伊藤博文の暗殺を予知して満州行きを止めようとした、高島嘉右衛門 | 誇りが育つ日本の歴史

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伊藤博文の暗殺を予知して満州行きを止めようとした、高島嘉右衛門

 

高島嘉兵衛は、千両の融通を鍋島藩に頼み込みにいきました。

 

なぜ、材木が儲けになるかというと、急に材木相場が暴騰するという読みがあったからです。

 

その読みは、巨大地震による家屋の倒壊。

 

高島嘉兵衛は、融資を受けた千両で、材木を買いあさりました。当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。

 

また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡しされることになっていました。

 

この慣習を破った者は、信用をなくして商売ができなくなる為、この約束は確実に守られました。

 

木材の現品の引き取りは5日以内。5日以内に地震が起きないと、大量に買い付けた木材を処分せきずに、高島嘉兵衛は破産となってします。

 

翌日の1855年11月11日(安政2年10月2日)、江戸の町に大地震発生。(安政の大地震)

 

当時の大学者、藤田東湖も、この時、水戸藩江戸屋敷で読書中、病床にあった母を救い出そうとして、梁の下敷きになり圧死。

 

高島嘉兵衛は、鍋島藩邸を尋ねて、倒壊した藩邸の建築工事を請け負い、前金を受け取りました。

 

次に、商談のまとまっていた材木問屋を順番に回って、残金を支払い、材木引取りの手筈を済ませていきました。

 

地震があってからわずか3日間で、材木の価格は4倍にも高騰していましたが、当初の契約通り、取引価格にて行われました。

 

さすが、信用第一の江戸商人。

 

高島嘉兵衛は、次に南部藩江戸屋敷を訪ねて、家老の楢山佐渡に会いました。

 

東北盛岡の南部藩は、鍋島藩から窮状を助けられたという経緯がありました。

 

高島嘉兵衛「白金の瑞祥寺、芝の金地院の墓石七十余基のほとんどが転倒しています。

 

このままにしていたら、南部様の御家名にもかかわりましょう。

 

地震発生からまだ40日も経っていません。この費用の全ては、手前がお引き受けいたします」と。

 

高島嘉兵衛は、南部藩家老の楢山佐渡から、南部家の暮石の修理と江戸屋敷の工事を請け負いました。

 

ただし、木材は南部領内で切り出したものを使い、そのぶんは工事費から差し引くという、南部藩にとってはお得な条件でした。

 

高島嘉兵衛は、わずか5日間で、全ての墓石をきちんと据え直して、欠けた部分はきれいに継ぎなし、苔を落として磨きをかけ、新品同様に完全に墓石を修復しました。

 

他の墓石はまだ倒れたままの状態だったのに、南部藩の墓石だけが真っ先に修復を済ませました。

 

まだ、屋敷の修復は手付かずだったのに、それよりも先に墓石の修復を行ったのです。

 

高島嘉兵衛のご先祖さまを敬う姿勢が、他の人の心を打ちました。

 

翌年の春から、盛岡で伐採された木材は、筏を組んで北上川を下り、石巻港から船積みされて、江戸の深川木場に運ばれていきました。

 

8月15日、強い台風が江戸の町を直撃。

 

この台風の影響で、深川木場の材木のほとんどすべてが海へ流れ出してしまい回収不能。

 

当時、建築工事の請負人は、天災などの不慮の事態が起きても、工事を完成しないと信用をなくしてしまい、二度と仕事は来ないという掟がありました。

 

この台風の影響で、江戸の木材相場と職人の手間賃は暴騰。高島嘉兵衛は、借金を重ねて、なんとか工事を完成することができました。

 

しかし、残った負債は2万両。

 

先見の明で、大地震が発生する前に大量に木材を購入して、大儲けをしたと思った矢先に、莫大な借金を背負うことに。

 

高島嘉兵衛は、なんとかこの借金を返済しようと思い、ある貨幣取引に手を伸ばしました。

 

それは、小判を銀貨に交換するというものでした。

 

そのカラクリは、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金の時価で売れば、公定換算率の倍以上で売ることができる。

 

そして、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる、というものでした。

 

しかし、これは違法取引。見つかったらお縄(逮捕)にかかってしまうという危険がつきまといました。

 

それでも高島嘉兵衛は、莫大な借金を早く返済したいので、この危険な闇取引にはまって行ってしまいました。

 

高島嘉兵衛は、闇取引の首謀者であるオランダ人のキネフラに、小判を銀貨に交換してほしい、と持ちかけました。

 

小判は鍋島藩から調達。鍋島藩にとっても、旨味のある話だったので、嘉兵衛の話に乗りました。

 

ただし、この闇取引が公となってしまうと、鍋島藩としても損害を被ってしまうので、「決してこちらに迷惑はかけてくれるなよ」と約束を取り付けました。

 

嘉兵衛は、この闇取引により2万両の借金を返済。

 

闇取引でかなりの利益を出した嘉兵衛でしたが、違法行為をいつまでも続けていくことはできませんでした。

 

1860年、貨幣密売の罪で伝馬町の獄舎に入獄。嘉兵衛29歳。

 

この時代、犯罪者として牢獄に入るということには、死を覚悟しなければならない過酷なものでした。

 

安政の大獄で捕らえられた政治犯は、一か月も経たないうちに獄死する者が後を絶ちませんでした。

 

なぜかというと、牢獄は約30坪の建物の中に定員百人が寝起きするという環境。

 

1畳に8人という掟が定められていました。1畳に8人なので、肩を寄せて体をすくめたり、棒のようになってジッとしていなければなりません。

 

このような生活では、いずれ病気になり死んでしまうのも無理ありません。

 

衣服も、仕送りがない限りは単衣一枚しか支給されず、食事も臭くてひどいものでした。

 

また、牢屋(ろうや)に入る時はまとまったお金を持ってきて、牢名主(ろうなぬし)に差し出さないと、半殺しにされても仕方がない、という掟がありました。

 

牢名主とは、囚人の中から選ばれて牢屋の取締りをした、囚人のかしらのことを言います。

 

牢名主に気に入られるかどうかで、まさに生死が分れるほどでしたので、まさに地獄の沙汰も金次第でした。

 

高島嘉兵衛は、胴巻きに百両の小判を隠し持って行き、牢名主に差し出しましたので、畳一枚の座る場所を割り当てられました。

 

牢名主に気に入られた高島嘉兵衛は、「易経」上下二巻をご褒美にもらいました。

 

「易経」とは、四書五経の中の一冊。

 

他に何もすることがない獄中生活なので、高島嘉兵衛は、この「易経」の本を暗誦できるまで読み入みました。

 

占いを実践するには道具が必要ですが、紙縒り(こより)を50個作って筮竹(ぜいちく)として、囚人たちを占って行きました。

 

この占いが怖いぐらいに当たりました。

 

獄中の環境が、占いの実習には最適だったのでしょう。占いの対象となる囚人たちは様々な波乱万丈の人生を送ってきた人ばかりでしたので、一般人とは波乱の度合いが違います。

 

高島嘉兵衛は、この伝馬町の獄舎で、集中力と予知能力により一層磨きをかけて行きました。

 

1865年10月10日、高島嘉兵衛、放免(釈放)。

 

1863年1月31日、品川御殿山で建設中のイギリス公使館が、高杉新作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らに焼き討ちにされました。(英国公使館焼き討ち事件)

 

1865年、オールコックの後任に来日した、イギリス公使バークスは、横浜居留地の中の二十番館のホテルに住んでいました。

 

高島嘉兵衛は、イギリス公使バークスと面会しました。

 

人脈を使ってアメリカ公使ウェンチェストンから紹介状をもらっていたので、特別に会うことができました。

 

高島嘉兵衛は、バークスに提案しました。

「横浜に公使館を建てて、しばらくここ横浜で仕事をされては如何でしょうか?」と。

 

パークス「それは名案だと思うが、公使館新築の費用はどうするのか?」

 

高島嘉兵衛「幕府も、公使館焼き討ちの件では、深く心を痛めているので、幕府に建築費用の立替を申し出て、無利息長期の年賦払いで償還なさることにしては如何でしょうか?」

 

公使館建築計画はトントン拍子に進み、高島嘉兵衛が建築を請け負うことに。

 

「日本一の大工である。日本人がこのような洋館を建てられるとは思わなかった」と、完成後にパークスから賞賛された高島嘉兵衛は、横浜の異人館を全て請け負うことになりました。

 

1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に豪華な和洋折衷の高島屋旅館を建築。(百貨店の高島屋とは無関係)

 

接待に出る男衆には、江戸幕府城中勤めの茶坊主に、髪を伸ばさせて給仕に。女衆には旧幕臣の息女や幕府大奥、また諸藩に女中奉公していた者だけを集めました。

 

容色、立居振舞、礼儀作法、それこそ超一流の本物ばかりでしたので、新政府の高官や外国公使などが常連客となりました。

 

また、常連客たちの多くは、政策の判断に迷った時は、嘉右衛門の易断を参考にしました。

 

しかし、一人だけ易を好まない人物がいました。

それは、西郷隆盛。

 

嘉右衛門は、こっそりと西郷隆盛のことを占ってみました。

もちろん本人には内緒で。

 

すると、「水地比」上六爻之を比す。首なし、と出ました。

この卦は、交わってはならない人間と交わり、命まで危うくなるというものでした。

 

それから10年後、西郷隆盛は、西南戦争にて自決。

 

1868年1月、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃。

 

これをきっかけとして、錦の御旗を掲げた、薩摩藩・長州藩・土佐藩らの官軍と幕府軍とが全面衝突。

(戊辰戦争)

 

1868年5月6日、陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)・出羽国(山形県、秋田県(北東部除く))・蝦夷地(北海道)および越後国(新潟)の諸藩が、輪王寺宮・公現入道親王を盟主とし、薩長中心の新政府軍に対抗して、「北日本」として独立するために団結。

(奥羽越列藩同盟)

 

同年7月27日、盛岡藩は、奥羽列藩同盟を離反した秋田・弘前両藩を攻撃。(秋田戦争)

 

1868年9月8日、元号が「明治」に改元。

 

仙台藩と一関田村藩は、官軍の圧倒的軍勢の前に、9月15日に降伏。

 

9月20日、盛岡藩降伏。

 

1868年12月2日、盛岡南部氏四十代の南部利剛(としひさ)は、南部氏の菩提寺である東京芝の金地院に移されて、「籠居」扱いに。

 

南部領二十万石は没収されて、不来方城は新政府軍の管轄になりました。

 

1869年(明治2年)6月付けで、南部利剛(としひさ)の子供の南部利恭は、盛岡藩士たちとともに、白石領(現、宮城県白石市)に所領代えを命じられ、白石知事に任命されました。

 

この所領代えにより、盛岡藩は13万石に格下げ。

 

旧盛岡藩士たちは、南部氏の盛岡復帰を嘆願しましたが、新政府は、その盛岡復帰の条件として、南部氏に70万両の賠償献金を要求。

 

家老だった東政図は、朝敵の汚名を返上して南部家の復権を果たすために、宮家との縁組を画策しました。

 

明治2年10月、南部利剛(としひさ)の長女、郁子は、まだ創設されたばかりの宮家、華頂宮(かちょうのみや)の博経親王と婚約。

 

しかし、この巨額な賠償金を一度に支払うことができずに、新政府に「廃藩」を申し出ました。

 

これは新政府が廃藩置県を全国的に実地する前のことであり、自己破産のようなものでした。

 

旧盛岡藩は、高島嘉右衛門に相談。飢饉の問題などもあったが、「至誠奉公の大精神」で成し遂げました。

 

これにより、旧盛岡藩士たちは、白石から盛岡に戻ることができました。

 

(明治2年)1869年7月24日付けで、南部利恭は盛岡知事に。

 

新たに盛岡藩13万石に封ぜられた領域は、岩手郡、紫波郡、和賀郡、稗貫郡の4郡でした。

 

明治2年(1869年)、9月10日、大隈重信と伊藤博文は、横浜のイギリス公使館を訪問した後、高島屋に一泊。

 

そこで、高島は、東京横浜間の蒸気機関車の鉄道計画を提案しました。

 

大隈重信と伊藤博文も、海外視察旅行で、実際の蒸気機関車を見てきたので、いつか日本にも走らせたいという願望はありました。

 

しかし、資金面など問題は山住みであり、なかなかその実現に向けた計画を実行するまでには至っていませんでした。

 

鉄道建設には、資金面の他に2つの問題がありました。

 

一つは、明治新政府の要人である西郷が反対であること。

 

西郷隆盛は、「鉄道を作るぐらいなら、その金で軍備を増強すべきだ。そのほうが先決問題だ」と主張して反対の態度を取っていました。

 

西郷さんへの説得は、ゆっくり時間をかけてすることに。

 

もう一つは、アメリカ公使館のボルメトン書記官が、江戸横浜間の鉄道敷設権を持っていたということです。

 

それは、徳川幕府の老中、小笠原壱岐守から交付されたものでした。

 

しかし、その免許状の交付日は、慶応3年11月7日。

徳川幕府の大政奉還は、慶応3年10月24日。

 

つまり、すでに日本政府代表の権限のない旧幕府の老中が、ボルメトンに免許を与えていた、ということになります。

 

「日本の鉄道は日本で経営するのが当然だ。これを外国人に経営させることは、まるで外国の植民地になるのも同様である。」と考えていた明治新政府首脳陣は、この免許状は無効であると、ボルメトン書記官に突っぱねることができました。

 

次に資金調達ですが、イギリスのオリエンタル銀行と契約を結ぶことができ、100万ポンドの公債を募集することで賄いました。

 

高島嘉右衛門に線路短縮のために、横浜港埋め立て(現在の西区野毛町~神奈川区青木町)工事の許可が出て、140日の工期を守り埋め立て完成。

 

埋め立て工事を請け負った高島嘉右衛門には、鉄道線路を除きその土地を永代拝領する権利が与えられていました。

 

しかし、高島嘉右衛門はその権利を明治政府に献上。それを称えてこの埋立地を高島町と名づけられました。

 

明治5年5月、品川、横浜間に蒸汽車は仮営業を開始

 

明治4年(1871年)、高島は、私財3万円を投じて、語学を中心にした藍謝塾を、横浜伊勢山下と入船町に開校(通称は高島学校)。

 

敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校で、英語・フランス語・ドイツ語・漢学・算術を教える外国人と日本人の教師13人でスタート。

 

高島嘉右衛門が私財3万円を投じて開校した学校ですが、わずか2年後の明治6年11月11日、神奈川県に寄贈してしまいました。

 

明治2年、横浜のドイツ領事シキウオライスは、神奈川県にガス燈に関する事業許可の申請をしました。

 

上海の道路は、でこぼこで非常に悪かったのにも関わらず、清国は道路工事を一切しようとしませんでした。

 

そこで、上海のフランス公使が、清国から道路の改修工事を引き受けて道路工事を完成しました。

 

やがて、フランス人は、取締りなどの道路管理も行うようになりました。

 

道路は公共のものです。

 

しかし、中国人が、自国の道路上でフランス人の取締りを受けることになってしまいました。

 

まさに、軒を貸して母屋を取られた状態に。

 

清国は、フランスと交渉を続けて、莫大な金を支払ってその権利を買い戻しすことになりました。

 

この上海の事例は、横浜のガス燈事業も当てはまると、高島は、神奈川の権令(知事)の井関盛良に力説しました。

 

明治5年(1872年)、ガス会社建設の権利を得て、フランス人技師を招いて日本初のガス工場、横浜瓦斯会社を建設。

 

横浜の外国人居留地外については、横浜瓦斯会社が請負うことで問題ないのですが、外国人居留地内の請負ついては問題となるので、その選定を居留者の投票で決めることとなりました。

 

スイス領事プラーノルドからの申し出がありました。

 

それは、「ある条件を飲んでくれれば、高島の会社が請負業者として選定されるようにする」と。

 

プラーノルド領事からのある条件とは、ガス製造の為の機械や材料一切のものをプラーノルドから購入するというものでした。

 

プラーノルドは、ドイツ領事シキウオライスを毛嫌いしていたので、そのような提案をしてきました。

 

明治5年(1872年)10月31日、横浜の地にガス灯が点灯。(10月31日はガス記念日)

 

1874年(明治7年)3月19日、横浜の灯台寮に行幸した明治天皇は、嘉右衛門の家の一角にあったガス局も視察し、宮内卿を通じて「ガス灯の建築は未曾有の偉業である」との意を伝えた。民間人で天皇に拝謁を許されたのは彼が最初だった。

 

1888年には、高島は、日本に亡命していた朝鮮の独立活動家、朴泳孝を別邸に住まわせました。

 

朴泳孝とは、どのような人物なのでしょうか?

 

朴泳孝は、1870年代に金玉均らと共に、日本の力を借りて清の冊封体制から独立しようと開化党(独立党)を結党。

 

朝鮮国内で独立活動を活発化させましたが、保守派の事大党の反対に遭って挫折。

 

(1884年)12月、当時、李氏朝鮮を支配していた、閔妃派から政権を奪おうとクーデターを実行しましたが、失敗。

(甲申政変)

 

その後、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。甲申政変をバックアップしていた、慶應義塾の福沢諭吉の家に居候しました。

 

高島は易の集大成として「高島易断」を発表。

 

1893年、世界宗教大会

 

明治7年1月10日、政府内で征韓論の争いに敗れた江藤新平は、横浜の高島邸を尋ねました。

 

佐賀では、征韓党と愛国公党が激しく対立していて、江藤新平が帰ると、いつ暴動が発生するか分からない状況でした。

 

高島嘉右衛門は、江藤新平の今後を占った後、佐賀行きを強く引きとめました。

 

江藤新平は、次のように答えました。

 

江藤新平「確かにそのような危険はありましょう。だからこそ、私が行かなければならないのです。

 

今の政府を転覆させ、西郷閣下を押し立てて第二の新政府を作らなければ、わが国の将来はありません。まだその期が熟していない為、若い者達の暴発を抑える為に私が行くのです」と。

 

高島「お気持ちは分かります。しかし、それはあなたの力では無理なのです。世の中の動きには、自然の流れ、時の勢いというものがあります。

 

この卦(占い)は、それに逆らうことの愚かしさを、あらわしています。あなたの一人のお力ではその流れを止めることはできないのです」と。

 

さらに高島は、江藤新平が”打ち首獄門”になると占いました。

 

しかし、江藤新平が司法卿の時、士族には打ち首獄門は適用されない、と刑法で決めましたので、この高島の占いは間違えである、と江藤新平は指摘しました。

 

高島がいくら説得しても、江東の意思は硬く、佐賀に行ってしまいました。

 

明治7年(1874年)2月、江藤新平・島義勇らをリーダーとして、佐賀の旧士族たちが蜂起。(佐賀の乱)

 

まもなく政府から派遣された軍隊により鎮圧。

 

江藤新平は、鹿児島に逃走して、征韓論に破れて下野していた西郷隆盛に決起するように頼みましたが、西郷は動きませんでした。

 

4月13日、江藤新平・島義勇らは斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにされました。

 

明治政府は、江藤新平を士族から除籍しての処刑だったので、”打ち首獄門”が適用されたのでした。

 

高島の占いが的中してしまいました。

 

明治38年5月中旬、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストクに向けて出航。

 

その航路はインド洋を周り、日本海に向けて北上するというものでした。

 

それを迎え撃つ日本海軍は、次の3つの航路を予測。

 

津軽海峡ルート、宗谷岬ルート、対馬海峡ルート。

 

宗谷岬ルートは、航路距離が長すぎるために予想から外れましたが、津軽海峡ルートと対馬海峡ルートのどちらから日本海に侵入するかは、最後の最後まで予想できませんでした。

 

もっとも航路距離が短い、対馬海峡ルートであろうという予測のもと、連合艦隊は鎮海湾にその主力を集結させて待機。

 

しかし、待てどもバルチック艦隊は現れません。

 

出航した日から計算しても、いい加減に現れても良さそうな時期になっていましたが、全く現れません。

 

秋山少将の緊張状態はピークを迎えていました。

 

「相当の時機まで敵艦を見ない時は、艦隊は随時に移動する」と、東郷平八郎司令長官の相談もせずに、勝手に大本営に打電してしまうほどでした。

 

慌てた大本営は、「なお鎮海湾に留まることを得策とする」と打電。

 

もし、バルチック艦隊がウラジオストクに逃げ込んでしまったならば、日本海軍もウラジオストクに釘付けとなり、戦争は長引く可能性がありました。

 

日本の財政状態はすでに破産寸前。

 

陸軍の予備兵も残っておらず、これ以上、戦争の継続はできない状況でした。

 

したがって、なんとしてでも、北上してくるバルティック艦隊を、日本海に入る手前で撃滅してしまう必要があったのです。

 

そのような時、伊東博文は横浜高島台の高島嘉右衛門の元を訪れました。

 

高島の占いでは、ロシア艦隊は足手まといを受けて、予定より到着が遅れていると出ました。

 

日本海軍は、バルティック艦隊の主力艦の速力で計算していたのですが、そのほかは石炭船なので、それらが足手まといとなっていると予想したのです。

 

高島「くれぐれも申し上げますが、あと二日、現在位置から動かれませぬように、閣下からもしかるべきご配慮をお願いしとう存じます」と。

 

連合艦隊はそのまま鎮海湾を動かず。

 

5月27日午前4時45分、哨戒船、信濃丸が敵艦隊を発見。

 

無線はまもなく旗艦「三笠」に伝わり、秋山参謀は、大興奮のまま、大本営へ次の電文を打電。

 

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハタダチニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日(ホンヒ)天気晴朗ナレドモ波高シ」と。

 

もし、この時、連合艦隊が鎮海湾から津軽海峡に動いてしまっていたら、どうなっていたでしょうか?

 

バルティック艦隊はウラジオストクに入ってしまい、戦争が長期化して、日本海軍は極めて不利な立場になっていたでしょう。

 

そして、戦争を継続するだけの資金がない日本は、国家が破滅していたかもしれません。

 

まさに、連合艦隊が鎮海湾を動くかどうかの判断は、日本にとって国家存亡できるかどうかの重大な判断だったのです。

 

そして、その重大な判断を高島易に委ねた伊東博文。

 

日本の国家存亡の危機は、高島易によって救われたとも言えます。

 

大正6年、秋山少将は、京都の綾部にある宗教団体、大本教本部を訪ね、その指導者の出口王仁三郎と会いました。

 

秋山少将は、出口王仁三郎が主張した大地震の予言を信じ込んでしまい、各方面にその予言の宣伝活動に回りました。

 

しかし、その地震予言は大外れ。

 

秋山少佐は、日本海軍が誇る天才参謀でした。しかし、天才と狂人は紙一重。晩年の秋山少佐は、周囲が首をひねるような言動が目につきました。

 

明治42年10月12日、伊藤博文は高島嘉右衛門を訪問し、伊藤博文の今後を占いました。

 

そこで出た易は、「艮為山(ごんいざん)の三爻」。

 

今は動かずに日本にいた方が良いと、高島嘉右衛門は伊藤博文に、再三に渡って諭しました。

 

高島嘉右衛門からの再三にわたる静止を振り切って、伊藤博文は、ロシアの蔵相ココフツェフと満州問題について話し合うために、ハルビンに向かいました。

 

伊藤博文一行は、18日に大連に到着し、20日に旅順の戦跡を訪れ、10月26日にハルピンに到着。

 

伊藤博文とロシアの蔵相ココフツェフは、特別列車の中で挨拶し、その後、歓迎式に移りました。

 

二人揃って駅のホームに降りて、ロシアの守備隊を閲兵し、各国領事団の列に近づいて握手をかわし、日本人歓迎者のほうへ向かって数歩進んだ、その時。

 

6発の銃声が鳴り響き、伊藤博文はその場に倒れました。

 

担架で列車の中に運ばれ、救急治療を受けながら、伊藤は警備兵に尋ねました。

 

伊藤「撃ったのは何という男だ…」

警備兵「名前はまだ分かりませんが、朝鮮人のようです。」

伊藤「馬鹿なやつじゃ…」

 

この言葉の数十分後、伊藤は息を引き取りました。

 

朝鮮の併合に反対していた伊藤博文。

 

伊藤が、反日朝鮮人のテロリストに暗殺されたことにより、その後まもなく、日韓併合が実現してしまいました。

 

もし、伊藤が高島嘉右衛門の説得を聞いて、ハルビンに行かずに日本に止まっていたら、どうなっていたでしょうか?

 

朝鮮は、日本に併合されることなく、日本の保護国のまま、日本からの投資により近代化して行ったことでしょう。

 

そして、朝鮮の真の独立は、日本のバックアップにより実現して行ったことでしょう。

 

また、日本にとっても、朝鮮を日本(内地)と同等(鮮内一体)として扱う必要がなくなり、莫大な予算を組んでまでして、朝鮮を日本(内地)と同等にまで引き上げるための投資をすることもなかったでしょう。

 

それは伊藤博文が、生前主張していたことです。

 

「朝鮮人と日本人は、別々の民族でありそれぞれ長い歴史がある。よって両民族が一体となり同化することは難しい。

 

それより、朝鮮が真の独立国家としてやっていけるようになるまで、しばらく日本の保護国とし、朝鮮の近代化を日本が主導していき、やがて、朝鮮が真の独立国として国家運営できるようになった時、手離すようにした方が良い」と。

 

例えていうと、親(日本)が子供(朝鮮)の成長を見守りサポートしていき、やがて、時期が来たら、子供(朝鮮)は親慣れして独立して行くのを、親(日本)が手助けする、ようにです。

 

しかし、伊藤が反日朝鮮人のテロリストにより暗殺されてしまったことにより、伊藤の朝鮮への思いとは関係なく、朝鮮は、日本の保護国から日韓併合へと流れが変わってしまいました。

 

伊藤博文の最後の言葉、「馬鹿なやつじゃ…」

 

伊藤博文は、朝鮮人テロリストによって、自分の命が奪われたことへの恨みはなかったのでしょう。

 

そんなことより、朝鮮人自らの手で、日韓併合への道を推し進めてしまったことへの嘆きの言葉だったのでしょう。

 

なぜなら、伊藤博文は、自分が朝鮮人テロリストによって暗殺されることで、日韓併合が実現してしまうことをわかっていたからです。

 

そんな伊藤博文の思いなど知る由もない韓国では、伊藤博文を葬ったテロリストを、国家的英雄として賞賛しています。

 

「当たるも八卦、当たらぬも八卦。」

 

あなたは、易経を信じますか?、それともバカにして信じませんか?

 

どちらの人でも、宇宙法則という目に見えない何かの力によって、人の運命や様々な事象が起きる、ということは、なんとなく感じている人が多いのではないでしょうか?

 

お正月に神社に初詣に行く人、家を建てる時に神主に来てもらい地鎮祭をする人、子供が7歳5歳3歳の時に、神社に行ってお祓いをしてもらう人。

 

あなたも神社に一度や2度は行ったことあるのではないでしょうか?

 

神社と易経は直接関連ないかもしれませんが、目に見えない何かを信じているという点では共通点があります。

 

日本の近代化にたくさんの功績を残した高島嘉右衛門。

 

中でも彼の残した「高島易経」は、今でも多くの人々に影響を与えています。