南京事変の証言 大阪毎日新聞 五島広作記者 | 誇りが育つ日本の歴史

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南京事変の証言 大阪毎日新聞 五島広作記者

 

 

南京事変の証言

大阪毎日新聞 五島広作記者

聞き手 阿羅健一

 

ー五島さんは第六師団のどの辺で従軍取材していましたか?

 

五島「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、谷師団長に可愛がられまして、作戦会議も見ておけ、と谷中将の命令で藤原武参謀が呼びに来ることもありました。」

 

ー嵐山前後、軍の方から中国人は女・子供に関わらず全て殺すべし、という命令があったと言いますが、

 

五島「そんなことはありません。私は師団の司令部にいて、師団長と行動を共にすることが多かったのですが、聞いたことはありません。東京裁判があってからの作り話しではないでしょうか」

 

ー第六師団は北支で感状をもらってないから、中支で残虐行為をやったという人もいますが

 

五島「初めて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話しでしょう。

 

戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています。」

 

ー南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?

 

五島「12月12日12時に初めて城壁を占領し、13日、一部城内に入りました。私もこの時、第13連隊から選抜した部隊と城内に入りました。」

 

ーこの時、残虐行為などは?

 

五島「12月13日と14日は城内掃討で、残虐行為などありません」

 

ー翌年(昭和13年)10月の漢口攻略戦では、岡村寧次中将の第11師団軍の下に第6師団がおった訳ですが、「岡村寧次大将資料」によりますと、第6師団の旅団長牛島少将などが、第6師団について、軍紀が乱れていたと言っていますが。

 

五島「漢口攻略戦は翌年のことで、私は従軍していませんのでなんとも言えません。

 

南京陥落直後、旅団司令部は師団司令部とは別のところにあったと思います。

 

牛島少将は立派な方で、私はそこで牛島旅団長にも会っています。その時、虐殺とかそういう話はありませんでした。想像ですが、もしかすると、疑われるようなことがあったのかもしれませんが、虐殺というようなことはやってません。

 

ー南京には外国の記者が残っていましたが

 

五島「ええ。何人かと会って話をしています」

 

ーその時、日本軍の軍紀について話題になったことがありませんか?

 

五島「彼らとそういう話をした記憶はありません。パラマウントニュース映画が南京を撮っていて、私もそのニュース映画に写っています。撮ったのはアーサーメンケンです」

 

ー五島さんはいつまで南京にいましたか?

 

五島「翌年の昭和13年1月10日までいました。この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺と言われることは見てません。

 

また、強姦もあったと言われてますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後言われていることは嘘です。

 

南京攻略戦が一段落したところで、谷中将が中部防衛司令官に任命され、第6師団を離れることになりました。

 

そこで私も谷中将と一緒に上海に戻りました。」

 

ー昭和42年10月、テレビ番組で朝日新聞の従軍記者だった今井記者と下野第6師団参謀長が虐殺論争を行なったと言われています。

 

これについてお聞かせください。

 

五島「記憶がはっきりしません。私もその現場にいたのか後で下野中将に聞いたのか、覚えていません。

 

私の書いたものを見てください。」

 

参考図書

「「南京事件」 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

写真解説

南京の難民区で宣撫班(せんぶはん)(武器を持たない丸腰の日本兵で、国民党軍や中共軍に家を焼かれ食料もないような、危機に瀕した中国人民に食料を配給したり、家を建てたり、反共宣伝を行っていた部隊のこと)が、食料や菓子などを配ると、大人も子供も大勢集まって来た(昭和12年12月18日)