日韓併合時代、足を負傷されても、朝鮮の貧しい農村を豊かにするために捧げた男 重松髜修 | 誇りが育つ日本の歴史

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日韓併合時代、足を負傷されても、朝鮮の貧しい農村を豊かにするために捧げた男 重松髜修

 

 

日韓併合当時、朝鮮人から足に銃弾を受けて重傷を負うも、朝鮮を豊かにするために人生を捧げた日本人がいました。

彼の名前は、重松髜修(まさなお)。

彼は一体、なぜそこまでして朝鮮人を豊かにするために尽力したのでしょうか?
 

明治45年4月、東洋協会専門学校(現、拓殖大学)に入り、朝鮮語科にて学びました。

 

重松は、「日韓併合によって同じ日本になった朝鮮を、立派な国にしたい。手を取り合って豊かな国土にしたい」という思いで、朝鮮語科に学びました。

 

大正4年(1915年)3月、東洋協会専門学校を卒業。朝鮮総督府の土地調査局に入り、済州島に赴任しました。

 

ここでは地籍などの作成が主な仕事で、直接朝鮮人と触れ合うことはあまりありませんでした。

 

そのような時期に、学校の先輩がたくさんいる地方金融組合の理事に誘われました。

 

大正7年(1918年)1月、陽徳金融組合に理事として赴任。

 

翌年の大正8年(1919年)3月1日、京城(ソウル)で学生や労働者たちが独立宣言を読み上げて、独立万歳、万歳と叫びながらデモ行進が発生。(万歳事件、3・1独立運動)

 

そのうねりが、重松が赴任した陽徳にも押し寄せてきました。

 

暴徒化した朝鮮人たちが、金融組合の事務所に乱入。憲兵と銃撃戦となり、重松の右太ももを貫通。

 

重傷を負いましたが、奇跡的に命は取り止めました。しかし、右足は元のようには行かず、松葉つえをついて歩くことに。

 

回復した後、平壌の金融組合に転勤となりますが、地方勤務の希望を出し、大正14年7月、江東金融組合に赴任。

 

そこでの朝鮮人の農村の貧しい実情をみて、なんとか生活を豊かにさせてあげたい、という思いを持ちました。

 

そこで、副業で養鶏をすることを提案して行きました。

 

しかし、養鶏はすでにどの農家でもやっていたので、周りの人は反対でした。ただ、養鶏といっても多くて鶏10羽、年間の卵も80個程度でしかなく、卵も鶏肉も売るのではなく、ほぼ自分たちで食べるという状況でした。

このような状況では、養鶏でお金が稼げる、という発想はなかったのです。

それでも、重松はこの養鶏を副業として普及させていくことに、希望を持ちました。

まず、豚、鶏の産卵や飼育の研究をする場所である、公立の種禽(しゅきん)場にいって、養鶏のいろはを学びました。

重松は、自分でとうもろこしを石臼で挽いて、粉状にしたものを鶏の餌にして与えました。

 

下里という50戸ほどの部落がありました。そこは両班の家柄、伝統を色濃く伝えている部落でした。両班だからと言って必ずしも皆、裕福という訳ではないのですが、生活スタイルは昔ながらでした。

 

両班の生活スタイルは、長キセルを吸いながら、一日をのんびりと過ごすというもので、労働というものを決してしません。

 

労働をする人を軽蔑しているのです。

 

貧乏になってもその生活スタイルを頑なに守っていました。

 

そのような部落に重松は目をつけました。両班の人たちに養鶏事業を理解してもらい、模範的な養鶏部落にしようと思ったのです。

 

大正14年11月、重松は、両班の部落に行くと、日本人が来たといって、嘲笑いして侮辱の眼差しで見られました。

 

そんな中、重松は、その部落の長老の家に行き、集まった近くの集落の人たちに次のような説明をしました。

 

「在来の鶏を処分して、卵を多く産む改良種に変えます。この改良種の卵は大きい。

 

産んだ卵は共同販売して、売り上げた代金はそのまま据置貯金にします。30円貯まれば牛が買える。卵から牛。豚も買えるし土地も買える。

 

まずは各家に白色のレグホンの有精卵を、無償で15個づつ配布します。」と。

 

重松の説明を聞いて、村人は反論しました。

 

「タダでやるといってもあとで金を取りに来るのだろう」

「卵を300も産む鶏がいるものか。ハッタリめ」

 

「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えばバチが当たる」

「今までの鶏で何が悪い?」

 

「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんて、そんなことがあり得るはずがない」

「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 

両班(やんばん)という特権階級の無理解と気位の高い冷たい仕打ちに、重松も返す言葉もなく退散しました。

 

重松は、同行した書記の李に次のように語りました。

 

「これから度々部落の人と接触して、誠意を披露して部落の人たちの心臓に触れ、誠の愛の手で”更生”への道に魂を蘇らすより外に方法がありません。」と。

 

長い間、特権階級の中で安住して来た両班(やんばん)の人たちの”更生”の手段としても、この養鶏事業を成功させたかったのです。

 

その後も懲りずに、重松は何度もその嘲笑いされた両班(やんばん)の部落に通いつめました。

 

大正15年2月、鶏が抱卵し始めました。重松は妻と一緒に鶏の世話に忙しい日々を送ることとなりました。

 

重松は、朝鮮での養鶏事業について次のように語りました。

 

「所詮、事業は愛の具現化であり、愛の実行である。愛が事業を産み、事業が同士を求めるのだ。

 

我々は事業がないと悲しむよりも、仕事を生み出す愛の足りないことを嘆くべきだと思った。

 

また、我々は短い人生に尊い使命を課せられて生きているのであるから、”同胞相愛”の為に、敢然立たねばならぬと思った。」と。(「朝鮮農村物語」重松髜修著)

 

”同胞相愛”。

 

これは朝鮮人と日本人のことです。

 

サイドビジネスで養鶏を勧める為の「養鶏貯金のすすめ」というパンフレットをハングル文字で作りました。

 

そこには次のように解説してあります。

「今、改良種を10羽飼えば、1日平均5個の卵を産みます。これを毎日、江東金融組合に預ければ、10年目には3500円になります。

 

10羽飼うのに必要な土地は2坪で十分です。安い黍がらで作った棚飼いにしたら、1年で百貫(約400キロ)の糞が肥料となります。

 

みなさん、農家が豊かになるには、どうでも副業養鶏から始めなければなりません」と。

 

3500円は、今の貨幣価値に換算すると約1000万円。

10年で1000万円という金額は、貧しい農村では信じられない金額でした。

 

なんども両班の部落に通いつめた重松ですが、次第に、村人の中で理解者が現れて来て、重松に考えに同調する人が増えて来ました。

 

そして、大正15年4月1日、江東金融組合と両班の下里部落との間で、養鶏模範部落規約が結ばれました。

 

その規約の中で、「卵の売却代金の10分の1以上を組合に貯金する」とありましたが、重松は原則、売上の全額を貯金するように指導しました。

 

また、理由もなく途中で引き出しも認めませんでした。

 

安易に目先のお小遣いとして引き出してしまうと、いつまでたっても目標の貯金額を貯めることができなくなります。

 

そして、牛や土地を買うこともできなくなり、貧乏な農民暮らしから抜け出すことができなくなってしまうからです。

 

もともと、重松の提唱した副業養鶏事業は、朝鮮人を貧しい農民から脱却させてあげたい、という愛そのものでした。

 

愛だからこそ、売上の全額を貯金することや、安易に引出しを認めない、という態度を貫いたのです。

 

養鶏部落規約には、「農村経済の発達を図り、”共同一致勤倹貯蓄の美風”を要請し」とありました。

 

”共同一致勤倹貯蓄の美風”とは、金融組合の精神でもありました。

 

そして、学校に通う子供たちにもこの養鶏事業の手伝いをしてもらおうと考えました。(学童養鶏)

 

そうすれば、勤労思想、貯蓄思想を学んでもらい、学童貯金もできると考えたのです。

 

それまでの学童貯金というのは、名義が子供というだけの、事実上の親の貯金でした。

 

重松は、養鶏事業を立ち上げるのに、個人的なお金1000円以上を使っていました。

 

当時の1000円は、当時、フォード社の1トントラックが1400円前後でしたので、今の貨幣価値に換算すると、400万円程度でしょうか。

 

地元新聞に、「私財と投じて副業の奨励を計る。養鶏模範部落組合を設置して努力する重松金融組合理事」と題して、重松夫妻のことが記事となりました。

 

「大正14年10月から15年中は、もっぱら種鶏の作出に努力した。

 

金融組合の施設事業となっているが、実際は、重松理事個人がすでに私財1千円以上の犠牲を払って、養鶏数百羽の飼育をなし、

 

養鶏模範部落並びに学童らに配布する種卵のごときももちろん無償で配布したのである。

 

重松夫人のごときは、重松理事の勤務中、氏の百数十羽の種鶏の世話に朝から掛り切りであって、夏季中など陽に焼けて、若き女の身空で真黒くなって重松氏を助けながらよく今日に及んだものである。

 

同氏夫妻の燃ゆるような熱と不屈な奉仕の仕事に敬意を表す」と。

(平壌毎日新聞 昭和2年5月13日)

 

昭和3年、下里の全戸で産卵が始ま李、それを孵化させて鶏を増やしていきました。

 

余った卵は、組合に持ってきてもらい市で販売。そこでもさばききれない卵は、重松夫妻の知り合いの家、一軒一軒に売り歩いて行きました。

 

持ってきた卵の代金は、組合にある通帳に記入して行きました。

 

学校に通う朝鮮人の学童は、毎日、組合に寄って卵を届けにきました。

 

次第に卵の量が増えて行き、江東金融組合だけではさばけなくなったので、平壌にある金融組合の連合会本部に、卵の販売を頼むようになりました。

 

しかし、江東から平壌まで40キロの道のりをどのようにして卵を割らずに無事届けるかが、課題でした。

 

当時はまだ舗装された道路はなく、車もあまり走っていない時代。たまにくるバスに無理にお願いして、卵を乗せてもらっていました。

 

昭和3年10月、重松は、この課題の解決法を見つけるために、愛知県安城町に視察に行きました。

 

安城町は養鶏が盛んな町で、安城高等農林学校もあり、明治36年に最初の養鶏組合もできました。

 

重松は、この安城町で、卵を割らないように工夫された荷造りの仕方の他、進んだ養鶏事業をたくさん学びとり、朝鮮の江東に戻りました。

 

そして、重松は、この視察報告の末尾に次のように書いています。

 

「農村の副業養鶏は、経済的生活の外に農村の慰安であり、農村の娯楽であります。

 

しかもまた、養鶏は自由の生活であり、土の生活であります。自由なるが故に、雛という生命を創作して安んずることができるのであります。

 

この満足は無限であります。」と。

(「金融組合」昭和4年3月、5月号)

 

昭和3年12月、ある夫人が組合にやってきて、30円貯まったので牛を買いたいと言ってきました。

 

とうとう、重松の念願であった、「卵から牛を買う」という実体験者が現れたのです。

 

彼女は養鶏を初めて1年足らず。1年で牛一頭を変えるという現実は、他の朝鮮人農家の目を輝かせました。

 

なぜなら、当時はまだトラクターなど機械がない時代。牛が、田畑を耕作する上で、重要な役割を果たしていました。

 

また、牛が出す糞が大切な肥料となり、自前で肥料を生産することができ、経費削減にも役立ちました。

 

昭和4年2月のある日のこと、副業養鶏をしている人が亡くなりました。その人には保証貸付の80円があり、43円の払込があって、残高37円の借金がありました。

 

また、養鶏貯金には、4円55銭ありました。

 

通常でしたら、土地を売り払って37円の借金を返済するところですが、重松にはそんなことはできませんでした。

 

養鶏貯金の4円55銭を使って子豚を買い、養豚と養鶏で借金を返済して欲しいと提案。

 

約7ヶ月後の10月、その未亡人は、豚の売却代金と養鶏貯金で37円の借金と利息を全て完済しました。

 

「重松理事さんのおかげで、土地を売らずに夫の債務を返済することができました。

 

これからも豚や鶏を飼って貯金をして、子供を学校に活かせるつもりです。」と、なんども何度も、重松にお礼を言って帰って行きました。

 

こうした地道な活動のおかげで、養鶏事業をする朝鮮人たちが増えて行きました。

 

そうすると卵の販路も拡大していかなくてはなりません。

 

平壌にいる金融組合連合会の斎藤理事長は、重松の養鶏事業の良き理解者でしたので、理事長自ら販路の拡大に努力して行きました。

 

平壌のレストランや病院の賄いや病院食、大会社の食堂など。

 

そして、昭和5年春、斎藤理事長と重松は、憲兵隊の紹介で平壌第77連隊に売り込みに行きました。

 

重松は、白石連隊長に次のように説明しました。

 

「朝鮮お農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と。

 

その説明を聞いた白石連隊長は、その趣旨に賛同してくれて供給契約が正式に交わされました。

 

 

ある日、小作農をして、副業養鶏もしている人が、養鶏貯金を引き出したいという手紙を、その子供が届けにきました。

 

すでに27円75銭の貯金が貯まっていましたので、牛を買いたいのかと思ったら、その人は医者になるための学費に充てたいということでした。

 

その手紙には次のように書かれていました。

 

「私は理事様の公益を広く施そうという高義に副したいと思います。私は、さる4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心しました。その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したいと思います。」と。

 

彼は36歳であり、妻と3人の子供がいました。

 

この手紙を読んで重松は、彼の決心は硬いと判断。引き出しを許可しました。

 

しばらくして、彼から感謝の手紙が届きました。

 

「卵を売って牛を買うというのは理事様の徳によるものです。卵を売って学費にできることは、理事様の徳以外の何物でもありません。理事様に感謝します。理事様に感謝します」と。

 

 

半年の勉強の後、試験を受けましたが学科試験は通っても実地試験に落ちてしまいました。さらに半年、病院で働きながら勉強を続けて、2回目の試験で見事合格。

 

彼は、卵から医生となりました。

 

重松も大喜びで手紙を書きました。

 

「自分が貧乏であったので今後は貧乏な人に進んで治療をやってみなさんの厚意に報いたいと思います。

 

伊さんは必ず人のため世のため、大いに働いてくれることと信じております。

 

部落では卵が医生になったとか、鶏が医生を産んだなどと喜んでいます。私は全く嬉しく思います。」と。

 

 

昭和5年10月、江東地区で牛の品評会が開かれました。

それまで江東地区で養鶏貯金して買った牛は、なんと50頭。

 

合計1204円。

 

それまで、牛が必要な時は、お金を払って借りていましたので、自分で牛が買えた喜びは、かけがえのないものでした。

 

昭和6年11月、江東組合で再び牛の品評会が開かれました。この時、購入された牛は235頭になっていました。

 

1年で5倍以上です。

 

この品評会で一等賞を受賞したのは、まだ16歳の尹中燮でした。

 

彼は、普通学校を卵貯金を使って通い、16歳の卒業と同時に卵貯金32円を引き出して、牛を買いました。

 

彼は、受賞者総代の答辞として次のように述べました。

 

「今の農村は世界的不況の影響を受けて、農民は生活のどん底を喘いでいます。

 

また、農村の青年たちは一足の進路を失いたる感があります。

 

しかるに我が江東はこの養鶏施設があって、学びたき人には学費を与え、牛なき小作人には耕牛資金を得させ、病魔に喘いでいる人には薬を飲ませ、

 

また土地なき人には土地を買わせるなどの事実は、生きた教訓として着々我らの目の前に展開しているのであります。

 

また勤労貯蓄の気風は、日々普及して行き、我が農村の更生の道ここにありと強く感じさせるのであります。

 

しかし、我らはこれを持って満足しないで、一層研究練磨を加えて、本趣旨に報いんことを決心するのであります。」と。

 

重松の提唱した養鶏貯金は、江東地区で花開き、多くの朝鮮人の農民たちの生活が、豊かになって行きました。

 

重松に平壌の金融組合への転勤命令が降り、江東を離れることになりました。

 

多くの地元朝鮮人から、平壌に行かないでほしいと引き止められますが、重松夫妻は後ろ髪を引かれながら、引っ越して行きました。

 

昭和20年8月15日、終戦。

 

終戦後の10月中旬、金融組合で残務整理していた重松は、京畿道警察署に呼び出されてそのまま抑留。そして平壌にある西大門刑務所に移送されました。

重松の罪状は、8月15日以降に政府や公共団体の経費を使ったためという理由でした。

38度線から南は、9月9日から米軍による軍政が敷かれており、その軍政庁と朝鮮政府の利益を害したという理由で、それまでの日本人の官僚や有力者たちが、たくさん逮捕されて行きました。

また、日本統治時代に日帝に協力した朝鮮人狩りも、反日朝鮮人たちの手により、すでに始まりました。

西大門刑務所にて重松は、なんども取り調べを受けました。

ある日、たまたま担当した検事が、重松を取り調べをしました。

検事「あなたはどこにいましたか?」
重松「はい、最初は陽徳、次に江東」

検事「あなたは「朝鮮農村物語」をご存知ですか?」
重松「はい、私が書きました」

その検事が隣にいた書記官を部屋から出して、重松と二人になると言いました。

検事「私を覚えていますか?」

その検事は金東順といい、かつて江東地区で卵貯金で学費を稼ぎ、早稲田大学で法律を学んで、朝鮮で警察官になったという人でした。

重松は、この刑務所で47日間拘留された後、釈放。

金東順は、重松に対して相当の恩義を感じていたので、重松の釈放に便宜を計ってくれたのです。

しかし、重松は監視付きでの釈放でした。

妻と幼い子供は、寒い冬の前に日本に帰国した方がいいということになり、11月26日、貨車に乗り釜山港へ。11月30日に無事、博多港につきました。

重松自身は、朝鮮を脱出する機会を伺っていました。しかし監視の目が厳しくなかなか実行に移せないでいました。

そんな中、12月27日、ソ連と米国、英国、中国との外相会談で、今後5年間朝鮮半島を信託統治するという決議が採択されました。

この決議に朝鮮人が猛反発。かつての朝鮮総督府で軍政庁となった場所で、2万人の大集会が開催されたり、朝鮮全土で抗議集会が起こりました。

この時から、朝鮮人たちによる、信託統治に賛成派と反対派の激しい対立が始まったのです。

そして翌年1月3日に、朝鮮全土でゼネストが決行されることとなりました。

ゼネストが決行されるとなると、警察関係も一切動かない日となります。

それはつまり、重松の監視の目が緩む時でした。

金東順は、この日に重松を朝鮮から脱出させるために、手配をしました。

昭和21年1月3日、予定通りゼネストが決行。重松は、金東順の手配によって釜山から日本に向けて無事脱出することができ、1月5日、山口県仙崎港に到着。

 

「朝鮮を立派な国にしたい。朝鮮と日本が共に手を取り合って豊かな国にしたい。」という思いで、東洋協会専門学校にて朝鮮語を学んだ重松。

 

しかし、万歳事件の際、朝鮮人から右足を撃たれて重傷を負ってしまいました。

 

それでも、「朝鮮を立派な国にしたい。朝鮮と日本が共に手を取り合って豊かな国にしたい。」という情熱は薄れませんでした。

 

そして、その重松の思いは、江東地区の農村で実現したのでした。

 

参考図書

「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」田中秀雄著

「朝鮮を愛し、朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

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国際留学生協会より引用