平和憲法はほんとうに占領軍が作成したの? | 誇りが育つ日本の歴史

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平和憲法はほんとうに占領軍が作成したの?

現在の日本国憲法(平和憲法)は、日本国民からの活発な意見を反映して、国会で審議を経て作られたと言う人々がいます。

 

平和憲法は、占領軍に押し付けられたのではなく、日本人の手によって作られたのだと。

 

本当でしょうか?

 

マッカーサーは、幣原総理大臣に憲法改正のための草案を作成するように指示しました。

 

この要請を受けて、幣原総理は、憲法学者である松本烝治国務大臣に憲法改正草案の作成を依頼。

 

昭和20年10月25日、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置されました。

 

顧問として清水澄、美濃部達吉、野村淳治、その他委員として数名が参加。

 

 

松本烝治国務大臣は帝国憲法(明治憲法)を土台として、改正草案を審議していきましたが、

 

マッカーサーにその草案を提出する前、憲法改正案(松本草案)が毎日新聞の西山記者にリークされ、昭和21年2月1日付けの朝刊に掲載されてしまいました。

 

民生局長のコートニー・ホイットニー陸軍准将は直ちに、この記事に掲載された松本草案を英文に翻訳してマッカーサーに提出。

 

そして、その記事を見たマッカーサーは大激怒。

 

なぜ、マッカーサーが激怒したのでしょうか?

 

マッカーサーにとて、明治憲法は悪の権化としか認識していなかったので、その悪の権化である明治憲法を土台とした改正草案など、とても受け入れられるものではなかったのです。

 

昭和21年2月3日、マッカーサーは、今度は日本政府ではなく、民政局長のコートニー・ホイットニー陸軍准将に憲法草案をまとめるように指示しました。

 

その際、次の3か条に基づいて憲法を作成するように厳命しました。(マッカーサーノート)

 

1、

「天皇は国家の元首の地位にある。」

「行為の継承は世襲による」

「天皇の義務と権能は、憲法に従って行使され、憲法に示された国民の意思に応じたものでなければならない」

 

2、

「国家の権利としての戦争行為は放棄する。日本は、(国際)紛争解決、および自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには現在世界に生まれつつある高い理念、理想に頼る」

「陸、海、空軍は決して認められない。またいかなる交戦権も与えられない」

 

3、

「日本の封建制度は廃止される」

「皇族以外の爵位は現在のものに限る」

「今日以後、貴族特権は政府もしくは民間機関においてなんらの権力ももたない」

「国家予算はイギリスの制度を見習う」

 

 

その期限までの日数は、なんとわずか6日間しかありませんでした。

 

しかも依頼された民生局の職員にの中には、憲法について知識がある人材は一人もいませんでした。

 

なぜ、マッカーサーは憲法改正案の作成を急いだのでしょうか?

 

すでに昭和20年12月、極東委員会が米国ワシントンの旧日本大使館に設立されていました。

 

この極東委員会とは、日本を連合国が占領管理するために設けられた最高政策決定機関であり、

 

日本で占領軍を指揮しているマッカーサーの政策を、監査監督する巨大な権限があったのです。

 

もし、この極東委員会が稼働してしまうと、日本の憲法改正に横やりが入ってしまう可能性があったのです。

 

この極東委員会の第一回会合は、2月26日に開かれる予定でした。

 

また、ハーグ陸戦条約43条からしても、占領国が被占領国の憲法を改正することを認めていませんでした。

 

 ハーグ陸戦条約43条

「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし」

 

そうした状況下で、マッカーサーは、自分の独壇場で憲法改正できるタイミングを見計らっていたのです。

 

1週間後、民政局の職員により憲法草案が作成され、2月10日マッカーサーに提出されました。(GHQ草案)

 

このGHQ草案の原案は5人に手渡されましたが、そのうちの一人に吉田茂がいました。

 

彼は、占領軍による憲法草案を手にした日本人初の人物でした。

 

なぜ、吉田茂だけが、他の日本政府要人より先に、優先的に占領軍憲法の草案を手にしたのでしょうか?

 

この当時、まだ外務大臣だった吉田茂を、将来の首相にして育てて、日本を米国の傀儡(かいらい)国にする計画だったのでしょう。

 

昭和21年2月13日、占領軍から日本政府へ、マッカーサー憲法草案を手渡すために、会合が開かれました。

 

占領軍側として、民生局長のコートニー・ホイットニー陸軍准将とその部下である、チャールズ・ケーディス陸軍大佐、マイロ・ラウエル陸軍少佐、アルフレッド・ハッシー海軍少佐、日本側は、吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣、白州次郎、通訳の長谷川が、東京麻布にある外務大臣官邸に集まりました。

 

ホイットニー准将は、この憲法草案を受託するように日本側に言い渡しました。

 

 この時、敗戦国である日本側に、戦勝国である占領軍に対して、果敢に反論した人物がいました。

 

松本烝治国務大臣です。

 

 以下は、同席したホイットニーの三人の部下が書き残した会話の実録になります。

 

ホイットニー准将

「先日、あなた方が提出した憲法草案(松本草案の事)は、自由と民主主義の文書として最高司令官が受け入れることは絶対にできません。

 

しかし、マッカーサー元帥は、専制支配の悪政に苦しんできた日本国民を護るべく、自由で解放的な憲法が国民のために必要不可欠であると深く認識されておられます。

 

今日、あなた方に提示する草案は、マッカーサー元帥が日本の現状を憂い、日本を民主主義国家へ導くために必要な諸原理を具体化し、元帥自身が承認された文書です。

 

この草案の内容について、あなた方が正確に理解するように後ほど詳しく説明します。

 

あなた方が今からこの草案を検討できるよう、私と部下は一時退席させていただきます」

 

松本烝治

「あなたの仰っていることは解っていますが、あなた方の憲法案には説明書が用意されているのかお伺いしたい」

 

ホイットニー准将

「説明書はないが、私たちの憲法草案の文言はとても解りやすいので、誤解の余地のないものだ」

 

ホイットニー准将

「今や、あなた方は憲法草案の内容を熟知したのですから、私としては、これまで通り、お互いに手の内をすべて見せ合うことを望んでおります。

 

マッカーサー元帥がこの憲法に込めた精神と彼自身の希望を説明させてください。

 

元帥は、近頃各政党がそれぞれ公表している憲法草案は、国民の間でも改正が必要であるという意思の現れであると理解されておられます。

 

国民が憲法改正を勝ち取るのを確実にすることが、元帥の決意なのです。 

 

天皇を戦犯として軍事裁判にかけよ、と他国からの圧力は高まってきております。

 

あなた方がご存知かどうか知りませんが、マッカーサー元帥はこの圧力から天皇を守る決意をされておられます。

 

元帥はこれまで天皇を擁護してきました。なぜなら、元帥は天皇を守ることが正義だと考えておられ、今後も力の及ぶ限りそうされるでしょう。

 

しかし、みなさん、元帥といえども神のように万能ではありません。

 

しかし、元帥は日本がこの新憲法を受け入れるのなら、天皇に誰も手が出せないようにするため全力で尽力されるでしょう。

 

新憲法を容認すれば、日本が連合軍の占領から独立する日もずっと早くなります。

 

それは、連合軍が要求している基本的自由が日本国民に与えられたと見られるからです。 

 

元帥は、私がこの草案を日本政府と政党に提示するように命じられました。

 

その採用についてみなさんが審議をした後、望むなら、この憲法は元帥の完全な支持を受けた憲法として国民に提示してもよいとまで断言されているのです。

 

もちろん、元帥はこれをあなた方に押し付けてはおりません。

 

ですが、元帥は、この憲法に明記されている民主主義の原則を国民に提示すべきだと決意されておられます。

 

あなた方の自主的な行動によってこの新憲法を国民に示すことを願っておられます。

 

もし、自主的にできないのなら、元帥自らが公示することになるでしょう。

 

そうなると、みなさんのメンツは丸つぶれです。

 

元帥はこの新憲法によって敗戦国日本が世界の諸国に対して、恒久平和を目指す道徳的指導者になり得る機会を与えておられるのです。

 

 あなた方がこの憲法草案を受け入れて、政治的に進歩的・革新的となること、すなわち急速に左翼化することで、あなた方の地位と権威は元帥により保証されます。

 

今までのように極右のままだと、あなた方の政治生命は終わります。

 

この憲法草案を受け入れることが、反動的な国体護持派と見なされているあなた方が生き残る唯一の望みであるという現実を忘れないでください。

 

はっきりと断言しますが、草案を受け入れれば、あなた方の権力が延命します。

 

受け入れなければ、あなた方の政治生命は速やかに終焉を迎えます。

 

元帥は、日本国民がこの憲法草案、もしくは、私たちが望む諸原則が反映されていない他の憲法を選ぶ自由もあるべきだと考えておられます。」

 

 

松本烝治

「ホイットニー准将のご説明はすべて理解しておりますが、この内容ついて幣原首相と相談しなければならないので、それまでホイットニー准将に返答することはできない」

 

松本烝治

「GHQ草案の国会に関する条項で、一院制が採用されている。一院制は、日本の立法府の歴史とは全く無縁なので、なぜ一院制を採用したのか知りたい」

 

ホイットニー准将

「華族制度は廃止されることになるので、貴族院は不必要となる。

 

GHQ草案に明記されている抑制と均衡の原理によって、一院制の議会を設置するのがもっとも分かりやすい。

 

アメリカの上院は、面積や人口に関係なく各州が平等に代表を選出している。

 

人口の多い州が下院で多数を占めることを抑制するためである。しかし、日本の事情はアメリカとは異なっている」

 

松本烝治

「諸外国の多くが議会運営を安定させるために二院制を採用している。

 

もし一院制だと、ある党が多数を占めたら極端な方向に進み、また他の党が多数を占めたら正反対の方向に進んでしまう。

 

そのため、二院制を採った方が政府の政策に安定と継続性をもたらすことができる」

 

ホイットニー准将

「草案の原則を損なわない限り、マッカーサー元帥は二院制に反対されないであろう。

 

この憲法草案がこのままの状態で受諾される必要はないが、これからどのような草案が出てこようとも、このGHQ草案に盛り込まれた基本原則が書き込まれていなければ、マッカーサー元帥が承認されることは絶対にない。」

 

松本烝治

「議論は本日、話し得るところまでできたと思う。」

 

吉田外相

「この草案について幣原首相にすべて報告し、首相と閣僚の意見を聞いてから、次の会合を開きたい」

 

ホイットニー准将

「吉田外相、あなたがこの草案を他の閣僚たちに報告し、草案の条項を検討する時間を望むことは当然です。

 

元帥は、憲法改正を最優先的に検討してもらいたいと望んでおられます。

 

元帥は、憲法草案は総選挙が実施される前に日本国民に示すべきであり、国民が憲法改正について自由に意見を表明するために十分な時間が与えられるべきだと発言されております。

 

先ほど説明したように、元帥は日本政府がこの憲法案を国民に提示すれば、その時元帥自身もこの案を強く支持し、賛成の態度を公表すると言われております。

 

しかし、日本政府が提案に失敗したら、元帥が自らこの草案を日本国民に提示されます。

 

この草案は元帥ならびに連合軍の諸原則を象徴したものであり、日本政府が喜んで受け入れるべき内容です。

 

なぜなら、この憲法は、日本が自由で民主主義の国家となり得るもので、ポツダム宣言を履行する意思を表現することになるからです。」 

 

ホイットニー准将

「あなたの政治作業の助けになると思い、草案の複写を15部置いていきます。次の会談の日程は、後ほどお知らせ下さい。

 

私も部下たちも、あなた方の都合のよい日に会談できるように日時を準備しておくことを約束します」

 

吉田外相

「この案件を極秘にしておいてもらいたい」

 

ホイットニー准将

「吉田外相、これまでも秘密が守られてきたように、これからも守られるでしょう。

 

内密にしておくことは、元帥のためではなく、あなた方にとって好都合であり、あなた方を守るためでもあるのです。

 

では、みなさん、さようなら。あなた方と会合することができて感謝いたします。お返事をお待ちしております」

 

 

その後、昭和21年2月26日、閣議でマッカーサー憲法草案の受け入れを決定し、幣原首相が天皇陛下に上奏しました。

 

昭和21年3月7日、新聞紙上にて新憲法草案要綱が発表されました。

 

昭和21年4月10日、戦後初の衆議院議員の選挙が実施。

 

戦前の政友会が自由党と改名されて、鳩山一郎を党首にして出馬。

 

自由党は141議席を獲得して、第1党となったのですが、鳩山一郎は、選挙の後に公職追放されてしまいましたので、その後任として、吉田茂が党首(総理大臣)となりました。

 

 

昭和21年6月20日、帝国議会が開会されました。

今のところ、この帝国議会が、大日本帝国憲法下の最後の議会となっております。

 

この議会で、新憲法草案について審議されたのですが、最大の争点は、日本の国体についてであり、戦争放棄ではありませんでした。

 

天皇陛下を”国家元首”、あるいは”主権者”とせず、”象徴”とするのはポツダム宣言の条件に違反するのではないか? 

 

というのが最大の争点でした。

 

貴族院は昭和21年10月6日に、衆議院は10月7日に新憲法を採択しました。

(戦前の国会は、貴族院と衆議院の2院制でした)

 

昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日、新憲法が施行されました。

 

形式的に、平和憲法は、国会での審議を経て採択されたことになってます。

 

しかし、その憲法草案は、マッカーサーノートに基いて、憲法について全くの素人の占領軍の民生局スタッフ達が、わずか一週間足らずで書いたものでした。

 

しかもその原本は、もちろん英語で書かれたものになります。

 

占領中の日本では、マッカーサーに何も反論できませんでした。

 

その状況下で、やりたい放題のマッカーサーによって、平和憲法は作られていったのです。