親日に変化していった朝鮮独立活動家たち | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
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親日に変化していった朝鮮独立活動家たち

 

朝鮮の独立宣言書を書いた独立活動家たちは、親日に変化していきました。彼らはなぜ、親日になっていったのでしょうか?

 

明治43年(1910年)、日韓併合。

大正7年(1918年)1月8日、米国のウィルソン大統領が、アメリカ連邦議会で「十四か条の平和原則」を演説。

その「十四か条の平和原則」の第5条には、植民地問題の公正な措置について書かれており、「民族自決」が提唱されました。

この「民族自決」とは、各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする、集団的権利となります。

この「民族自決」の思想は、朝鮮族など独立国家を持たない民族にとって、大変勇気づけられる思想となりました。

大正7年(1918年)11月11日、第一次世界大戦が終了。

在日朝鮮人たちは、海外のネットワークと連絡を取り合い、独立運動を起こす時期を見計らっていましたが、今がその時と判断。

東京の早稲田大学に留学していた李光洙(りこうしゅ)が、「朝鮮青年独立団宣言書」を作成。

この独立宣言書を日英に翻訳して、日本の貴族院、衆議院の議員たち、政府要人、各国駐日大使、内外言論機関宛に郵送。

大正8年(1919年)2月8日、在日東京朝鮮YMCA(現、在日韓国YMCA)の講堂で「朝鮮留学生学友会総会」を開催。

その集会で、「朝鮮青年独立団」を結成し、独立団代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採択。
(2・8独立宣言)

独立指導者たち11名は、その場で憲兵により逮捕。

この「朝鮮青年独立団宣言書」は朝鮮にも持ち込まれて、独立指導者たちの間で読まれました。

朝鮮では、崔南善(さいなんぜん)が「独立宣言書」作成。

大正8年(1919年)3月1日、天道教の指導者、孫秉煕(そんへいき)と、キリスト教の指導者、朴煕道(ぼくきどう)ら独立指導者33名が、京城(ソウル)市内のパゴタ公園近くの料理屋、奉和館に集まりました。

パゴタ公園には2万人の学生や労働者たちが集まり、独立宣言書を読み上げて、万歳万歳と叫び、太極旗を振りかざしながらデモ行進しました。(三・一運動、万歳事件)

料理屋にいた33人の指導者たちは、憲兵により逮捕。

事件後の指導者たちはどどうなったのでしょうか?

「朝鮮青年独立団宣言書」を作成した李光洙(りこうしゅ)は、上海に渡り、大韓民国臨時政府の樹立に参加。

独立運動家の安昌浩が、米サンフランシスコで創立した民族運動団体である、興士団(フンサダン)に参加。

『独立新聞』の社長兼編集局長を兼任し、1922年に「民族改造論」を発表。

1938年、安昌浩が逝去すると、朝鮮人たちに「民族のための親日」を訴えていきました。

李光洙(りこうしゅ)は、朝鮮人の「創氏改名」を朝鮮総督府に強く推奨して、昭和14年に実現。

昭和15年(1940年)2月から8月の手続き期間中に、李光洙(りこうしゅ)自身の名前を「香山光郎」と創氏改名。

また、徴用や徴兵については、次のように各地を演説して回りました。

「徴用では生産技術を学び、徴兵では軍事訓練を学ぶ。産業訓練と軍事訓練を受けた同胞が多ければ多いほど、韓民族の実力は大きくなる」と。
(中央日報 2009年8月21日)

1942年には、次のような学徒動員演説を行い、積極的に日本帝国軍に志願するよう呼びかけました。

「あなたが血を流した後も、日本が韓民族に良いものを渡さなければ、己が血を流し戦う」と。(中央日報 2009年8月21日)

終戦後、1948年に韓国で制定された反民族行為処罰法に基づき、日本統治時代に朝鮮発展に貢献した主要人物、有名人、知識人たちの多くが、親日反民族行為者に認定されました。

李光洙(りこうしゅ)は、親日反民族行為者に認定され、反民族行為特別調査委員会(植民支配時代の親日派を処罰するため制憲国会に設けられた特別機関)により、逮捕され投獄。

法廷で、李光洙(りこうしゅ)は次のように述べました。

「私は民族のために親日となった。私が歩んできた道が正経大路ではないものの、そうした道を歩き、民族のためのこともあるとの点をわかってほしい」と。
(中央日報 2009年8月21日)

一方、「独立宣言書」作成した崔南善(さいなんぜん)は、約2年半後の大正10年(1921年)10月8日仮釈放されました。

昭和3年(1928年)12月、朝鮮総督府の朝鮮史編修会の委員になりました。

昭和14年(1939年)、満州国の長春に日本が創設した建国大学の教授となりました。

その建国大学で崔南善(さいなんぜん)は、学生たちに次のように教えていました。

「ただ悠悠古今幾万年、茫茫東西幾千里にわたる一大領域において、特異な人文発展の足跡を訪ね、それによって道義国家の新しい文化建設にいささかでも貢献しようとするのは、学人として欣快なことであるといわざるをえない。

精神を醇化しこの理想を拡張していけば、日本の建国精神である、いわゆる光宅天下とか八紘一宇の大理想に到達することができ、

満州の建国精神も、本然の姿をたやすく体得できるであろう。

新しい理想に生きるために、古の伝統を捉えよと叫びたい」と。

満州国の建国理念を学生たちに熱心に説いていました。

また大東亜戦争について次のように教えていました。

「世界改造の重大な機会であると同時に人類の『世界』を現出させる機縁である。

英米の桎梏(しっこく)に無く、東亜十数億大衆の祈願であり、真に万邦共栄の世界秩序を確立する、アジアの解放戦争である」と。

終戦後の1949年、崔南善(さいなんぜん)は、親日反民族行為者に認定され、反民族行為特別調査委員会(植民支配時代の親日派を処罰するため制憲国会に設けられた特別機関)により、逮捕され投獄。

 

かつて朝鮮民族の独立宣言を書いた李光洙と崔南善。

 

かれらは、日帝支配に対する朝鮮の独立運動を扇動した活動家でした。

 

しかし、その後、親日に転校し、帝国軍へ志願して日帝と共に大東亜戦争を戦うべしと扇動するようになり、満州国建国を肯定して、東亜新秩序を実現するべく活動していきました。

 

朝鮮民族のための親日。

 

ただ闇雲に反日独立を訴えるのではなく、朝鮮民族が実力をつけるまでは、日帝支配の力を借りて、やがて真の独立国家を勝ち取ろうという思想に変わっていったのでしょう。

 

それは、幕末に尊王攘夷(日帝)を掲げた活動家たちが、いつのまにか倒幕(両班)に傾いていったように。

 

画像

反民特委に逮捕された李光洙

崔南善