞ、と言ってましたが、私には呼び出しが来ませんでした。
浅海が、あの写真はフィクションですと一言はっきり言えばよかったのですが、彼は早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だし、何か考えることが会ったんでしょう。
それで二人が中国で銃殺刑になってしまいました。」
ー浅海記者とはずっと一緒だったのですか?
佐藤「その時はたまたま一緒だったのです。彼は、南京陥落後、戦勝報告講演のために帰京しました。
師団司令部には最初から必ず一人か二人地元の記者がつき、有名な連隊にも記者が付いていました。
それ以外の記者は遊軍です。私は、遊軍で、浅海や鈴木など東京から来た連中も遊軍でした。
それで、一緒になることが多かったのです。
その時、軍ではどの部隊が南京一番乗りするか競争でしたが、我々記者の間でも、誰が一番乗りの部隊を取材するか競争でした。
無線のある前線基地には、上海の支局から、情報とか司令が届いていて、どの師団について行ったら早いとか、どの師団につけとか言ってました」
ーそれで第9師団についたり、第16師団についたりしていたのですね?
佐藤「そうです。結果として、私や浅海や鈴木は第16師団(京都)についていく形になりましたが、もともと第16師団について言ったのは京都支局の光本記者です。」
ー磨盤山山系を越えたあとはどんなコースですか?
佐藤「淳化鎮と湯水鎮の間を南京に向かい、十日頃中山文化教育館は紫金山の中山陵近くにあり、4階建の建物で、中にはガラスケースに入った古物がありました。
この頃も食料の欠乏に悩まされました。」
ー中山文化教育館にはいつまでいましたか?
佐藤「13日の南京入城までいました。他者の記者と一緒に一部屋を使い、隣の部屋は第16師団の草場旅団司令部が使っていました。
旅団司令部に、南京陥落はいつかと聞きに行くと、今日はまだだ、と留め置かれ、ここには結局、3日ほどいました。」
ー大宅壮一氏(評論家)が当時の「改造」に、佐藤さんと会ったと書いてますが
佐藤「その頃、大宅壮一は学芸部の社友でしたから、南京には準社員として来ていました。
そこで、私が大宅を中山文化教育館に連れて来たのです。彼はどこで入手したのか中国の古い美術品を持ってましてね。大宅だけではなく、記者にもそういう人がいました。
その頃は「十割引きで買って来た」という人が会ってね、中国には古い仏像とかがありますから、そういうものを略奪する人がよくいました。」
ー南京に入るのは何日ですか
佐藤「13日の早朝、南京が陥落したと起こされ、中山文化教育館から尾根を少し行きますと、そこが中山陵で、ここを通って中山門から入城しました。
先頭の兵は夜が明ける前に入ってたようです。中山門から双眼鏡で城内を見ると、遠くを中国兵が中山東路を横切って行くのが見えました。
よく見ると茶の軍服でね、茶の中国兵もいるのかと思っていましたが、実は日本兵で、もう第6師団が城内に入ってたわけです。
カメラマンの金沢喜雄が脇坂部隊について行って、既に光華門に立てられた日の丸を撮ってますから、占領は第9師団か第6師団の方が我々より早かったようです。」
ー南京城内の様子はどうでしたか?
佐藤「13日はまだ戦闘があって、中国兵があちこちにいて危険でしたが、城内は穏やかでした。中山門から入って少し行った右側に励志社があり、ここを毎日新聞の宿舎にしました。」
ー14日はどうでした?
佐藤「もうこの日は難民区の近くに通りでラーメン屋が開いており、日本兵が10銭を払って食べてました。
それと14日ごろは中国人の略奪が続いて、中山路を机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け、手を差し込んで盗っている中国人もいました。
この日も一部ではまだ中国兵との戦いは続いていました。
14日のことだと思いますが、中山門から城内に向かって進んだ左側に蒋介石直系の八十八師の司令部がありました。
飛行場の手前です。建物には八十八師の看板がかけてありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。
敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。
戦場のことを平和になってから言っても無意味だと思いますが、兵隊には敵愾心があり、目は血走っていました。」
ー15日はどうですか?
佐藤「14日だったかもしれませんが、南京の大使館を開くというのでそれを撮りに行きました。
映画班に開田靖一というディレクターがいて、東大でフランス語をやった人ですが、その時、外交官として南京に来ていた福田篤泰(領事館補)と高校が同級だったので、彼がそのニュースを持って来まして、それで、大使館に入って国旗を掲げるというところを撮りました。
それから、何人かで車で城内を回りました。難民区に行くと、中国人が出て、英語で話しかけて来ました。
我々の服装を見て、兵隊出ないとわかって話しかけて来たのでしょうが、日本の兵隊に難民区の人を殺さないようにと言ってくれ、と言ってました。
この時、難民区の奥が丘になっていて、その丘の上の洋館には日の丸が上がってました。
全体としては落ち着いていました。」
ー難民区に入れましたか?
佐藤「入り口は閉まって、中国人がいて入れないようになってました。」
ー16日はどうでした?
佐藤「16日は中山館で難民区から便衣兵を摘出しているのを見て、写真を撮っています。
中山通りいっぱいになりましてね。頭が坊主のものとか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けている者とか、はっきり兵士とわかる者を摘出してました。
髪の長い中国人は市民とみなされていました。」
ー17日はどうでした?
佐藤「入城式があった日です。入城式の様子をなるべく上から撮ろうと思い、前の晩からはしご3本ほど探して用意しておきました。
それを2、3本おきに電柱にかけておいて、松井大将が中山門から入って来た時、このはしごに昇って撮りました。
一枚撮ってから次のはしごに移って先に行き、また昇って撮るというように何枚か撮りました。
この時、木村伊兵衛や渡辺義雄(ともにカメラマン)が外務省の食卓で写真を撮りに来ていて、いつもは写真を撮ってる私が逆に撮ってもらいました。
NHKも来て放送していたようです。
入城式と翌日の慰霊祭の写真でだいたい私の仕事は一段落しました。」
ー虐殺があったと言われてますが
佐藤「見てません。虐殺があったと言われてますが、16、17日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」
ー直接見てなくとも噂は聞いてませんか?
佐藤「こういう噂を聞いたことあります。なんでも鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関(シャーカン)の岸壁に並べて重機関銃で撃ったとうことです。
逃げ遅れた警備の日本兵も何人かやられたと聞きました。一個中隊くらいで3千人の捕虜を捕まえたというのですから、大変だったということです。
もちろん、その時は戦後言われている虐殺というのではなく、戦闘だと聞いてました。
捕虜を捕まえても第一食べさせる食物がない、茶碗、鍋がない、日本兵ですら充分じゃなかったでしょうからね。
私らも上海から連絡員の持ってくる米が待ち遠しい位でしたから」
ー下関(シャーカン)をご覧になりましたか?
佐藤「ええ。入城式後だったと思います。行きましたが、噂で聞いたような跡はありませんでした。
私が行った時は、苦力を使って軍が酒樽の積み下ろしをやってました。見てる時、一人の苦力が酒樽を落としましてね。こりゃ、あとで怒られるだろうなと思いました。」
ー社内で虐殺の話が出ませんでしたか?
佐藤「誰と話したこともありません」
ー南京では、どこに行くにも写真を撮ってましたか?
佐藤「仕事用と個人用カメラを持っていて、個人用のライカは買ったばかりでよく撮ってました。
慰霊祭の後は主に個人用で街を撮ってます。その時、日本兵の死体を撮ってはダメだと言われてましたが、私は死体であろうが何であろうが撮ってました。
この時、百枚も撮りましたが、後になって見ても、日本兵が残虐なことをやっている写真は一枚もありません。
この中には日本兵が慰問袋を配って、中国人が群がっている写真などもあります。
そういう状態ですから、虐殺ということはたまたま私が見ていなかったのではなく、なかったのだと思います。」
ー仕事で撮った写真には佐藤さんが説明をつけるのですか?
佐藤「そうです。フィルムのタップに撮った日と場所と簡単な説明をつけて、これを連絡員が上海に持って行きます。
上海で現像して長崎に船で持って行き、福岡から東京へ電送したと思います。
東京で軍の許可を得る訳ですが、ネガは途中の大阪本社が保存してました。」
ーその時の写真は毎日新聞のものになるのですか?
佐藤「そうです。私が撮ったと言いましても、毎日新聞に属してます。」
ー佐藤さんはなかったと言っても、その時の写真には残虐行為という説明がついてますね?
佐藤「ええ、写真は説明ひとつでどうにもなりますから。15日、私が南京城内で撮った写真に、日本兵が荷物を背負って、向こう側に乳母車が写っている写真があります。
私も経験がありますが、荷物というのは重たくて、それで中国人に背負わせたり、ロバの背に乗せたりしました。
私は無銭で膝を痛めていましたので、磨盤山山系を越える時は本当に苦しくて、朝、遅れないように人より早く出発しても、最後は皆に遅れましてね。
ですから、兵隊の荷物のこともよく分かります。私が、見た日本兵は、南京に入ったので気が緩んで肩の力が抜けたんでしょう。
肩をがっくり落として歩いていました。それを見たとき、兵隊の気持ちがよくわかったので撮ったのですが、いつの間にか、
「”徴発”した荷物を運ぶ日本兵」
という説明がつけられています。
(徴発とは、戦時中、住民から物品を強制的に取り立てて、その対価として軍票などを支払うこと。対価を支払わない略奪とは異なりますが、徴発と称して略奪行為をしていたと説明をしている場合あります。)
また、同じ場面を撮っているのに、”虐殺”の場面だと言う人もいます。同盟通信の不動健治さんです。
戦後しばらくして発表した写真(「日本写真史1840ー1945」平凡社)にそう言う説明がついてました。
同じような場面を大阪毎日の松尾邦蔵や私が撮って、虐殺の死体ではなかったし、それには、
「倒れているのは、中国兵の”戦死体”」
と説明をつけています。
私は不動産をよく知っていて、不動さんから南京で虐殺があったなんて聞いたこともありませんでした。
彼の弟さんとも親交があるので、気がついた時にそのことを言ったら、兄貴はもう頭がボケているから言ってもわからないだろうと言ってました。
なんでも戦後、何か虐殺の写真がないかと言われて、その写真を出したと聞きました。
不動さんは先日亡くなりましたが、弟さんと話した時のテープはまだ持っています。」
ーいつまで南京にいらしたのですか?
佐藤「24日までいました。24日のごごにトラックに連絡用のオートバイを載せ南京を出発しました。
道路には大きな穴があって大変でした。途中一泊して25日早朝に上海に戻り、上海には昭和13年の2月までいて、その後で東京に戻りました。」
ー南京事件を聞いたのはいつですか?
佐藤「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思いますが、NHKに「真相箱」(「真相はこうだ」1945年12月9日ー。後「に真相箱」と改題。企画・脚本・演出をGHQ民間情報局が手がけたもの)
と言う番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのが初めてだったと思います。
たまたま聞いてましてね。テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音やきゃーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、と言うのですよ。
これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、と周りの人に言った記憶があります。
10年ほど前にも朝日新聞が「中国の旅」と言う連載で、南京では虐殺があったといって、中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。
なぜ日本人に聞かないで、あのような都合の良い嘘を乗せるのかと思いました。当時、南京にいた人は誰もあの話を信じていないでしょう。
それ以来、私は自宅で朝日新聞を購読するのをやめましてね。その時、配達員に朝日は嘘を書いているからやめる、と言いました。
よくあることですが、被害者は誇張して被害を語るものです。ことに南京陥落の頃には朝日の記者やカメラマンが大勢いました。
そうした人たちの証言が欠けていて、一方的な被害記事に終始していたので、その記事の信頼性に疑問を感じた訳です。」
参考図書
「「南京事件」日本人48人の証言」阿難健一著
写真解説
1、疲れ切って荷物を運ぶ、年老いた日本兵たち。手前では子供用のボートの形をした乳母車を引いており、写真奥ではロバの背に荷物を載せている。
(1937年12月15日)
2、空襲の爆風で死んだ中国兵の戦死者たち
(1937年12月13日)毎日新聞社提供