最後の特攻隊 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

最後の特攻隊

 

 

 終戦後に、ソ連軍に特攻していった日本兵がいました。

 

 彼らが、そのような行動に突き動かしたものとは、いったいなんだったのでしょうか?

 

 

昭和20年8月9日未明、ソ連が日本に参戦。ソ連の戦車隊が、怒涛の如く満州国境からなだれ込んできました。

 

満州国興安省の省都、興安(現中国内モンゴル自治区)に居住していた3000人の日本人たちは、慌てて避難するために列車に乗り込みましたが、乗り遅れた人々約1300人の人たちは、浅野良三参事官をリーダーとして南東に35キロ離れたチベット仏教寺院、葛根廟を目指して歩いていました。

 

昭和20年8月14日、葛根廟の近くに避難した日本人たちと14輌のソ連軍の戦車隊と20台のトラックが遭遇。

 

浅野参事官は、即座に白旗を掲げて無抵抗の意思表示を示しましたが、ソ連軍は白旗を掲げた浅野良三参事官に機銃掃射を浴びせました。

 

恐怖におびえながら待機していた日本人難民たちは、その光景を目のあたりにして、一斉に逃げ出したが、戦車隊は、その難民たちを追い回しながら次々とひき殺していったのです。

 

避難民のほとんどが、女性や子供、お年寄りでした。少数の成人男子が小銃などを持っていただけの弱者達を、ソ連の戦車隊がまるで虫ケラを踏み潰すかのように、キャタピラで踏みつぶしていったのです。

 

草原を走り回る日本人難民たちの群れを、戦車隊は追い回して次々にキャタピラで、ひき殺していきました。

 

そして、戦車の後方からそのひき殺された死体が飛び出して、宙に舞って草原に放り出されました。

 

草原の中に自然に出来た塹壕を見つけて、避難する人々もいましたが、戦車から出て来たソ連兵がその塹壕の中に入ってきて、機銃掃射していきました。

 

約2時間に及ぶソ連軍による殺戮が合わり戦車隊が立ち去ると、今度はわきで見物していた中国人たちが暴徒化して、生存している日本人難民たちを襲い、下着に至るまで身ぐるみはがしてすべてを奪っていきました。

 

ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全て剥ぎ取られた上に、鎌で乳房を切り落とされました。

 

中国人達が立ち去った後、絶望した避難民は、青酸カリを飲んだり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぎました。

 

「ごめんね、母さんもすぐに逝(い)くからね」。

 

覚悟を決めた母親は、自分の妹の首に短刀を突き立て、血を噴き出しながら、妹は声も出さずに息をひきとりました。

 

このソ連軍の砲撃により、1000人以上の日本人が虐殺され、または自害し、生き残った人はわずか約130人。

 

この地獄絵の惨状から奇跡の生還を果たし、戦後、興安会遺族会代表を務めた白石正義氏は、次のように振り返りました。

 

“我を失い、ただ茫然としてなすところを知らず、その一瞬の不気味な静寂も長くは続かなかった。万一の場合の自殺用にかねて渡されていた手榴弾の爆裂音と悲鳴。

 

「殺して下さい。」、「助けて下さい」、「お母さん」と泣き叫ぶ子供の声が交錯する中で、断末魔のうめき声は。

 

これは生き地獄でなくてなんだろうか?

 

目を覆う地獄絵図さながらであった。

 

泣き叫ぶ我が子の頭を撫でながら、心を鬼にして次々と絞め殺し、まなじりも裂けんばかり、

 

髪を振り乱した、形相凄まじいこの世のものとも思えぬ気の狂わんばかりの母親の群れ、

 

青酸カリを飲んで、虚空をつかんで生き絶えて行く老人達。

 

遭難者の総数は、今なおさだかではない。

 

約二千名に近いとされている。」

(「殺戮の草原 満州・葛根廟事件の証言」大櫛戌辰著)

 

 

 

この様子を上空から目撃した大虎山分屯隊の偵察機のパイロットは、基地へ戻って報告。

 

この報告を聞いた他のパイロット達は怒りに震えてしまいました。

 

「かならず犠牲となった人たちの仇を打つ!」

 

翌日の8月15日、飛行兵全員がラジオの前に集合して、玉音放送を聞きました。

 

 

 大虎山分屯地の将校の有志が、旅館に集まりました。

 

「このまま、ソ連と戦わずに降伏など出来るか!」

 

 

若い飛行兵たちは、皆、決起する事をきめました。

 

8月17日、関東軍の山田総司令官は、戦闘行動を停止するように全部隊に命令。

 

さらに「8月20日12時以降、全戦線に渡ってソ連軍に対する一切の戦闘行動を停止し、武器を捨て投降するように」、

 

というソ連軍からの依頼を受けて、満州の全域を守備していた関東軍の各部隊は皆、大人しく武器を置いて、ソ連軍に投降していきました。

 

8月20日前に実行しなければ、攻撃のチャンスはありませんでした。

 

手元にあり稼働できる飛行機はわずか11機のみ。しかも「赤とんぼ」とよばれる練習機だけであり、いずれも爆撃装置をとりつけていないものでした。

 

また爆弾自体が無かったので、ソ連軍の最新鋭戦車であるT34の装甲を破壊することはできませんでした。

 

残された方法は、ただ一つ。

 

敵戦車隊に向かって特攻することでした。

 

それでも、爆弾を抱えていない練習機で体当たりしても、戦車隊の装甲に損害を与えることはわずかかもしれませんでしたが、ソ連兵に与える精神的ダメージは相当大きくなるだろう。

 

そして、敵の進軍が多少なりともおくれれば、それだけ日本人難民の逃げる時間が確保できる。

 

集まった隊員たちは、全員一致して「ソ連戦車隊に特攻する」と決意しました。

 

「神州不滅特別攻撃隊」と命名し、出撃日は8月19日と決定。

 

隊員の中の一人、谷藤徹夫少尉の許嫁である朝子は、夫の出撃を聞いて、いてもたってもいられませんでした。

 

「私も、一緒につれていってください」

 

なぜ、彼女は、夫と一緒に特攻機に乗りたかったのでしょうか?

 

この時、日本人難民の女性たちは、老女であっても皆、軒並みソ連兵にレイプされていきました。

 

夜だけでなく昼でも、日本人避難民たちが集まっているところにソ連兵が来て、適当に女性をさらっていくのです。

 

ソ連兵にさらわれていく女性の夫が、少しでも抵抗しようとすると、ソ連兵は、その男性を容赦なく銃で撃ち殺していきました。

 

以下は、当時16才で、慶安満州拓殖公社に避難していた、元居留民の来須富子さんの証言になります。

 

「ソ連兵が二人、ドカドカと入ってきた。それが何を意味するかわからず、誰もが固唾を飲んで目で追っていた。

 

はた、と立ち止まり、一番手近な所にいた人の肩に手を掛けた。「立て!」という仕草だ。

 

肩にかかった手を吹きはらうと、二人が銃口を突きつけた。

 

一人が銃の先を跳ね上げて「行け!」と合図した。

 

こうして、次々「女狩り」が行なわれた。私は同じ人間が何度も来るのかと思ったが、そうではなく、入れ替わり立ち代わり来たようであった。

 

明かりはランプが一つ。奥の方に居るものの顔など見えはしない。手当たり次第、運の悪い者が犠牲になった。

 

「わしら女のうちでない」

 

狭くて、横になる場所がなく、通路に座っておられた70歳近いおばあさんも、片目義眼で髪を振り乱した小母さんも連れて行かれた。

 

二日目の夜がきた。日が暮れるのが恐ろしかった。死ぬことも怖いが、ソ連兵の餌食になることはそれ以上に怖い。

 

「ガタッガタッ」と床を踏む足音。「ダワイ、ダワイ」という声。

 

何日も続けば気が狂いそうだった。

 

時間も場所もわきまえない。空き家に連れ込まれるのは良識がある方。通路と言わず、人前と言わず、至るところで行われた。

 

幸い、私は遭わなかったが、「今、そこの通路で、」と息せき切って報告に来た者もいた。

 

18、9才の髪の長い体格の良い娘さんが、二人の兵隊に挟まれ、後ろの兵隊に銃口を背中に突きつけられて、空き家に連れて行かれるところだった。

 

引き裂かれたブラウスが、わずかに肩にかかって、両手で胸を隠すようにして、うなじを垂れて歩いていた。

 

「どうしよう。連れて行かれる。」

 

歯ぎしりするほど悔しかった。

 

妻が連れて行かれるのを見て、夫が「辞めてくれ」と叫んで立ち上がったとたん、

 

「ズドーン」

 

と一発。大勢の前で、もんどりうって倒れた。

 

手出しは絶対に出来ない。ただ、見送っているより仕方がなかった。」

(「孫たちへの証言 激動の昭和をつづる」「野獣の館」より)

 

まるで奴隷です。

 

そのような状況で、日本女性たちはみな、頭を丸坊主にして男性の服を着て、胸をサラシなどできつく縛って女性と気づかれないようにしていました。

 

そんな辱めを受けてまで、逃げて生き延びようとするより、夫と一緒にソ連軍に特攻したいと思ったのでしょう。

 

しかし、女性が軍用機に搭乗することは軍規違反でした。

 

また別の隊員で大倉巌少尉にはつきあっていた女性がいました。

 

隊員たちが旅館「伊予屋」で集まって特攻の密談をしている時、そこで働いていた彼女は、その話を漏れ聞きしたのでしょう。

 

「私も一緒に特攻機に乗せていってください」と懇願しました。

 

 8月19日午後2時、大虎山飛行場から11機の練習機が飛び立ちました。

 

正規の目的は、ソ連軍に引き渡すためでしたが、飛行兵たちは、密かな目的を持って飛び立ちました。

 

滑走路周辺には、日の丸の小旗を持った日本人たちが集まり、最後の飛行を見送っていました。

 

その中には、白いワンピースを着て日傘を持った婦女子もいましたが、飛び立つ直前に練習機に乗り込んでいました。

 

 

彼女は谷藤徹夫少尉の許婚でした。

 

飛び立つ前、飛行兵たち11名は、署名と血判とともに、次の檄文を残して行きました。

 

 

 檄

「戦い得ずして戦わざる空の勇士十一名

生きて捕虜の侮辱を受けるを忍び難し

ここに神州不滅特別攻撃隊を編成し、

昭和維新の魁たらんとす」

 

 

また、谷藤徹夫は、自分の官舎に次の詩を残していきました。

 

 「国敗れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ」

 

 その後の彼らの消息は不明。ソ連側にも何も記録がありません。

 

軍の命令を無視してまでも、特攻して散っていった若い飛行兵たち。

 

彼らはソ連戦車隊に見事に突っ込み、その思いを果たしたのでしょうか?

 

その思いは、後世に語り継がれることによって、果たせるのかもしれません。

 

参考図書 「妻と飛んだ特攻兵」豊田正義著

画像 谷藤徹夫少尉