最後の帰還兵 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

最後の帰還兵

 

 

あなたは、終戦から数十年後に日本に帰還した元日本兵と聞いて、誰を思い出しますか?

 

フィリピンから29年後に帰還した小野田寛郎さん?、それともグアムから27年後に帰還した横井庄一さん?

 

なんと、33年後に上海から家族とともに帰還された元日本兵がいたのです。

 

彼は、終戦後も中国大陸でスパイ活動を続けていました。

 

軍の上官の命令に従い、その任務を遂行していただけなのですが、中共政府に捕まり長い投獄生活を送ることを余儀なくされました。

 

そして、家族とともに日本に帰還できたのは、終戦から33年後になってしまったのです。


昭和12年7月28日、深谷義治さんは、戦時召集令状を受けとりました。

 

 

この時、義治さんは22歳。陸軍歩兵2等兵として数ヶ月間の訓令を受けて、広島の宇品港から中国大陸に出兵。

 

その後、最前線で戦い、陸軍憲兵志願試験に合格。青島から列車で北京の憲兵教習隊に合流。

 

数ヶ月の訓練を受けて、軍参謀直属の謀略憲兵として、共産党軍と国民党軍の内部に潜入して、諜報活動をする。

 

昭和16年、戦況が激しさを増す中、公務のため日本に一時帰国。その際、父親から見合い結婚を勧められて婚約。

 

昭和17年、上海の華僑の娘と結婚。

 

諜報活動をするには、現地の中国人と結婚していたほうがやりやすかった、という目的もありました。

 

偽札を偽造して、敵部隊の経済を麻痺させて大混乱にしたりしました。

 

この間、義治さんは、2度の勲章を授与されました。

 

昭和18年から19年にかかて、東京中野にある、陸軍憲兵学校にて訓練を受ける。

 

昭和19年4月、両親と兄弟との最後の別れをするため、特別に許可され、実家がある島根県大田市に一時帰国。

 

昭和20年8月15日、北京にある日本憲兵隊の特別警備隊司令部にて、玉音放送を聞く。

 

義治さんは、司令官代理から、引き続き情報収集するように命令を受けたので、中国人の良民証を所有して、中国人になりすまして情報収集をしていました。

 

8月19日、司令部に戻り、I司令官代理に報告。

 

情報収集を継続するように命令を受け再び司令部に戻ると、すでに連合軍に占領されていて、上官たちも捕虜として拘束されていました。

 

9月に入り、北京市内の捕虜キャンプに潜入。そこで拘束されていたI司令官代理と面会。

 

I司令官代理から、「上海で任務続行せよ」との命令を受けました。

 

すでに戦争が終わった後での上官からの命令。

 

それも「武装解除せよ」、とか「投降せよ」、というのではなく、引き続きスパイとして「任務続行せよ」。

 

たとえ上官の命令と言えども従う必要はないのではないかと思いますが、義治さんは命令に従い上海に向かいました。

 

なぜでしょうか?

 

特殊任務に従事してきた義治さんは、たとえ終戦後てあっても、上官の命令に従うと言うことは、軍人として拒否することの出来ない使命だったのです。

 

上海には中国人の妻と生まれたばかりの子供がいました。

 

9月3日、北京駅で上海行の切符を買い、列車に乗り込みました。済南に到着してから南下しようとしましたが、レールがすべて八路軍により持ち去られてしまっていたので、しかたなく徒歩で上海に向かうことにしました。

 

日本が連合国に降伏してから、中国国内では、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が戦闘を再開。

 

内戦が激化している中、32日間歩き続けてようやく上海に到着。

そこで束の間の家族と一緒の生活を送りました。

 

昭和24年10月1日、内戦が終わり、共産党軍が国民党軍に勝利して新国家を樹立。

 

国民党軍に関わっていた反革命分子(共産党政府に反対する勢力)への取り締まりが、次第に激しくなっていきました。

 

義治さんは、奥さんに自分は日本人であることを伝えていましたが、旧日本陸軍の憲兵としてスパイ活動をおこなっていることを秘密にしてました。

 

日本の軍人は、家族に、どのような活動をしていたかということを一切話しませんでした。

 

上海に住んでいた奥さんの親戚も、義治さんが中国人を装った日本人であることを知っていたので、いつそのことを共産党の公安に通報するかわかりませんでした。

 

そのような危険な状況にもかかわらず、義治さんは上海から出ようとせずに潜伏活動を続けていました。

 

いつでも、彼のことを知られていない他の土地に移動できたにもかかわらずです。

 

なぜ、そのような危険を冒してまで上海に潜伏し続けていたのでしょうか?

 

彼の上官であるI司令官代理から「上海で任務続行せよ」という命令をうけたので、その命令に忠実に従ったからでしょう。

 

案の定、奥さんの親戚が共産党の公安に密告してしまい、義治さんは常時、公安から尾行されるようになりました。

 

いつでも逮捕できたのですが、共産党の公安はそれをしませんでした。

 

なぜでしょうか?

 

義治さんの他にもスパイ活動している日本人ネットワークがあると思い、それを一網打尽に逮捕拘束する狙いがあったからでしょう。

 

昭和33年6月6日、上海から天津に出張して帰りの途中、ついに公安に逮捕されてしまいました。終戦後に「任務続行」を命令されて上海に潜伏してからすでに13年が経過していました。

 

連行された拘置所は、上海市第一看守所。ここは、国民党の高級幹部や重要な反体制政治犯、反革命分子などに対して取り調べを行う場所でした。

 

上海の自宅も家宅捜査が3日間に渡り徹底的に行われて、義治さんの奥さんも看守所に呼ばれて厳しい尋問にかけられました。

 

しかし、日本人スパイである証拠は見つからず、活動資金も出てきませんでした。義治さんの奥さんは「夫が何をしていたのか知らない」の一点張りでついに釈放されました。

死刑を覚悟していた義治さんは、その後20年4ヶ月もの長い年月を獄中で生活することになります。

上海看守所の取調官からは、「日本のスパイであるということを認めたら解放する」と言われていました。

しかし、義治さんは絶対にそのことを自白しませんでした。

厳しい拷問を受けてなんども意識を失いました。その都度、冷や水をかけられて、また拷問。

夜も昼も寝ることを許されずに、拷問に次ぐ拷問。

生死をさまよいながらも、決して白状しようとしませんでした。

真冬になると、室内の夜の気温は零下6度の寒さ。

まともな防寒着もなく、破れたおんぼろの薄着を継ぎはぎして寒さをしのいでいました。

さらに、判決を受けるまでの16年間、義治さんは外界との連絡を一切禁じられ、公安によって家族には生死さえも極秘にされていた。

なぜ、義治さんは、そこまでして、”私は日本のスパイである”と認めようとしなかったのでしょうか?

いくら取調官から「自白したら釈放してやる」といわれても、とても信じることはできないと思ったからでしょうか?

昭和29年10月、中国紅十字会の李徳全会長が訪日した際に、「日本人戦犯に対する寛大な処置をする」と明言して、その後、実際に大量の抑留されていた日本軍人が釈放されました。

そのことを知っていた義治さんは、取調官がいうことも嘘ではないだろうと思っていました。

しかし、それでも自白しようとしなかったのは、

「私は国に命をささげてきた軍人で、自分の生まれ育った国に、戦後にスパイを中国大陸に置いたという汚名を、死んでも着せてはならない」、という強い信念が義治さんにあったからです。

拘置所では、毎日、思想改造のために毛沢東語録の本を読んで学習しなければなりませんでした。また、自分自身の罪を自白して自己批判を繰り返し紙に書いていきました。

義治さんには、生まれたばかりの女の子の赤ん坊と、3人の男の子の4人の子供がいましたが、定期的に奥さんが差し入れを持参してきました。

月に一度だけ、日用品を差し入れすることが許されていたからです。

ある時、その差し入れの中に生後四ヶ月の赤ん坊の笑顔の写真がありました。「規則では写真を渡すことはできないのだが、奥さんの懇願があまりにも不憫で、特別にお前に渡す」、と看守はいいました。

義治さんは、「どんな苦しみがあっても、私は絶対にこの子を育てます。娘があなたを「お父さん」と呼べる日が必ず訪れます。過酷な受刑生活ですけど、人生を諦めないでください」というメッセージを、その笑顔の赤ん坊の写真から受け取りました。

昭和35年、骨と皮だけの栄養失調で衰弱がひどいために、上海市の監獄病院に入院。その後、肺結核と肋膜炎を患いますが、全く治療を受けることができませんでした。

義治さんは、そのような状態にもかかわらず強制労働をさせられていたのですが、ある日、脊髄骨折をしてしまいました。この時も、病院にも行けず痛み止めの薬ももらえず、痛みに悶え苦しむ日々を送りました。

「地獄のようなところで骨を埋めることにならないように、全身の力を振り絞って必死に這ってでも祖国に帰ろう。」

義治さんは、その強い意志だけで生かされている日々でした。

身長も、178cmから168cmに10cmも縮んでしまいました。

中国に渡った日本人が中国人と結婚してできた家族たちが、終戦後に中国大陸から日本に引き上げてくるケースは結構ありました。

その場合は、無条件で法務省から入国許可が出ていて、帰国する際の旅費も日本政府から出ていました。

 

しかし、義治さんの家族の場合、日本人である義治さん本人が上海で拘束されたままになっているので、その家族だけが日本に入国する事例がありませんでした。

そのような中、昭和36年11月、人道的見地から特別に法務局から入国許可が出されました。

しかし、まだ日中間に国交はない時代。政治的にも対立している状態でしたので、中国側が深谷さん家族を上海から出国させることを認めませんでした。

 息子の敏雄さんは、父が逮捕されるまで、自分は中国人だと思っていました。学校でもみなそう思い、特になんの問題もなく過ごしていました。

しかし、父が逮捕されてからは、生活が激変。学校でも日本人と言う事で、差別やいじめにあうようになりました。

「おまえは日本の鬼の子だ!」と。

中国では、昔も今も反日教育が徹底されていて、日本軍人の事を「鬼」と呼んで、すごい怖い形相で描かれています。

しかし、息子の敏雄さんにとって、日本軍人の父は、とても優しく、公園に連れていったり花火を見たりと、家族を大事にする人でした。

学校教育で教わる鬼の形相の日本軍人と、実際の優しい子煩悩な父との間のギャップが、あまりにもかけ離れていたのです。

一家の大黒柱を失った深谷家は、極貧生活を送ってました。

義治さんの奥さんは、ミシン以外の家財道具を質屋に売って、何とか生活費を捻出したり、残しておいたミシンを使って、刺繍を縫うなどの内職をして、子供四人を育てていきました。

やがて、長男の重雄さんも内職を手伝うようになりましたが、生活は厳しく、血液を売ろうとするなど、寝る間を惜しんで何でもやりました。

子供達にとって、父と会えない寂しさは耐えがたいものでした。

毎月、トイレットペーパーや石鹸などの日用品を差し入れに行く際、奥さんは、看守所に子供達も連れていきました。

看守所では、実際に父と会う事は許されていないのにもかかわらずです。

少しでも父の近くに連れて行ってあげる事で、子供達の寂しさが和らぐかもしれない、と思っての行動でした。

義治さんは、奥さんから寒い冬を凌ぐために服などを差し入れても、全て返していました。

貧しい生活を送っているだろう家族を思い、自分は、最初に差し入れてもらった薄着だけで我慢し、15年間も過ごしていました。

中国政府からは布団と衣類の供給は、一度もありませんでした。

着ていた衣類が破れると、ツギハギをして縫い合わせして、使い続けました。

薄着だけでは氷点下6度の寒さには耐えることが出来ず、どんなに抑えようとしても体は震え、歯はガタガタと鳴った。

横にいる古参の政治犯が、義治さんの惨めな姿を見て、アドバイスをくれました。

「歯を食いしばりなさい。そうしなければ、魂が肉体から次第に離れてしまうよ。」と。

義治さんは、魂が抜けないように、歯をくいしばって極寒を耐え忍んでいきました。

また、「安来節」や「関の五本松」、母校の校歌などを思い出して、極限状態の中でも、祖国で過ごした日々を思い、心を温めていました。

 昭和41年8月、毛沢東による粛正が中国全土で始まりました。(文化大革命)

 学校の授業は全て中止され、教育システムは完全に崩壊。

学生達は、二つのグループ(「紅五類」「黒五類」)に分けられました。

紅五類は、労働者、貧民、革命幹部、革命軍人など。

黒五類は、地主、富農、反革命分子、ブルジョア右分子など。

紅五類に分類された人達は、文化財、寺院などを次々に破壊しまくりました。

黒五類に分類された家に立ち入り、書籍を焼き払い、家財を持ち去るなど、やりたい放題をしました。

深谷家は、父が日本人スパイの容疑で捕まっているので、黒五類にグループ分けされました。

昭和43年、「知識青年は農村に行かなければならない」、という司令が、新たに毛沢東から出されました。

義治さんの三男の龍男さんは、上海から遠く離れた山奥の農村に強制的に連れて行かれました。

中国の農村は機械化がされてなく過酷な重労働が待ってました。

また、日当も一日中働いても二食分のみの支給。

義治さんの長男は、工場で働いていましたが、ある日、そこにいた革命派により、反革命の罪に問われて、拘束されてしまいました。

工場近くの防空壕に連れていかれて、昼でも薄暗い壕の中で、幽閉されることに。

 

さらに、自宅が家宅捜査を受けました。

父の義治さんの時より徹底的にです。

そして、”打倒反革命分子‼︎”とか”日本のスパイ親子、罪を自白せよ!”などのスローガンを自宅の壁一面にペンキ塗りしていきました。

工場では、一日3回、他の工員から批判を受けるために、糾弾大会に強制的に連れていかれました。

その糾弾大会では、壇上で、体を45度傾けたままの姿勢で立たされて、革命派からのヤジを受け続けました。

“おまえの親は軍国主義分子だ。おまえは子供の時から軍国主義の教育を受けた。

だから、おまえは軍国主義が支配する国、日本が好きだ。社会主義の中国に敵意を持つスパイだ!”と。

この批判時間は、2時間。これを一日3回受けさせられました。

文化大革命の時代、中国全土で、毎日朝と晩に、毛沢東の肖像に向かい、毛沢東語録を持ち、”毛沢東万歳”と斉唱しなければなりませんでした。

 

また、毛沢東語録には、必ず、毛沢東の写真を貼り付けておかなくてはなりませんでした。

 

もし、それを怠れば、反革命分子として重大な罪に問われることになりました。

 

昭和47年9月29日、田中角栄首相と周恩来首相の間で、日中の国交が樹立。

日中の国交が回復しても、特赦があるわけでもなく、義治さんの状況に変わりはありませんでした。

昭和49年3月、上海市の人民法廷に連れて行かれて、無期懲役の判決を受けました。

 

なぜ、16年もの間、刑務所で拘束していたにも関わらず、今ごろになって無期懲役の判決を下したのでしょうか?

判決理由は、”中国の安全に重大な危害を与えた罪”というものでした。

日中間で戦争状態でしたら、このような判決理由はわかりますが、すでに2年前に国交が回復していました。

昭和48年3月14日付けの朝日新聞に、「『釈放して』待ちわびる老婆ら 反革命罪で15年」という見出しで、次のような記事が掲載されました。

「義治さんが出征したのは昭和12年、21歳のとき。中の学校で訓練を受け、経済事情調査の特殊任務についていた。第二次大戦後、これからは日中友好につくす。と遺言のような手紙を寄せたまま、消息が途絶えてしまった」と。

義治さんは、東京中野にある日本陸軍憲兵学校で訓練を受けたことはありますが、これは陸軍中野学校とは別の学校であり、全くの誤報でした。

陸軍中野学校とは、スパイ養成機関として有名な学校です。

中共政府は、日本の新聞記事を常にチェックしているので、

この朝日新聞の誤報記事によって、義治さんは、上海看守所にてさらにきびしく追求されることにつながってしまいました。

ただでさえ肺結核や骨髄損傷、栄養失調など、疲労困憊の体なのに、そんな重病人に対して、中共は、さらに鞭打って拷問をかけたのです。

また、スパイ機密費を義治さんの家族が、日本政府から支給されているという疑惑を持たれました。

スパイ機密費とは、スパイ活動をするための裏金、活動資金のことです。

昭和46年から、恩給申請ができる家族以外の何者かが、不正に島根県庁に恩給申請をして、それが正式に受理されてしまい、島根県大田市に住む義治さんのお母さんに恩給が支給されるようになりました。

その軍人恩給が支給されたことを、中共政府が知り、それは日本政府から支給されたスパイ機密費である、と決めつけてしまったのです。

中共政府が16年間にわたり、義治さんを拘束し続け、拷問をしたにもかかわらず、何も判決を下すことができませんでした。

確たる証拠が得られず、義治さん自身も頑なにスパイであることを否認し続けていたからです。

しかし、日本の大新聞である朝日新聞の誤報記事と、何者かによる不正申請により支給されはじめた軍人恩給により、義治さんのスパイである証拠が確定し、無期懲役の判決が下されることとなったのです。

無期懲役の判決が確定してから、今まで16年間過ごした上海第一看守所から、上海監獄に移されました。

 

そして、家族への手紙を書いて良いと許可が出ましたので、義治さんは奥さんや子供達に感謝の思いを、16年ぶりに手紙で伝えることが出来ました。

しかし、手紙の内容は全て検閲を受けるので、始めに、偉大な指導者である毛沢東への感謝を述べ、自分が中国で行った罪に対する反省文を、長々と書かなくてはなりませんでした。

また、家族との面会も許されました。今までは、月に一度、家族からの差し入れが認められてましたが、面会は出来ませんでしたので、16年ぶりの家族の再会となりました。

 

奥さんと次男の敏雄さん、末娘の三人が上海監獄に行き、義治さんとの久々の面会。

面会室には日本語がわかる看守が、目を光らせて監視してました。

 

しばらくお互い、顔を見合わせてましたが、家族と分からず、人違いだろうと思ってました。

身長も10cm縮み、腰も曲がり、看守に対しておどおどした態度。

あまりにも変わり果てた姿だったので、お互い分からなかったのです。

 

しばらくして看守から、これが深谷義治だ、と告げられて、やっと理解できました。

そして、次男の敏雄さんは義治さんに向かって言いました。

 

“お父さん”

 

義治さんは反革命分子として、日本人スパイとして拘束された身でした。そして、無期懲役の実刑判決が確定したばかり。

 

その罪人に向かって、看守の目の前で、”お父さん”ということは、決して許されることではなかったのです。

たとえ家族でも。

でも、次男の敏雄さんは、長い間、父に対して ”お父さん”と呼びたくても呼べなかったのです。

その思いをどうしても止めることは出来ませんでした。

また、酷く衰弱した様子だったので、健康状態を聞くと、肺結核で肺の2/3がダメになり、重い心臓病を患い、左目も視力を失った、と答えました。

それを聞いていた看守から、警告が出ました。

 

「おまえは、いくら思想改造しても、肝心なところでまた軍国主義の思想が出る。「はい、はい、」と言いながら、一向に罪を認めない。おまえはもっと毛沢東の本を真面目に勉強しろ!」と。

 

この後も、面会は定期的に認められました。

 

4回目の面会で、初めて、末娘が口を開きました。

「お父さん」

 

末娘にとって父は、彼女が赤ん坊の時に投獄されてしまったので、父の記憶は全くありませんでした。

 

あるのは、家にあった父の写真だけ。

 

でも、目の前にいる人は、その写真とは全く別人。

また、父の義治さんにとって末娘は、投獄されてからの辛い日々の中、唯一の生きる希望が、生後4ヶ月の末娘の笑顔の写真だったのです。

 

その末娘が、やっと変わり果てた父を受け入れることが出来たのでしょう。

「お父さん」と呼ぶことが出来ました。

その瞬間、父、義治さんの目から涙が溢れて出ました。

続く

 

参考図書

「日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族」深谷敏雄著

画像

深谷義治さんとその中国人妻