満州で奴隷となり、終戦後の韓国で戦争孤児133名の母親となった日本女性。望月カズ | 誇りが育つ日本の歴史

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満州で奴隷となり、終戦後の韓国で戦争孤児133名の母親となった日本女性。望月カズ

 

 

終戦後の韓国で、「日本人は韓国から出て行け!」と怒鳴られながら、家を好き勝手に破壊されたのにもかかわらず、韓国人孤児百三十三人を育て上げた日本人がいます。

 

彼女の母、望月カズ。

 

なぜ、望月カズは、そこまでして韓国人孤児を育てようとしたのでしょうか?

 

昭和6年(1931年)の夏、カズが4歳の時に母親と2人で満州国に移住しました。いとこの辻大尉に勧められての満州への移住でした。

 

カズの父親は、満州国に仕事に行ったきり行方不明。幼いカズには父親の記憶はありませんでした。

 

東京の高円寺で生活していた家も家財道具も全て処分して、背水の陣で移住した満州。

 

辻大尉が用意してくれた家に住み始めました。その家には、中国人と朝鮮人の二人の使用人がいました。

 

2年後の昭和8年(1933年)の冬、辻大尉が人事異動で満州から離れることが決まり、しばらくして、母の近衛(ちかえ)が突然亡くなってしまいました。

 

二人の使用人は、それまで従順に家の仕事をしていたのですが、母の近衛(ちかえ)の遺体を郊外の土地に埋めると、毛皮の服や、宝石、貯金など、近衛(ちかえ)の財産全てを奪って逃げてしまいました。

 

しかも、幼い6歳のカズを中国人の農家に、農奴として売り飛ばして。

 

カズの母、近衛(ちかえ)の死因は、毒殺ともいわれていますが原因は不明のまま。しかし、近衛(ちかえ)の死んだあとの二人の使用人の行動を見れば、それは容易に予想つきます。

 

6歳のカズは、お母さんと共に、来年の春に小学校に入学するのを楽しみにしていましたが、突然、母を亡くし、財産も全て奪われてしまいました。

 

そして、奴隷(農奴)として、一年中、同じ下着一枚で生活することに。

 

他の農家に転売され、アヘン窟でも働かされました。

 

中国人農家では、日本語で話すことを一切禁止されてしまい、うっかり日本語で話すと激しく殴られました。

 

そんな生活の中、カズはお母さんから教わった自分の名前「カズ」と母の名前「近衛(かずえ)」、そして「日本」と「富士山」と「日の丸」と生まれ育った町「高円寺」という単語を、寝る前に忘れないように必ず暗唱してから寝ました。

 

そして、お母さんから教わった「ふるさと」など日本の童謡を、人に聞こえないように歌って、寂しさをまぎわらしました。

 

かずは、何度も家を飛び出して脱走を計ったのですが、その度に家の主人に連れ戻されてしまいました。

 

しかし、カズは、脱走を諦めませんでした。

 

ついに、昭和13年(1938年)の冬、脱走に成功。(カズ11歳)

 

真冬の雪深い中を歩き続けて、満州鉄道を守備している日本の憲兵隊に助けられました。

 

カズは、それまでの事情を説明すると、そのまま憲兵隊の兵舎で生活することを許されました。

 

カズは、そこに駐屯している兵隊さんから、読み書きや計算など基礎的なことを教わりました。

 

小学校に入学する直前に、突然の母の死により人生が急落していったカズですが、優しい日本の兵隊さんたちによって、何とか人間らしい生活ができるようになって行きました。

 

その憲兵隊の兵舎に15歳まで過ごしましたが、牡丹江に住む日本人の家庭にお手伝いとして働くことになりました。

 

そこで、永松晃(あきら)氏に出会います。

 

カズは、母が亡くなってからは身寄りがなく天涯孤独。満州の地で行きていくには日本人としての証明書が必要でした。

 

もともと日本で生まれ育ったカズでしたが、母の死後、満州人の農奴として奴隷生活を送っていたので、日本人として証明するものがなかったのです。

 

そこで、永松晃(あきら)氏がカズを養子として引き取りました。

 

これで、永松カズとして日本国籍が取得できました。

 

やがて、永松にも召集令状が届き戦地へ。

 

残されたカズは、永松家に残ることを選ばずに、一人、大連に働きに出かけました。

 

大連の生命保険会社に勤めていた時、勧誘のために時々立ち寄っていた理髪店で、お手伝いをするようになりました。

 

昭和20年8月15日、終戦。

 

その終戦の直前に日本に戻っていたカズでしたが、生まれ故郷の高円寺に行っても、焼け野原。

 

自分が4歳まで住んでいた場所の記憶も定かではなく、なんの手がかりも得られませんでした。

 

次に、養子になった永松の故郷である福岡に行きましたが、同じように焼け野原。無駄足でした。

 

どこにも身寄りのないカズ。

 

仕方がないので、かつて2年間、母と過ごした満州の地に行こうと決めました。

 

そして、その満州にある母の墓前で死ぬつもりで。

 

しかし、占領下の日本から海外に出ることは難しい時代。

 

在日韓国人に密航を頼み、なんとか朝鮮半島の釜山港に渡りました。

 

やっとのことで釜山港に渡りましたが、終戦後の朝鮮は、38度戦を隔ててソ連軍と米軍による軍政が敷かれていたので、38度戦を超えることはできませんでした。

 

仕方なくソウルにて、タバコを売ったり、屋台でうどんを売ったりして日銭暮らしを始めました。

 

そんなある日曜日のこと、昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮の機甲師団(戦車隊)が怒涛のごとく38度線を突破。

 

ソウル市内は、たちまち戦場と化しました。

 

カズは屋台を裏通りに隠して、身を隠していましたが、皆が逃げる漢江(はんがん)に向かいました。

 

途中、ある女性が撃たれて目の前で倒れました。その女性の胸には幼い赤ん坊が泣いていました。

 

母親は撃たれて息を引き取っても、胸に抱いた赤ん坊はまだ生きていました。

 

まるで、自分の体を犠牲にして赤ん坊を守るように。

 

カズは、思わず目の前で泣いている赤ん坊を手に取り、一緒に逃げました。

 

しばらくして、空き家が見つかりそこで手に抱いていた赤ん坊をそっと寝かしつけました。

 

翌朝、カズは、その赤ん坊を置いて出て行こうとしました。自分が生き延びるのに精一杯なので、とてもこの赤ん坊の面倒まで見れないと思ったからです。

 

しかし、立ち去ろうとしたその時、赤ん坊が目を覚まし、ニッコリ笑顔でかずの顔を見ました。

 

その笑顔を見た次の瞬間、カズはその赤ん坊を抱きかかえていました。

 

それは、カズがまだ6歳の時に、母と死に別れてしまい、孤児となってしまった時のことを思い出したからです。

 

この子も母親を亡くした孤児。私と一緒。そうだ、私がこの子の母親となり、面倒を見よう、と。

 

この時、カズ23歳。

 

翌年の昭和26年(1951年)1月、ソウルを抜け出して釜山に向かいました。

 

カズは、釜山に南下する途中の道端で、多くの戦争孤児たちを引き取っていきました。

 

釜山につくと、拾ってきたトタンなどで、バラック小屋を建てて暮らし始めました。食料は、近くの市場などから拾ってきた野菜クズなど。

 

しばらくして、釜山港で荷揚げなどの仕事を始めましたが、賃金が決まっているので、たくさんの孤児を養うにはお金が足りません。

 

そこで思いついたのが、青空床屋。

 

昔、大連で保険の外交員をしていた時代、あるお客さんの床屋で手伝いをしていたことがあったので、散髪技術はありました。

 

孤児たちも次第に増えてきました。カズは孤児たちの衣食住を賄うばかりでなく学校にも行かせました。

 

それは、カズが6歳の時に、もうすぐ小学校に行けると、母と共に胸をワクワクさせていた矢先、まさかの奴隷生活。

 

こんな辛く悲しい思いを、この子たちにはさせたくないと思ったからでしょう。

 

カズは、子供達にいつも次のようなことを言い聞かせていました。

 

いつも笑顔を忘れない。

絶対にひねくれたりしない。

 

何にも負けない強靭な精神を養う。

どんな境遇になっても、生き抜く力を身につける。

 

どんなに厳しい身の上であっても、人として大切なものを失ってはいけないよ。

 

転んでも転んでも、ダルマさんのように何度でも立ち上がりなさい、と。

 

またカズは、子供達に「ふるさと」など日本の童謡を歌って聞かせました。

 

童謡を歌うことで、親にない孤児たちの寂しさを、少しでもまぎらわしてあげようと思ったからです。

 

それは、カズ自身が6歳から11歳まで、中国人の農家の奴隷だった時、お母さんから教わった日本の童謡を歌って過ごしていたからです。

 

5月5日の端午の節句には、鯉のぼりも掲げました。

 

それは、子供たちが、たくましく立派に成長することを祈って。

 

昭和28年(1953年)7月27日、朝鮮戦争が休戦。

 

翌年の昭和29年(1954年)春、カズは釜山からソウルに引っ越すことにしました。

 

ソウルに引っ越すとバラック小屋を建てて、青空床屋を開きました。

 

そして、しばらくして、パゴタ公園の裏手にある土地を手に入れて理髪店を開くことにしました。

 

ある時、警察に連行されてしまいました。北朝鮮のスパイ容疑でです。

 

その時、カズを救ってくれたのは、子供達でした。夜、なかなか帰ってこないカズを心配して、子供達は警察の前まで行きました。

 

そこで、夜中ずっと「お母さん(オンマ)を返せ、お母さん(オンマ)を返せ」、と子供達は叫び続けました。

 

それは、冬の寒い時期でした。

 

警察はこの事態に驚いて、カズを釈放しました。

 

この事件は新聞記事にもなりました。

 

また、カズは理容師としての資格を持っていませんでした。日本人であるために、韓国で理髪師の試験を受験することができなかったからです。

 

しかし、孤児をたくさん育てているカズのことを知った、朴正煕ソウル市長の計らいで、特別にカズに受験資格が与えられました。

 

昭和38年(1963年)、無事、理髪師試験に合格することができました。

 

地元の新聞は、カズのことを「愛の理髪師」して紹介しました。

 

こうして、正式な床屋としての再出発後も、必要な生活費を稼ぐにはなかなか厳しく、カズ自身の血を売って生活の足しにしていました。

 

当時は、売血でお金がもらえたのです。

 

昭和39年(1964年)11月、ソウル市から名誉市民賞を受賞。

 

昭和40年(1965年)12月、日韓基本条約締結。

 

昭和42年(1967年)8月15日、韓国政府は日本人に「光復章」を授与。

 

昭和43年のある日、カズと子供達が生活していた家が破壊されてしまいました。

 

しかし、そこで韓国人の嫌がらせにあいました。

 

「日本人は韓国から出て行け!」と怒鳴りながら、小屋を破壊されてしまったのです。

 

カズは思いました。自分が日本人であるからいけないんだ。私のような日本人は生きていても仕方がない、と。

 

気がついたら、青酸カリを手にしていました。

 

病院に搬送されて緊急入院。

 

一命はとりとめて、無事退院。

 

昭和46年(1971年)、韓国の朴大統領は、名誉勲章・冬柏章をカズに授与しました。

 

この授賞式に出席したカズは、下駄ばきにモンペ姿という格好でした。

 

驚いた職員から、靴に履き替えるようにと指導されますが、「この他のものは持ってません。これでダメなら帰ります。」とカズは言い張り、下駄履き、モンペ姿のまま、大統領府にて受賞しました。

 

しかし、華やかな受賞とは裏腹にカズの体は無理がたたり、何度も倒れました。

 

カズは孤児たちが自立できるようにと、理容美容専門学校を作ろうと思いました。

 

日韓の支援者も集まり、昭和54年9月に上棟式が行われて、建築工事が始まろうとしていた矢先。

 

昭和54年10月、朴大統領暗殺。

 

これにより、理容美容専門学校の工事は延期されてしまいました。

 

昭和58(1983)年11月12日、カズは、ソウル市内の自宅で脳溢血のため亡くなりました。享年56歳。

 

孤児たちのための理容専門学校の開校を夢見て。

 

カズの遺体は、ソウル市郊外の一山公園墓地に葬られました。

 

カズは、生前「死ぬときは母国の土の上で死にたい。死んだら富士山の見える所に眠らせてください」と語っていたので、支援者は、カズの遺骨を分骨して日本に持ち帰りました。

 

昭和60年(1985年)4月、静岡県富士市松岡にある瑞林寺にて、日韓両国150人の関係者が立ち会いのもと、分骨式が執り行われました。

 

望月カズ氏の葬儀で、孤児の一人が次の手紙を読み上げました。

 

「お母さん(オンマ)への手紙」

 

「多くの子女を、

人に後ろ指をさされない人物に育てるために、

 

お母さん(オンマ)が血を売り、

人の捨てた葉っぱやじゃがいもの粥を食べながら

学問を継続せねばならなかった。

お母さん(オンマ)は、私たちを温室の花のようには育てず、いかなる暴風雨にも耐えうる、

根の深い木に成長させようとされた。」と。

 

参考図書

 

「この子らを見捨てられない」永松かず著1965年

映画「愛は国境を越えて」

「朝鮮を愛し朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著