最後の帰還兵2 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

最後の帰還兵2

 


昭和49年11月13日、北京の日本大使館の書記官が義治さんに面会に来ました。

 

 

許された30分の面会を終えて帰っていきましたが、これから定期的に日本大使館の職員が面会に来るようになりました。

 

毎回の面会中、日本語がわかる陳隊長が監視しているので、義治さんは、刑務所内での処遇について質問されても批判的な発言は出来ず、中共を賛美するような回答しか出来ませんでした。

 

陳隊長からの命令で、過去の戦争に対する反省文を毎日のように繰り返し書かされました。

 

また、405ページある毛沢東語録の本を暗唱できるまで繰り返し読まされました。

 

昭和51年9月9日、毛沢東死亡。

 

中国全土で毛沢東の追悼会が行われました。義治さんの末娘の容子さんが通っている学校でも、追悼会が行われたのですが、全校生徒が黙祷している間、容子さんの近くにいた生徒数人が、クスクスと笑いました。

 

それを聞いた革命派が、黙祷が終わってから犯人探しを始め、容子さんが犯人にされてしまいました。

 

偉大なる指導者、毛沢東の死を追悼する会で、クスクス笑うなどという行為は、反革命的行為であり、絶対に許さない事だったのです。

 

反革命分子の家族として、常日頃からマークされていた容子さんは、民兵の持つ小銃を背中に突きつけられて、身柄を拘束され尋問を受けました。

 

容子さんは、容疑を否認し続けたのて、一晩監禁されて、自宅に戻されました。

 

もし、この事件が日中国交が回復する前に起きていたら、間違えなく刑務所に入れられていたでしょう。

 

義治さんの生まれ故郷である島根県知事や日本の外務省などに、島根県に住む義治さんの家族達は、何度も陳情に行ったり手紙を送ったりしました。

 

また、中国政府にも何度も手紙を送りました。

 

昭和53年1月25日、義治さんのお母さんが亡くなりました。

 

義治さんの母ヤノさんは、孫達が日本に帰国した時のことを考えて、布団やなべや釜を買え揃えていました。

 

また、息子の義治さんが日本に帰ってくるまでは絶対に死なないと周りに言っていました。

 

母ヤノさんの姿は、舞鶴港で息子の帰りをひたすら待ち続けた、”岸壁の母”、に例えられるほどだったそうです。

 

しかし、衰弱しきった体は、すでに今生を生き抜く限界を超えていたようで、ついに息子や孫達の帰りを見届けることなく死亡。

 

 

昭和53年8月12日、日中平和友好条約が締結。

 

平和条約に伴い、8月28日、上海第一看守所に監禁されていた義治さんの長男、重雄さんが釈放。

 

結核を患いながらも病院での治療も受けられず、重労働を課せられいた重雄さんは、9年間にわたり無実の罪で拷問に耐え忍んできました。

 

釈放の際、ある書類にサインさせられました。

 

その書類には、あらかじめ次の言葉が書いてありました。

 

”私は拷問を受けていなかった”と。

 

昭和53年10月13日、深谷義治さんが上海監獄から釈放。

 

実に20年4ヶ月ぶりに義治さんは、家族と一緒に暮らせる日がきました。

 

それから、一月後の11月12日、上海から日本へ出発しました。

 

上海空港から出発の際、上海総領事から次の注意を受けました。

 

“日航機が離陸するまで安心しないで下さい。”と。

 

“罪を認めない者に重罰を与える”、という共産党の政策により、義治さんに無期懲役の判決を下し、

 

また、平和条約が締結されたにもかかわらず、二ヶ月にわたり、拘束し続けてきた中共なので、日航機が離陸するまでは、予断を許せなかったのです。

 

義治さん家族は、張り詰めた心で、日航機が滑走路を離陸。

 

そして、中国国境を通過。

 

まもなく大阪空港に無事到着。

 

その間、約二時間でしたが、家族はみな会話もせずに、無事日本に到着することを祈ってました。

 

昭和12年、22才で広島の宇品港から中国大陸に渡り、日本憲兵として特務任務を遂行し、終戦。

 

そして、終戦後も引き続き、命令に従い任務を遂行し、その後20年におよぶ生死をさまよう監獄生活。

 

いつの日か、生まれ育ったふるさと日本に、家族で一緒に帰りたい。

 

そして、「父母と一緒に過ごした平和な日々が恋しい。島根県大田の実家で、美味しいご飯をたべてゆっくりとお風呂につかりたい」と上海監獄での面会時に、義治さんはよく語っていました。

 

それを唯一の希望として、つらく苦しい獄中生活をなんとか耐え忍んできた義治さん。

 

やっとの想いで実現した、家族一緒で島根県大田市への帰国でした。

 

しかし、日本に帰国後も義治さんには試練が待ち受けていたのです。

 

義治さんの戸籍が、二重婚の疑いがあるといわれて、家庭裁判所に出頭命令が出されました。

 

義治さんが中国大陸に出征する際、島根県大田市の親戚が相談して、見合い結婚をすることになりました。

 

結局、昭和19年に家族に最後の別れをするため、一時帰国した際、婚約相手の家族とも相談して、破談することにしました。

 

しかし、手続き上の問題で、除籍されていなかったため、義治さんは裁判所に出頭。

 

幸い、この問題は大ごとにならずに解決しましたが、義治さんは一歩間違えば、今度は日本の刑務所に入る可能性もありました。

 

また、日本国籍をもたない義治さんの奥さんは、強制的に日本から出国しなければならなくなるところでした。

 

次の問題として、何者かによって不正に申請されて受理されてしまった軍人恩給についてです。

 

義治さんや息子さん達は、何度も県庁や厚生省援護局など関係する役所に足を運んで再申請のお願いをしました。

 

軍人恩給の支給額は、従軍年数や任務の危険度に応じて裁定されました。

 

そのため、軍歴を正確に記載する必要があるのですが、不正に申請された書類に書かれた軍歴は、すべてデタラメでした。

 

従って支給額も、本来もらえるはずの金額よりはるかに少ない金額しか支給されていませんでした。

 

しかし、お役所の仕事としては、規定に従って、”すでに受理されており恩給が家族に支給されてしまっているので”、と断られてしまいました。

 

さらに義治さんは、お役所の役人から、”亡命者”と認定されてしまったのです。

 

これには、どれほど義治さんの心を傷つけたことでしょう。

 

祖国日本の名誉を守ろうと、必死になって頑なに、”戦後も上海に潜伏していた日本のスパイである”、ということを否認してきた義治さん。

 

そのため、反革命分子と見なされ、中国でひどい差別を受けることになってしまった義治さん家族。

 

日本への帰国も20年という長い年月がかかってしまいました。

 

そんな犠牲をはらってまで、祖国日本の名誉を守ろうとした義治さんは、上海で一体何をしてきたのだろうと自問自答していたかもしれません。

 

次男の敏雄さんは父、義治さんのことを次のように語りました。

 

「私は上海で生まれ育ちましたが、上海で味わったのは差別や困窮だけでしたので、上海を故郷と思ったことは一度もありません。

 

また、上海時代、島根県民からの声援が届いた時、父の故郷である島根県大田市が私の故郷のように心境になりました。

 

しかし、日本に帰国後、父が遭遇したことを目にして、私の第二の故郷のイメージは無残にも崩れ落ちてしまいました。

 

私は、父の無念を晴らすこと、名誉を回復することを使命として活動していきたい。」と。

 

また、義治さんの孫娘の富美子さんは次のように語りました。

 

「つらく悲しい敵ごともたくさん経験してきた。その辛さや悲しさにいよいよ耐えられなくなったと感じる時、私は必ず祖父を思う。

 

祖父を支え抜いた祖母や父達を思う。彼らの生き様を思い起こすたびに、身が引き締まり、生気が湧いてくるのである。

 

日本兵の精神を貫いてた祖父の生き方は、確かに一家に不幸を招いてしまったかもしれない。

 

しかし、祖父が自身の信念を最後の最後まで貫徹したからこそ、父が生まれ育ち、私が生まれ、そしてその私が今、こうして生きている。

 

私にとって、彼は祖父である以上に、誇り高き「さむらい」である。」と。

 

義治さんの貫いた志(こころざし)は、息子さん、そしてお孫さんにしっかりと受け継がれています。

 

そしてこれからは、その志(こころざし)を、わたしたち日本人みんなが、受け継いでいく必要があるのではないでしょうか?

 

大陸での戦争を謝罪をして、毛沢東語録を暗唱して、一体なにになるのですか?

 

中共がおこなっているのは、日本国民全員に対する『思想改造』ではないですか?

 

わたしたちは、終戦後70年以上にわたり、上海看守所または上海監獄に投獄され続けているのですか?

 

孫達から、自分の祖父祖母は、誇り高き「サムライ」だった、と誇りをもってもらえるような、そんな生き方を私はしたいです。

 

 

参考図書

「日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族」深谷敏雄著

 

画像

義治さんの獄中生活を支えた、生後4ヶ月の末娘の写真