朝鮮の工業化を推し進めた、野口遵の生涯 | 誇りが育つ日本の歴史

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朝鮮の工業化を推し進めた、野口遵の生涯

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「朝鮮、韓国は、日帝の被害者である。このことを理解してほしい。」と、韓国政府は、繰り返し日本政府に主張しています。

 

しかし、日韓併合時代、朝鮮半島の電力供給の増強と工業化を実現するために、人生を捧げた多くの日本人たちがいました。

 

その中心的な役割を演じた人物の一人が、野口遵(したがう)(通称名(じゅん))でした。

 

彼は、東大を卒業後、独シーメンス社に勤務しますが、10年後に退職。

 

その後、カーバイド(炭化カルシウム)と窒素の化合物である石灰窒素(せっかいちっそ)を使ってチッソ肥料を作る特許を、ドイツ人のフランク博士とカロー博士から買い取りました。

 

当時、この特許を狙って、古河財閥から原敬(後の総理大臣)、三井物産から益田孝が交渉担当者として、パリにきていました。

 

野口遵は、独シーメンス社に勤めていたころの人脈を生かして、フランク博士とカロー博士を紹介してもらい、特許を買い取ることに成功。

 

2つの大財閥を抑えての成果でした。

 

明治41年(1908年)、野口は、熊本県窒素に、日本窒素肥料株式会社(日窒)(現・チッソ)を創業。

 

しかし、当時はまだ、糞尿などの有機肥料が主体で、化学肥料を使う農家はありませんでしたので、経営は厳しいものでした。

 

大正3年(1914年)7月、第一次世界大戦勃発。

 

戦争が起きると、爆薬の原料となる硫化アンモニア(硫安)やチリ硝石などの需要が急増。

 

日窒には、これらを作る技術があったので、軍需特需に湧きました。

 

大正10年(1921年)、イタリア人のカザレー博士から、アンモニアの新しい製造方法の特許を買取り、 宮崎県の延岡でアンモニア製造を開始していきました。

 

大正15年(1926年)1月、朝鮮半島の開発のために日本海を渡り、朝鮮水電と朝鮮窒素肥料を設立。

 

鴨緑江(おうりょくこう)の上流の川である、赴戦江と長津江を堰き止めて人工湖にして、水道を引いて太白山脈を通って落差の大きい日本海側に落として発電をしました。

 

昭和2年、工事中のダムが大洪水に見舞われ、甚大な被害だ出ました。工事計画が頓挫する危機に見舞われましたが、野口自身が現場にで出て陣頭指揮をとり、危機を乗り越えていきました。

 

昭和4年(1929年)10月、赴戦江ダムが竣工。20万キロワットの発電が可能となりました。

 

翌年、第二、第三の発電機が完成して、40万キロワットの発電量を誇りました。

 

この開発によって得た豊富な電力を利用して、窒素肥料を中心とした多くの化学プラント工業を建設していきました。

 

咸興の南にある名もない漁村に、当時世界第二位の規模を誇った窒素肥料、火薬マグネシウム、レンガ工場などを建設。

 

さらに冬場でも温水で給水できる近代的な社宅を建設して、18万人の人々が暮らす、工業都市を建設したのでした。

 

発電した水は、ダムの下流に1万数千町歩にも登る広大な新田を開墾することができ、また、興南工業用水としても活用されました。

 

しかし、順調に見えた野口の事業ですが、大きな危機が襲います。

 

昭和5年(1930年)、昭和恐慌に伴い、硫安が大暴落。

 

また、完成したダムの貯水量が、干ばつの影響で下がってしまい、最大20万キロワットの電力量が、わずか8万キロワットしか出せませんでした。

 

日窒のメインバンクの三菱銀行も融資に慎重になり、資金難で倒産の危機に。

 

昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破(満州事変)。

 

これをきっかけとして、関東軍がわずか5ヶ月で満州全土を制圧。

 

この満州事変に伴い、野口遵の日窒が生き返りました。

 

なぜなら、戦争が起きると、爆薬の原料となる硫安やチリ硝石が必要になるからです。

 

また倒産の危機にあった野口を協力する人が現れました。

 

当時の朝鮮総督、宇垣一重。

 

宇垣一重は、朝鮮銀行からの融資を後押しして、野口遵をバックアップしていきました。

 

なぜ、宇垣一重は、野口遵に協力しようとしたのでしょうか?

 

朝鮮の電力事業と工業化政策を進めていた宇垣一重は、満州国と共に鴨緑江開発計画を、積極的に推進していこうとしました。

 

そこで、その建設計画を実行していくために、野口遵を必要としていたのです。

 

昭和9年(1934年)、朝鮮送電を設立。

 

昭和11年(1936年)8月、宇垣一重の後任に、南次郎が朝鮮総統となりました。

 

昭和11年(1936年)10月、朝鮮で日本、満州国、朝鮮、関東軍、満鉄から50人の財界人が集まり、「朝鮮産業経 済調査会 」が開催されました。

 

この会議で、朝鮮半島の工業化についての議論がされました。

 

鴨緑江開発 は 「鮮満一如」の象徴として 計画されていきました。

 

「鮮満一如」とは、朝鮮と満州は一体であり同一であるというスローガン。

 

それに伴い、「日満一体」というスローガンも掲げられました。

 

「日満一体」とはその字の通り、日本と満州とは一体であるという意味。

 

昭和11年(1936年)12月、 「鴨緑江 ・図們江架橋に関する協定」が朝鮮総督府と満州国の間で調印。

 

この協定は、今後7年間で鴨緑江と図們江に14の橋を架設するという壮大な計画でした。

 

昭和12年(1937年)1月、朝鮮総督府と満州国との間で「鮮満鴨緑江 共同技術委員会 」設置に関する覚書が調印。

 

昭和12年(1937年)4月、南朝鮮総督は、 新たな朝鮮統治の方針と して 、「国体明徴」、「鮮満一如」、「教学作振 」、「農工併進 」、「庶政刷新 」の 「五大政綱」を発表しました。

 

鴨緑江、豆満江の流域 一帯は 、中国共産党が指導する抗日武装闘争の一大拠点でした 。

 

昭和11年(1936年)、中国共産党の指導の元、東北抗日聯軍が組織され、同年5月、金日成が、鴨緑江上流の長白県に根拠地として「在満韓人祖国光復会」を設立。

 

抗日パルチザン活動を活発に展開していきました。

 

昭和12年(1937年)6月、金日成率いるパルチザンの約90名は、鴨緑江上流の甲山郡普天堡の駐在所や官庁を襲撃。

 

水豊ダムの工事現場では、憲兵隊や警察が厳戒体制を敷いて、鴨緑江両岸にわたる大量の労働者を監督し、抗日独立運動家が作業現場に流入することを警戒しました。

 

水豊ダムの建設には、野口遵の後押しにより、間組 、西松組 、松本組が受注。

 

昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋にて日本軍と中国国民党軍が衝突。(支那事変)。

 

昭和12年(1937年)8月、鴨緑江水電を設立。

 

同年8月13日、上海にて日本海軍陸戦隊と国民党軍が軍事衝突(第二次上海事変)

 

そんな戦時色の強まっていった時期、同年10月から朝鮮総督府と満州国の援助の元、水豊ダムの建設が着手されました。

 

鴨緑江水電は、この水豊ダムの発電機を、芝浦製作所と電業社原動機製造所(現、東芝)に発注しました。

 

この発注した水車の規格は、落差82m、単機容量が105,000kWという、世界最大規模。

 

当時の世界最大容量機は、米国のボルダーダム発電所の85,000kWだったので、それをはるかに凌ぐものでした。

 

昭和16年(1941年)9月、一部の発電を開始。発電記念式が行われました。

 

昭和19年(1944年)3月、水豊ダムが水豊水力発電所(発電能力:60万 kW)と共に竣工。

 

この水豊ダムは、当時世界最大級の発電量を誇るダムでした。

 

昭和25年6月から始まった朝鮮戦争の時、この水豊ダムは、米軍機により何度もミサイル爆撃を受けましたが、ビクともせず、結局、米軍は水豊ダムの破壊を諦めました。

 

当時の日本の土木技術が、いかに優れていたかが伺えます。

 

日本統治が本格的に始まるまでの朝鮮半島の産業は、ほとんどが農業でした。

 

それが、日本統治時代、朝鮮北部を中心に大規模なダムを建設していき、その豊富な電力を背景にして、重化学工業コンビナートを建設していきました。

 

その一方、南朝鮮(現、韓国)は、従来からの農業が中心でした。

 

その結果、朝鮮半島の電力の80%は北朝鮮に、残りの20%は南朝鮮でまかなっていました。

 

当時の朝鮮総督府は、朝鮮半島が南北に分断統治されることを想定していなかったので、北と南で産業の住み分けをしていました。

 

これは、朝鮮北部が豊富な水資源に恵まれていたために、そこに、巨大なダム建設を集中していったためです。

 

このように精力的に朝鮮の工業開発のために、身を粉にして奉仕してきた野口遵ですが、無理がたたり、昭和15年(1940年)2月、京城(ソウル)にて脳溢血に倒れてしまいました。

 

一命は取り止め回復しました、半身不随となり無理はできない体となりました。

 

野口遵は、側近をベッドの枕元に呼び、次のように言いました。

 

「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。

 

自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」と。

 

昭和16年(1941年)当時、直系会社だけでも 30社,資本金総額 3億5000万円の大コンツェルン(財閥)を形成していた野口遵。

 

昭和16年(1941年)、野口遵は、その全財産を投じて、科学振興のため「財団法人野口化学研究所」を作り、そこに2500万円を寄付。

 

また、朝鮮半島学生の育英のため、それまであった「朝鮮教育会奨学部」を発展解消して「財団法人朝鮮奨学会」を作り、その基金として、500万円を朝鮮総督府に寄付しました。

 

昭和19年(1944年)1月15日、病死。享年72歳。

 

終戦後も、「財団法人朝鮮奨学会」は残り、いまも朝鮮総連(北朝鮮)と民団(韓国)の理事が3名ずつ、日本人理事3名と共に仕事をしています。

 

また、南北朝鮮、日本政府からの援助を一切受けず、自主財源で運営していて、これまでに、4万人近い奨学生を送り出しました。

 

水豊ダムは、現在の北朝鮮でも稼働しており、貴重な電力供給源となっています。

 

戦後の北朝鮮、韓国で、野口遵について学校で学ぶことはありませんので、野口遵が起こした業績を知る朝鮮人、韓国人もほとんどいないでしょう。

 

「朝鮮人、韓国人は、日帝の被害者である。このことを理解してほしい。」と、韓国政府は、繰り返し日本政府に主張しています。

 

「朝鮮人、韓国人は、日帝のおかげで発展できたのである。感謝しろとは言わないが、このことを理解してほしい。」と、日本政府は韓国政府に主張してほしいです。