日露戦争で立派な武勲を立てた大山巌と、米国世論を親日にしたことで大きな功績を果たした妻の捨松
日露戦争時、米国世論を親日にしたことで、日本の勝利に大きな功績を果たした日本女性がいます。
彼女の名前は捨松(幼名 さき)。
彼女は、どのような人生を送ったのでしょうか?
慶応4年(1868年)8月、板垣退助らが率いる薩長連合軍が、会津若松の鶴ヶ城に進軍してきました。(会津戦争)
まだ8歳のさきは、家族と共に鶴ヶ城に籠城。
官軍は、鶴ヶ城に向けて大量の大砲を撃ち込んできました。
善戦虚しく会津藩は官軍に降伏。
この時の官軍の砲兵隊長は、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)でした。
23万石だった会津藩は、3万石の陸奥斗南藩に封じられました。しかし、斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、実質石高は7000石足らずでした。
家臣たちの生活は困窮してしまい、山川家では末娘のさきを函館の沢辺琢磨のもとに里子に出しました。
ウイリアム・クラーク博士を北海道の札幌農学校に招請するなど、多数の外国人顧問を日本に招請した、北海道開拓使の黒田清隆は、欧米列強を視察した時、女性たちの社会進出を目の当たりにして、大変衝撃を受けました。
彼女たちは、女性であるにも関わらず、男性と堂々と意見を戦わせていたり、男性と同じ仕事をしていました。
一体、彼女たちはどのような環境で育てられているのだろうか?
日本の女性にも男性と同じように教育を受ける機会を与えることが、日本の近代化の近道であると、黒田清隆は感じました。
岩倉使節団の団長の岩倉具視は、黒田清隆の意見に賛同。使節団に男子と共に女子留学生を募集することになりました。
しかし、この募集には誰も応募してきませんでした。
なぜ、誰も応募してこなかったのでしょうか?
10年間という長い期間海外に留学してしまうと、婚期を逃してしまうというのと、女子に高等教育を受けさせるということは考えられない時代だったからです。
当時は、20歳すぎても結婚できない女性は、売れ残りと言われた時代でした。
また、太平洋航路はまだ確立していなかったので、米国への船旅は命の危険もありました。
2時募集をして、やっと5名の応募がありました。いずれも戊辰戦争の時に賊軍側になった士族の家の娘たちでした。
これには、薩長を見返してやろうという思いも見え隠れしていました。
山川さきの母えんは、娘の名前をさきから「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いで「捨松」と改名しました。
明治4年(1871年)11月12日、山川捨松がアメリカに向けて横浜港から船出した翌日、大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学。
使節団には山川捨松の他に、のちに津田塾大学を創設した津田うめもいました。
山川捨松は、全寮制の女子大学であるヴァッサー大学に学び、大学卒後後はコネチカット看護婦養成学校に通って、上級看護婦の免許を取りました。
明治15年(1882年)暮れに日本に帰国。
参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巖は、三人娘を残して先妻が病死した後、後妻を捜していました。
大山巖は、友人の結婚披露宴で出会った山川捨松に一目惚れ。
大山からの縁談の申し入れを受けた山川捨松の兄は、敵将の薩摩人との縁談など以ての外といって断りました。
それでも諦めきれない大山巌は親戚の西郷従道に頼み、山川家に説得にいってもらいました。
「山川家は賊軍の家臣である。」という捨松の兄に対して、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内である」と西郷従道は返しました。
西郷従道は、連日のように説得に尋ねていると、捨松の兄の浩は次第に軟化していき、最後には捨松本人の意見に任せることになりました。
捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と言って大山巖と会うことになりました。
捨松は、昔ながらの薩摩弁を使う大山の言葉が、全く理解できませんでしたが、英語で話し始めるととたんに会話がはずみました。
明治16年(1883年)11月8日、結婚。
明治17年、鹿鳴館が作られ、そこで連日連夜、夜会が開催されました。
捨松の社交ダンスのステップは米国帰りで筋金入りでした。当時の日本人女性には珍しく長身で、ドレスの着こなしのセンスもバッチリでした。
やがて捨松は、「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになりました。
捨松は、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。高木も看護婦の必要性は早くから認めていたのですが、財政難で実施が難しい状況でした。
そこで、捨松は、明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたってチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開きました。
捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、 3日間で当時の金額で8,000円を集めて、その全額を共立病院へ寄付しました。
この資金をもとに、2年後に日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。
明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立。
捨松は、留学中、帰国したら日本の女子教育の先駆けとなることを夢にしていたので、女子英学塾を全面的に支援しました。
留学中の友人であるアリスを日本に招き、自分たちの手で自分たちが理想とする学校を設立しました。
教育方針に第三者の意見を許さないという理由で、誰からの金銭的援助を受けずに学校運営をしていました。
捨松もアリスもボランティアとして奉仕して、英学塾の顧問となりました。
明治37年(1904年)2月8日、日露戦争が勃発。
大山巌は、参謀総長や満州軍総司令官となり、陸軍の最高責任者として国運をかけた戦争に臨みました。
捨松は、看護婦の資格を活かして日本赤十字社でボランティア活動を行いました。
また、積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えました。
捨松は留学中にキリスト教の洗礼を受けており、約10年
間の留学経験から英語力も達者であり、ヴァッサー大卒ということで、アメリカ人は、捨松の投稿を好意的に受け止めていきました。
この投稿がアメリカ世論を親日的に導くことに大いに役立ちました。
これは、のちの国民党を率いた蒋介石とその妻、宋美齢との状況とよく似ています。
宋美齢に一目惚れした蒋介石は、宗家の反対にも関わらず、諦めずにアプローチを続けてついに結婚。
そして、宋美齢も米国に10年近く留学経験があるため英語も達者であり、キリスト教の洗礼も受けています。
日中戦争当時、宋美齢がルーズベルト大統領をはじめ、議会などで国民党の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えていき、これが米国民の世論形成に大きな影響力を与えました。
米国が反日に一致団結していったのも、宋美齢一人の功績と言えます。
日露戦争当時の米国大統領は、セオドア・ルーズベルト。彼は新渡戸稲造の書いた「武士道」の愛読者であり、”親日”大統領でした。
一方、日中戦争当時の米国大統領は、フランクリン・ルーズベルト。彼は宋美齢と家族ぐるみの付き合いがあり、”反日”大統領でした。
捨松の尽力により、アメリカで集まった義援金は、アリス・ベーコンによって日本の捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用されていきました。
捨松は新聞記者の質問に対して「主人が一番好きなのは児玉(源太郎)さん、次に私、三番目にはビーフ・ステーキ。ステーキには勝てますが児玉さんには勝てません」と答弁。
おしどり夫婦として有名でした。
日露戦争における大山元帥の武功は素晴らしいですが、捨松の米国世論の形成に貢献した功績はさらに素晴らしいものでした。
日露戦争が早期に終結したのは、この親日に傾いた米国世論の影響が大きいとも言えます。
大正5年(1916年)12月10日、大山巌が病死。満75歳。
捨松は、ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)を果たしたのち、大正8年(1919年)2月18日、スペイン風邪に倒れ病死。満58歳でした。
夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県西那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。